バー・クロノス外伝三話 流れる時の対決 - 時の神VS水神
登場人物
クロノス・アビサル:時を司る悪神。冷徹だが、知的好奇心は旺盛。
アーデン・グレゴリー・晴明: バー「クロノス」のマスター。元賢者。
瀬織津姫:大河の守護神。水流・浄化・災厄払いの力を持つ。自然の秩序を重んじる誇り高い女神。
舞台
岸辺の古い集落、水の神を祀った古社。
時は流れる。
水もまた流れる。
共に止まることなく、共に形を変えながら、
時は目に見えず、水は手に触れられる。
異なる存在でありながら、その本質は似ている。
どちらも世界を形作り、どちらも生命の源となる。
しかし、二つの流れが交わるとき、
調和も生まれれば、混沌も生まれる。
初夏の柔らかな日差しが水面を照らす午後、大河の流れは穏やかに途絶えることなく続いていた。岸辺には古い集落が広がり、水車がゆっくりと回転し、人々は平和な日常を送っていた。集落の奥まった場所には、苔むした石段を登った先に古社があり、そこには水の神・瀬織津姫が祀られていた。
その静謐な風景の中に、一人の旅人が現れた。黒い外套をまとい、鋭い眼差しを持つその男は、集落の住人たちとは明らかに異質な存在だった。クロノス・アビサル—時を司る神は、また新たな気まぐれな旅の途中だった。
アビサルは河岸に佇み、空を見上げていた。ここ数日、雨が続き、大河の水位は明らかに上昇していた。彼の目には、人間には見えない時の流れと共に、水の流れの変化も鮮明に映っていた。
「このままでは危ういな」アビサルは静かに呟いた。「水量が増し、流れが速くなっている。放っておけば、いずれこの村も洪水に呑まれるだろう」
彼は手を伸ばし、指先で空気を切るような仕草をした。目に見えない糸を操るように、彼の指が動くと、不思議なことが起き始めた。
「少し流れを変えてやるか……」アビサルの唇に微かな笑みが浮かんだ。「時の力で逆流させれば、水位も下がるだろう。さて、どうなることか。」
第一幕:川の異変
最初に気づいたのは子供たちだった。
「おかしいよ!魚が逆さまに泳いでる!」
「見て見て!水車が逆に回ってる!」
子供たちの声に、大人たちも川に目を向けた。そこには信じがたい光景が広がっていた。川の流れが逆行し始めたのだ。上流へと向かって水が流れ、魚は混乱したように上下逆さまになり、岸辺の小舟は紐を引っ張られるように上流へと滑り始めた。
村の長老・健三は古社への石段を必死に上り始めた。彼は瀬織津姫に仕える古社の世話役であり、六十年以上にわたり水神に祈りを捧げてきた。
「これは、神の怒りか…それとも…」長老は石段の途中で、黒装束の男—アビサルが川に手をかざしている姿を見つけた。「あの男…何をしている?」
そこには異様な光景が広がっていた。アビサルの周囲だけ、空気が歪み、時間の流れが目に見えるかのように光の粒子が渦巻いていた。彼の手の動きに合わせ、川の流れが操られていた。
村人たちは恐怖に包まれ、古社へと避難し始めた。中には家財道具を持ち出す者もいた。彼らの不安げな声が村中に広がった。
「これは洪水の前触れか?」
「水神様のお怒りだ!」
「いや、あの旅人が何かをしている!」
古社では、長老を先頭に村人たちが必死に祈りを捧げていた。古社の本殿は小さいながらも格式高く、青い石で装飾された祭壇には清らかな水が供えられていた。長老は古い祝詞を唱え、若い巫女たちは水の舞を舞った。
祭壇の水が震え始めたのは、祈りが最高潮に達した時だった。水面から霧が立ち上り、その霧が渦を巻き始める。霧は青白い光を放ち、やがて人の形へと変化していった。
そこに現れたのは、水のように流れる青い髪を持つ美しい女神だった。瀬織津姫は厳かな青白い装束をまとい、その指先からは澄んだ水が滴り落ちる。彼女の瞳は深い湖のように深く、その眼差しには怒りと悲しみが混ざり合っていた。
「我が流れを乱すものは誰か」瀬織津姫の声は小川のせせらぎのように澄んでいたが、その底には激流の怒りが潜んでいた。
彼女は本殿から出て、神域の外に立つアビサルを一瞥した。二つの神の視線が交わった瞬間、空気が震えた。
第二幕:女神の怒り
瀬織津姫は神域を出て、アビサルの前に立った。彼女の周囲には細かな水滴が宙に浮かび、光を反射して小さな虹を作っていた。
「汝、何者か」彼女の声は冷たくなっていた。「我が流れを乱し、我が民を恐れさせるものよ」
アビサルは軽く肩をすくめた。「退屈しのぎ…ではない。ここ数日の雨で水位が上がっている。このままでは村が洪水に呑まれるかもしれないと思って、流れを逆にしただけだ。人間のためを思ってのことだよ」
瀬織津姫は静かに首を振った。「洪水もまた、自然の摂理の一部。時に水が溢れることで、大地は潤い、土地は新たな恵みを得る。人の都合だけで流れを変えることが、必ずしも善とは限らぬ」
アビサルは余裕の表情を崩さなかった。「クロノス・アビサル。時を司る神だ。あなたの…『流れ』というものに、少し興味を持っただけだよ」
「時を司る神?」瀬織津姫の眉が寄った。「だからといって、我が領域を侵し、自然の秩序を乱す権利があるとでも?」
アビサルは軽く肩をすくめた。「永遠を生きる身には、ちょっとした気晴らしも必要だろう?水の流れを逆にしたところで、大した問題じゃない」
瀬織津姫の周りの水滴が凍りつき、鋭い氷の粒となった。彼女の怒りは温度まで変えたのだ。
「大した問題ではない?」彼女の声は今や冬の川のように冷たく澄んでいた。「汝は分かっていない。水の流れは自然の摂理、生命の源。それを乱すことは、この地に生きる全てのものの秩序を崩すこと」
アビサルは退屈そうに空を見上げた。「自然の摂理?秩序?それらは時の前では無意味だ。時は全てを飲み込み、全てを変える。川も、山も、海も、いずれは時の流れの中で形を変える。私はただその過程を少し早めただけだ」
瀬織津姫の表情が厳しくなった。「汝の傲慢さには驚かされる。力があるからといって、それを無秩序に振るえば良いというものではない」
「傲慢?」アビサルの目が鋭く光った。「千年、万年と変わらぬ流れを守ることこそ、傲慢ではないか?変化を拒み、古い秩序に固執する…それは進化の否定だ」
両者の間に緊張が高まる。アビサルの周囲では時間が歪み、瀬織津姫の周りでは水が踊っていた。
「では、勝負だ」瀬織津姫が突然言った。「水の流れを制する者が、この地の支配権を得る。汝の時間の力と、我が水の力、どちらが優れているか試そうではないか」
アビサルは興味を示した。「面白い。受けて立とう」
瀬織津姫は腕を大きく広げた。「まずは、見るがいい。これが水神の力だ」
第三幕:大洪水の脅威
瀬織津姫の腕が大河に向かって伸びる。彼女の指から青白い光が放たれ、川へと流れ込んだ。最初は川面に小さな波紋が広がっただけだったが、次第にその波紋は大きくなり、やがて水面が盛り上がり始めた。
「おお、山の神々よ、おお、海の神々よ、我に力を」瀬織津姫の祈りが空に響く。
天候が急変した。晴れていた空が暗雲に覆われ、遠くで雷鳴が轟いた。大粒の雨が降り始め、それは瞬く間に土砂降りとなった。
大河の水位が急速に上昇し、川幅が広がっていく。岸辺の樹木が水に飲まれ、低地にある家々に水が迫る。村人たちは高台へと避難を始め、悲鳴や叫び声が集落に響き渡った。
「これが水の力、自然の力だ」瀬織津姫の声は今や怒濤のように荒々しかった。「時を操る者よ、この力を止められるか?」
アビサルは挑戦を受けて立った。彼は両手を広げ、時の力を解放する。彼の周囲で光が歪み、時間の流れが可視化されたように、金色の光の糸が空間を満たす。
「時よ、逆行せよ」アビサルが命じる。
彼の力が広がり、雨滴が宙に止まり、やがてゆっくりと上昇し始めた。雨が天に戻り、川の流れが緩やかになる。洪水は一時的に収まりかけた。
しかし、瀬織津姫は諦めなかった。彼女はさらに力を込め、洪水を押し進める。「水は時よりも強し。水は岩をも砕き、山をも削る」
アビサルもまた力を強めた。「時は水よりも強し。時は全てを風化させ、全てを忘却の彼方へと追いやる」
二つの神の力が衝突し、村の上空で奇妙な現象が起きる。雨は上に戻りながらも落ち、川の流れは順流と逆流が同時に起こり、混沌とした渦が生まれた。水と時の境界線で、自然の法則が乱れ始める。
集落の人々は恐怖に震えながら、この超自然的な戦いを目撃していた。家々が水に浸され、農地が流され、生活の基盤が脅かされていく。しかし、二人の神は戦いに熱中するあまり、人々の苦しみに目が向かない。
「私の力は地球創成の時からのもの。水が地上に現れる前から、時は存在していた」アビサルは主張する。
「我が力は生命の源。時があっても、水なくして生命は生まれぬ」瀬織津姫は反論した。
両者の力は拮抗し、その結果、自然の摂理そのものが崩れ始めていた。草木は一瞬で成長しては枯れ、動物たちは混乱して逃げ惑う。空は昼と夜が交錯し、水は蒸発と凝縮を繰り返した。
この混沌の中、村の長老・健三が村人たちを率いて、古社に集まっていた。彼らは神々に祈りを捧げようとしていた。
第四幕:村人たちの祈り
古社では、長老を中心に村人たちが集まっていた。子どもたちは怯えながらも、小さな手を合わせて懸命に祈っている。老人たちは昔から伝わる祝詞を唱え、若者たちは供物を準備していた。
「水の神様、時の神様、どうか私たちをお守りください」村の子どもたちの純粋な祈りが、混沌とした空気の中に響く。
長老・健三は古社の前に立ち、震える声ながらも力強く宣言した。「我らはこの地に千年以上住み続けてきた。瀬織津姫様の恵みの水とともに。どうか争いを止め、元の平和な日々をお返しください」
アビサルと瀬織津姫は、その祈りの声に一瞬、戦いを止めた。特に瀬織津姫は、彼女を信仰してきた村人たちの姿に心を動かされる。
「我が民が…」彼女は呟いた。「彼らは恐れている…」
アビサルも村人たちの姿を見て、何かを感じたようだった。特に子どもたちの純粋な祈りの姿に、彼の冷たい目に一瞬、温かさが灯った。
「彼らは時の流れの中で生きる儚い存在」アビサルは静かに言った。「しかし、彼らには我々にはないものがある」
「何?」瀬織津姫は問うた。
「共に生きるという選択。そして、未来への希望」アビサルの言葉は意外にも哲学的だった。
この時、一人の小さな女の子が二人の神に向かって歩み寄ってきた。彼女の名は美咲、わずか七歳だが、村では「水の子」と呼ばれ、将来は巫女になると言われていた子どもだ。
「お願いです、喧嘩はやめてください」美咲の声は小さいながらも、不思議な力を持っていた。「私たちの村を助けてください」
美咲の純粋な願いが、二人の神の心に響いた。彼女の瞳に映る恐怖と希望は、永遠を生きる神々にさえ、何かを思い起こさせる力があった。
アビサルは初めて自分の行動が引き起こした結果に責任を感じた。彼の「退屈しのぎ」が、これほどの混乱と恐怖を生み出すとは思っていなかった。永遠の時を生きる神にとって、人間の命の短さと儚さを実感する瞬間だった。
瀬織津姫もまた、自らの怒りが無実の民を危険に晒したことに深い悔恨を覚えた。彼女は水の神として人々を守るべき存在であったはずが、その力で人々を脅かしていたのだ。
「私の…過ちだった」アビサルが静かに認めた。「時を操る力を、こんな形で使うべきではなかった」
「我もまた…」瀬織津姫は頷いた。「怒りに任せて力を振るうべきではなかった」
二人の神は互いを見つめ、初めて理解し合えた気がした。時と水、一見相容れない二つの力も、根底では繋がっているのかもしれない。
「流れを元に戻そう」アビサルが提案した。「だが、私一人では…」
「共に」瀬織津姫は手を差し伸べた。「時と水が協力すれば、新たな奇跡も起こせるはず」
アビサルは瀬織津姫の手を取った。その瞬間、二つの神の力が交わり、新たな光が生まれた。
第五幕:和解と奇跡
時の神と水の神の手が重なると、金色と青色の光が交わり、美しい翠色の輝きとなって広がった。二人の神は互いに力を合わせ、混沌とした自然を元の調和ある状態へと戻し始める。
アビサルは時を操り、破壊された家々を元の状態へと戻していく。時間を逆行させ、壊れた柱が再び立ち、崩れた屋根が元通りになる。瀬織津姫は水を制御し、あふれた川を元の流れへと導いていく。濁った水が澄み、溢れた水が穏やかに川底へと戻る。
二人の神の力が完全に調和したとき、大河の上に幻想的な光景が現れた。水面が鏡のように静まり、その上に時の光が映る。過去と未来が交錯する映像が水面に浮かび、村の歴史と将来が同時に映し出された。
「これは…美しい」長老・健三は涙を流した。「水と時の調和…」
村人たちは畏敬の念を持って、その光景を見つめた。子どもたちは歓声を上げ、老人たちは祈りを捧げる。恐怖は去り、驚きと感動が村を包み込んだ。
そして、最も驚くべき奇跡が起きた。大河の水面に、一斉に蓮の花が咲き始めたのだ。青と金の光を放つ不思議な蓮は、誰も見たことのない美しさだった。花びらは時間の流れを映し、花芯は水の輝きを宿している。
「時と水が生み出した蓮…」瀬織津姫は感嘆の声を上げた。「生命の象徴であり、永遠の象徴でもある」
アビサルも静かに頷いた。「時は破壊するだけではなく、創造することもできるのだな」
村人たちは大河に降り、奇跡の蓮を手に取った。不思議なことに、その蓮は枯れることなく、手から手へと渡っていった。
「この蓮は『時水蓮』と呼ぼう」長老が提案した。「時と水の神々が和解した証として」
村人たちは歓声を上げて同意した。この日の奇跡は、後に「時と水の奇跡」として語り継がれることになる。
アビサルと瀬織津姫は、村人たちの喜びを見つめながら、静かに対話を続けた。
「汝の力は確かに偉大だ」瀬織津姫は認めた。「時の流れには、水でさえ逆らえない」
「いや、あなたの力もまた驚異的だ」アビサルも素直に答えた。「水の持つ生命力、浄化の力は、時でさえも影響を受ける」
二人の神は互いを新たな目で見ていた。対立から理解へ、敵対から尊敬へと変わっていく。二つの力が調和することで、単独では生み出せなかった奇跡が起きたのだ。
「またいつか、別の形で力を合わせられるとよいな」瀬織津姫は微笑んだ。
「そうだな」アビサルも珍しく穏やかな表情を見せた。「永遠の時を生きる身には、良き友も必要だ」
夕暮れが訪れ、大河に夕陽が映る。時水蓮は夕陽を浴びて、より一層美しく輝いていた。村は平和を取り戻し、人々は日常を再開する準備を始めていた。
アビサルは村を去る前に、最後に瀬織津姫に言った。「君の神域での出来事は、私の中で長く記憶されるだろう」
瀬織津姫は頷いた。「水の記憶のように、永く流れ続けるといい」
二人の神は別れ、アビサルは旅を続けるために村を後にした。彼の心には、これまでにない感覚が生まれていた。
エピローグ:賢者の洞察
バー「クロノス」の静かな店内で、マスターの晴明はグラスを磨きながら、アビサルの話に耳を傾けていた。
「水の神との対決、そして和解か…」晴明は微笑みながら言った。「珍しいな、お前が誰かと和解するとは」
アビサルは杯の中の酒を見つめていた。「あれは特別なケースだ。彼女には…敬意を払うべき力があった」
「敬意?」晴明は意外そうに眉を上げた。「お前が他の神に敬意を払うとは、世も末だな」
アビサルは眉をひそめた。「からかうな。単に力量を認めただけだ」
晴明はグラスを置き、アビサルの前に座った。「しかし、お前は学んだのではないか?破壊ではなく創造を。対立ではなく調和を」
アビサルは何も答えなかったが、その沈黙は肯定を意味していた。
「神の役割とは何だろうな」晴明は問いかけるように言った。「力を持つということは、責任も持つということだ。特に時を操る力は、最も大きな責任を伴う」
「うるさいな」アビサルは不機嫌そうに言ったが、その目には以前のような冷たさはなかった。「次は山の神に会いに行くつもりだ。どんな力を持っているか、興味があるんでな」
晴明は苦笑した。「また騒ぎを起こすなよ…」
「約束はできない」アビサルは立ち上がった。「だが、今回学んだことは…忘れないさ」
晴明はアビサルの背中を見送りながら、小さく微笑んだ。時の神は少しずつではあるが、確実に変わりつつあった。永遠を生きる存在にとって、変化はとてもゆっくりとしたものだ。しかし、その小さな変化は、やがて大きな流れとなるだろう。
時は流れ、水もまた流れる。
異なる神々の力が交わるとき、
破壊も生まれれば、創造も生まれる。
対立から調和へ、敵対から友情へ。
時と水が織りなす永遠の物語は、
こうして新たな一章を刻んだのだった。
(外伝三話 完)
お読みいただき、ありがとうございます!
外伝も気づいたら三話目です。
時の神様の気まぐれはどこに行き着くのでしょう。
今後の展開にもぜひご期待ください。
原作が気になった方はウェブサイトを覗いてみていただければと思います。




