第10話 時歪む交差点
登場人物
クロノス・アビサル:時を司る悪神。冷徹だが、知的好奇心は旺盛。
アーデン・グレゴリー・晴明: バー「クロノス」のマスター。元賢者。
一途 誠:大学生。純粋だが思い込みが激しい一面も。
都会の喧騒が嘘のように静まり返る夜。重厚な木の扉に守られたバー「クロノス」の中は、外界とは隔絶された、穏やかな時間が流れていた。古時計の振り子が規則正しく空気を揺らし、マスターであるアーデン・グレゴリー・晴明が磨き上げるグラスが、カウンターのスポットライトを静かに反射している。
その静寂を破ったのは、カウンターの隅の指定席から聞こえてくる、低く、しかし不機嫌さを隠そうともしない声だった。
「晴明よ、我輩は実に気分が悪い」
声の主、クロノス・アビサルは、今日は豪奢なベルベットのジャケットを羽織った、貴族趣味の青年の姿をしていた。その美しい顔は不機嫌に歪められ、指先で弄ぶグラスの中の琥珀色の液体が、彼の苛立ちを示すかのように揺れていた。
「このところ、我輩の領域を無断で荒らす不届き者がいるらしいではないか」
アビサルの視線の先、壁に掛けられた大型モニターでは、ニュース番組が特集を組んでいた。
『ポルターガイスト現象か? 全国で相次ぐ謎の交通事故』
アナウンサーが神妙な面持ちで語る。高速道路や市街地で、車が何もない空間に激突し大破する。しかし、通報を受けた警察や救急隊が駆けつけると、事故の痕跡は跡形もなく消え、車は傷一つない状態で発見されるのだという。運転手は一様に「何かにぶつかった」と証言するが、その記憶すら曖昧で、狐につままれたような顔をするばかり。専門家は集団催眠や新手の詐欺の可能性を指摘しているが、真相は依然として謎に包まれている。
晴明は磨いていたグラスを置き、静かにモニターを見つめた。
「…アビサル様の御業ではないと?」
「我輩がこのような雑な仕事をするものか。そもそも、我輩が力を振るうならば、元に戻すなどという無粋な真似はせん。破壊は破壊のままに、あるいは再生は再生のままに、完璧な形で完結させてこそ美しい。これは、我輩の美学に対する冒涜だ」
アビサルの言葉には、神としての絶対的なプライドが滲んでいた。彼は、自身以外の何者かが、この世界で「時」という禁断の領域に手を出していることに、純粋な不快感を覚えていた。
晴明は、その不可解な現象に、アビサルのものとは質の異なる、しかし紛れもない「時の力」の痕跡を感じ取っていた。それは、まるで制御を失ったかのように暴走し、そして何か強大な力によって無理やり元に戻されているような、歪で不自然な力の流れだった。
(術者は、この世界の理に不慣れな者か。あるいは、意図せずして力を振るっているのか。いずれにせよ、放置すれば世界の理そのものを揺るがしかねん…)
二人の間に、張り詰めた沈黙が落ちる。それは、新たな物語の始まりを告げる、嵐の前の静けさのようでもあった。
その時、カラン、とドアベルが鳴り、一人の客が店に入ってきた。
第一幕:成長した訪問者
「こんばんは、マスター」
快活な声と共に現れたのは、一途 誠だった。数ヶ月ぶりに見る彼は、以前の、失恋の痛みに打ちひしがれていた頃の面影はなく、顔つきは精悍さを増し、その佇まいには確かな自信が満ち溢れていた。質の良いスーツを身に纏い、社会人としての風格さえ漂わせている。
「おお、誠さん。これはこれは。しばらく見ないうちに、随分と立派になられて」
晴明は心からの喜びを表情に浮かべ、誠をカウンター席へと促した。
「おかげさまで、第一志望の会社から内定をいただきまして。今日はそのご報告と、お礼を言いに来たんです。あの時、マスターにいただいた言葉がなければ、俺、まだ前に進めていなかったと思います」
誠はそう言うと、深々と頭を下げた。その姿に、晴明は目を細める。
「いやいや、わしは何も。誠さんご自身の力ですよ。立ち上がると決めたのは、あなたご自身ですからな」
晴明が温かいハーブティーを差し出すと、誠は嬉しそうにそれを受け取った。カウンターの隅で、先ほどまでの不機嫌な様子はどこへやら、アビサルが興味深そうに人間観察モードに入っている。
「それで、ご報告というのはそれだけですかな? 何やら、少し興奮しておられるご様子ですが」
晴明の言葉に、誠は待ってましたとばかりに身を乗り出した。
「そうなんです! マスター、アビサル様も聞いてください! 俺、今日、見てしまったんです! テレビで噂の、あのポルターガイスト事故を!」
第二幕:交差点の白昼夢
誠は、今日の昼間に経験した出来事を、興奮冷めやらぬ様子で語り始めた。それは、最終面接へ向かう途中の、大きな交差点での出来事だった。
「青信号で横断歩道を渡っていたんです。そしたら、一台の黒い高級セダンが、交差点の真ん中で急に、何もないはずの空間に真正面から突っ込んで…」
誠の脳裏に、その時の光景が生々しく蘇る。
ゴシャッ、という、聞くに堪えない金属の破壊音。ボンネットは無残にめくれ上がり、フロントガラスには蜘蛛の巣のような亀裂が走る。エアバッグが瞬時に展開し、車は完全に沈黙した。
周囲は一瞬でパニックに陥った。悲鳴、怒号、誰かがスマホで動画を撮り始める音。運転席のドアが開き、中年男性がよろよろと降りてくる。彼は額から血を流し、何が起こったのか分からないといった様子で、ただ呆然と大破した愛車を見つめていた。
「俺も驚いて、すぐに救急車を呼ばなきゃって、スマホを取り出したんです。でも、その時…」
誠はごくりと唾を飲んだ。
「すぐ隣にいた人が、『危ない!』って俺を突き飰ばしたんです。どうやら、別の車がこっちに突っ込んできそうだったらしくて。俺は歩道に尻餅をついてしまって…。ほんの数秒だったと思います。すぐに立ち上がって、もう一度交差点の真ん中を見たんですが…」
そこにあったのは、信じがたい光景だった。
さっきまで見るも無残に大破していたはずの黒いセダンが、まるで何事もなかったかのように、傷一つない完璧な姿でそこにあったのだ。先ほど額から血を流していたはずの運転手も、平然とした顔で運転席に座り、不思議そうに首を傾げている。
「周囲の人たちも、みんな『あれ?』って顔をしてて。『夢でも見てたのか?』『さっきの、見間違いだったのかな』なんて声が聞こえてきて…。でも、俺は確かに見たんです! あの車が、ぐしゃぐしゃに壊れるのを!」
誠は熱弁を振るう。
「その時、ふと思ったんです。これって、マスターが以前話してくれた『時を操る力』なんじゃないかって。まるで、事故が起こる数秒前に、時間が巻き戻ったみたいでした」
誠の言葉に、晴明の表情が引き締まる。そして、カウンターの隅で退屈そうに聞いていたアビサルの目が、初めて妖しい光を宿した。
第三幕:賢者の推察と神の不機嫌
誠の生々しい証言は、晴明の中にあったいくつかの仮説を確信へと変えた。
「誠さん、貴重なお話をありがとうございます。…どうやら、これは単なる都市伝説や集団催眠の類ではなさそうですな」
晴明は静かに、しかし重々しく言った。
「その現象から察するに、術者は意図して時間を戻しているわけではなさそうだ。むしろ、何か事を起こすたびに、強制的に『修復』されてしまう…そういう呪いのようなものに縛られているのかもしれません」
「呪い…ですか?」
「ええ。そして、その力は極めて不安定。制御できていない。だからこそ、現実世界にこのような歪みを生じさせている。…誠さん、これは非常に危険な事象です。面白半分で首を突っ込むべきではない。あなたの成長したお姿を見られただけで、わしは満足ですから」
晴明の真剣な眼差しに、誠も事の重大さを悟ったようだった。「はい、肝に銘じます」と頷き、彼はバーを後にした。
客が去り、再び静寂が戻った店内。しかし、その空気は先ほどとは比べ物にならないほど緊張をはらんでいた。
アビサルが、静かに口を開く。その声は、温度というものを一切感じさせない、絶対零度の響きをしていた。
「許せん」
一言、そう呟いた。
「我輩の他に、この聖域で時を弄ぶ者がいるとはな。それも、これほどまでに無秩序で、力の制御もままならぬ未熟者が。我輩は時を司る唯一の存在ではなかったというのか? この世界の理にも、我輩と同様の神がいたというのか…?」
アビサルの周りの空気が、彼の怒りとプライドの交錯によって奇妙に揺らぐ。それは、自らの領域を荒らされたことへの怒りであると同時に、未知の同類に対する神としての純粋な好奇心と、そして侮蔑が入り混じった危険な感情だった。
晴明は、アビサルの言葉に冷静に思考を巡らせる。
「この世界にも、時を司る神が…? 我々が知らぬだけで、古来よりこの地に鎮座する土着の神々の中に、そのような存在がいたとしても不思議はありますまい。しかし、もしそうならば、何故今になってこれほどまでに不安定な形でその存在を示すのか…」
エピローグ:追跡の序章
晴明は、アビサルの複雑な感情を見透かすように、静かに言葉をかけた。
「アビサル様、もしこの世界に古来の時の神がいるのなら、まずはそれを知る他の神々に話を聞くのが筋道というものでしょう。我々がこれまで出会ってきた神々ならば、何か知っているやもしれません」
「…フン。我輩が他の神に教えを乞うだと? 笑わせるな」
アビサルは一度はねのけたものの、すぐに口の端を吊り上げて不敵に笑った。
「だが、面白い。我輩という存在がありながら、時の理を独占しようなどと考える愚かな神がいるのなら、その顔を拝んでやるのも一興。まずは、我輩の力をその身に刻み込んだ、あの雷神あたりから話を聞いてみるとしようか。奴もこの地の神の一柱。何か知っているやもしれん」
晴明は、アビサルのその言葉を待っていたかのように頷いた。
「賢明なご判断です。では、最初の目的地は雷鳴村ですな。まずは、あの雷神殿への聞き込みから始めるとしましょう」
「ククク…面白い。我輩が他の神について嗅ぎ回ると知れば、奴らはどんな顔をするだろうな。あるいは、我輩自身が犯人だと疑われるか。いずれにせよ、退屈せずに済みそうだ」
アビサルの楽しげな笑い声が、バー「クロノス」の静かな夜に響き渡った。
それは、やがて二つの世界を巻き込むことになる、壮大な物語の始まりを告げるファンファーレだった。
(第10話 完)
お読みいただき、ありがとうございます!
ゲーム開発で連載が止まってしまっていましたが、
一区切りついたので再開しました。
1話完結から新たな展開を迎え、
これまでの総決算として話は続いていきます。
今後の展開にもぜひご期待ください。
原作が気になった方はウェブサイトを覗いてみていただければと思います。




