第一話 締め切りと無限の原稿用紙
登場人物
アーデン・グレゴリー・晴明:バー「クロノス」のマスター。
クロノス・アビサル:謎の人物。
夏目 漱一郎:売れない小説家。
前書き
異世界から現代(?)にやってきた時の神と賢者の二人、果たして何が起きるのか。原作の王道ファンタジーからのスピンオフ小説、バー「クロノス」を舞台に、神の遊びの目的は・・・。
異邦のバーテンダーと気まぐれな神
夜の帳が下りた大都会の一角、古い雑居ビルの地下にそのバーはあった。看板もなく、知る人ぞ知る隠れ家 ―― バー「クロノス」。
マスターを務めるのは、アーデン・グレゴリー・晴明。かつて異世界で賢者として王家に仕え、一族の没落と共に最愛の孫と辺境へ逃れた過去を持つ。
元の世界に残してきた目に入れても痛くないほど可愛がっていた孫の翔のことは、今はもう手の届かない遠い記憶の彼方だ。あの聡明な翔のことだ、きっと立派に成長しているだろう。わしが教えた賢者の基礎くらいは、もう身につけているかもしれんな…そんな詮無いことを考えては、グラスを磨く手に力が入る。
全ては、気まぐれな時の神アビサルの戯れによって、この日本と言う辺境の小国にどこか似た異世界へと連れてこられた結果だった。
晴明は磨き上げたグラスに琥珀色の液体を注ぎながら、静かに息を吐いた。カウンターの隅では、アビサルが今日の姿 ―― どこかの出版社の若手編集者のような、理知的な雰囲気の青年の姿で、タブレット端末に映るニュース記事に目を細めていた。
「おや、アビサル様。今日はまた、ずいぶんと実直そうな若者の姿ですな。何か新しいお考えでも?」
晴明が声をかけると、アビサルはタブレットから顔を上げ、わざとらしく肩をすくめた。
「ふむ、実直、か。賢者の末裔にそう言われると、何やら裏があるように聞こえるな。まあ、たまにはこういう役回りで人間を観察するのも一興かと思ってね。君と違って、私は少々飽きっぽいのでな」
その言葉には、姿を変えない晴明への軽い皮肉が込められているのを、晴明はいつものことと受け流した。
「人間の欲望とは、いつの世も変わらぬものだな。特にこの『締め切り』という概念は、実に面白いプレッシャーを生み出すようだ」
アビサルはそう呟くと、悪戯っぽく片目をつぶり、ふらりと席を立った。晴明は何も言わない。この神が何かに興味を持つと、ろくなことにならないのが常だからだ。
案の定、深夜も更けた頃、アビサルは一人の男を連れて戻ってきた。男は年の頃なら四十代半ばだろうか、くたびれたスーツに無精髭、そして何よりその瞳には深い疲労と焦燥の色が浮かんでいた。名は夏目漱一郎。アビサルに腕を引かれるまま、おぼつかない足取りでカウンター席に腰を下ろした。
第一幕:焦燥の吐露
「…何か、強い酒を」
漱一郎の声は掠れていた。晴明は黙って頷き、シェイカーを手に取る。氷の奏でる涼やかな音が、重苦しいバーの空気をわずかに震わせた。
「初めてのお客様ですね。私はここのマスター、晴明と申します」
「…夏目だ。夏目漱一郎…しがない物書きだよ」自嘲するような笑みが、その口元に浮かんだ。
横からアビサルが、わざとらしいほど快活な声で口を挟む。
「夏目先生は素晴らしい才能の持ち主なんですよ!ただ、近頃少々スランプ気味でいらっしゃるようでしてね。編集部も先生の新作を心待ちにしているんですが、どうもあの石頭の編集長がプレッシャーをかけすぎているようで…」と、早くも遠回しな皮肉を飛ばす。
晴明が差し出したギムレットを、漱一郎は震える手で受け取った。一口、二口と喉に流し込むと、アルコールが回ったのか、堰を切ったように言葉が溢れ出した。
「書けないんだ…一行も書けない!頭の中には、確かに傑作があるはずなんだ!それなのに、この指はそれを紡ぎだすことができない!締め切りは…もう、そこまで来ているというのに!」
新作へのプレッシャー、過去の成功の呪縛、そして何より、才能の枯渇への恐怖。漱一郎は、グラスを握りしめながら、心の奥底に溜め込んだ澱を吐き出し続けた。
「担当編集は何も分かってない!『先生のペースで』とか言いながら、目が笑ってないんだよ!編集長に至っては、『まだか、まだ書けないのか』と、まるで借金の取り立てだ!あげくの果てには、ネットの連中ときたら…!好き勝手なことばかり書きやがって!『夏目漱一郎は終わった』だの、『一発屋』だの…!あいつらに何が分かるって言うんだ!」
激昂し、テーブルを叩きそうになる漱一郎を、晴明が静かに制した。
「夏目様。お気持ちは察しますが、少しお言葉が過ぎるかと。読者あっての物書きではございませんか」
その落ち着いた声に、漱一郎はハッとしたように顔を上げ、バツが悪そうに俯いた。
「…ああ、すまない。つい、取り乱してしまった。マスターの言う通りだ。言い過ぎた…」
それでも、彼の内なる葛藤は収まらない。
「時間さえあれば…!あと数日、いや、数時間でもいい!時間があれば、きっと書けるはずなんだ!」
(時間か…翔にも、もっと多くの時間を共に過ごしてやれれば、賢者としての道も、もっと深く教えてやれたのかもしれんな…)晴明はふと、遠い世界の孫に思いを馳せた。
その言葉に、アビサルがピクリと反応したのを晴明は見逃さなかった。一通り語り終えた漱一郎は、ぐったりとした様子でカウンターに突っ伏した。
「先生、今宵はこれくらいにして、続きはまた別の場所でゆっくりと伺いましょう。傑作のためには、休息も必要ですよ」
アビサルはそう言って漱一郎の肩を抱き、夜の闇へと再び連れ立って消えていった。その背中を見送りながら、晴明は重いため息をついた。(やれやれ、また面倒なことになりそうだ)
第二幕:甘美なる力と束の間の栄光
翌日から、漱一郎の身に変化が起きた。あれほど苦しんでいた執筆が、嘘のように捗り始めたのだ。
―― あの夜、バーを出た後、アビサルは漱一郎の前に再び現れた。姿はバーにいた時の若手編集者のままだったが、その瞳には神としての冷酷な光が宿っていた。
「夏目漱一郎。お前のその時間への渇望、実に興味深い。人間とは、かくも愚かで、かくも必死なものか」
アビサルは、嘲るでもなく、ただ事実を告げるように言った。
「お前に力をやろう。『執筆時間限定のタイムリープ』。お前が『書く』と決めた瞬間から、時間を自由に巻き戻せる。納得のいくまで、何度でも。ただし、一度完成した原稿を編集者に見せた時点で、その作品に対する時間の力は失われる。せいぜい、その力に踊らされるがいい」
漱一郎は、神の言葉とも悪魔の囁きともつかぬその誘惑に抗えなかった。気に入らない展開を書き直す。より完璧な表現を求めて、同じ時間を幾度も繰り返す。最初は順調だった。スランプが嘘のように言葉が溢れ、プロットは磨き上げられ、キャラクターは生き生きと動き出す。
ついに、締め切り前日、彼は自分でも震えるほどの傑作を書き上げた。
編集者は手放しで絶賛した。文壇の評価も上々。漱一郎は、久しぶりに浴びる賞賛の光に酔いしれた。時間さえあれば、自分はこれほどのものが書けるのだ、と。
アビサルの皮肉めいた言葉など、もはや彼の耳には届いていなかった。
第三幕:無限のループ、そして破滅の足音
しかし、その栄光は長くは続かなかった。次回作に取り掛かった漱一郎は、再び筆が止まった。タイムリープの力があるにも関わらず、アイデアが全く浮かばない。それどころか、以前よりもひどいスランプに陥ってしまったのだ。
完璧な作品を一度書いてしまったことによるプレッシャー。時間を無限に使えるという油断。「いつでも書き直せる」という甘えが、彼の集中力を奪い、創造性を蝕んでいった。食事も睡眠も忘れ、何度も同じ時間を繰り返し、ただただ消耗していく。
書斎には、書きかけの原稿が山のように積み上がり、どれもこれも精彩を欠いていた。
「時間はある…無限にあるはずなんだ…!なのに、どうして書けないんだ…!」
鏡に映る自分の姿は、もはや生ける屍のようだった。アビサルの「せいぜい、その力に踊らされるがいい」という言葉が、今更ながら脳裏に蘇る。
第四幕:再訪と晴明の言葉
心身ともに限界を迎えた漱一郎は、亡霊のようにふらつきながら、再びバー「クロノス」の扉を叩いた。以前よりも痩せこけ、その目からは光が消え失せていた。
晴明は何も言わず、彼をカウンターへと促し、一杯の温かいミルクを差し出した。
「…もう、だめだ…」
漱一郎は、力のことを直接口にはしなかったが、自分が陥っている異常な状況、時間を操れるかのような感覚、そしてそれにも関わらず何も生み出せない絶望を、途切れ途切れに語った。
「結局、俺には才能なんてなかったんだ…あの傑作も、まぐれだったんだ…いや、あれは…」
晴明は静かに耳を傾けていたが、やがて口を開いた。
「夏目さん、時間は無限にあるように見えても、それを活かすのはあなた自身です。完璧を求める心は尊いですが、時には不完全さを受け入れ、今のあなたにしか書けない物語を、ありのままに紡ぎ出すこともまた、大切なことではないでしょうか。あなたの言葉を待っている読者も、きっといるはずです」
その言葉は、乾ききった漱一郎の心に、僅かな潤いを与えたように見えた。読者の存在を、彼はいつの間にか忘れかけていた。
晴明は、カウンターの隅でこの惨状を面白そうに眺めているアビサル ―― 依然として若手編集者の姿のままだが、その表情には隠しきれない愉悦が浮かんでいる ―― に向き直り、静かだが強い口調で言った。
「アビサル。お前の悪趣味な実験も大概にしたらどうだ。彼が本当に求めているのは、安易な力などではない。自らの手で、苦しみの中から喜びを生み出すことだろう。それとも、賢者の末裔の言葉など、神には届かぬとでも?」
アビサルは肩をすくめ、口笛でも吹きそうな顔で応じた。「おや、これは手厳しい。だが、彼が力を求めたのも事実。私はただ、その願いを少しばかり手助けしたに過ぎんよ。
それに、賢者の言葉は、時として神の退屈を紛らわす良い刺激になる」
エピローグ:巻き戻された時間と、ささやかな希望
その後の展開は、晴明にとっても予想外のものだった。
一度は、漱一郎は晴明の言葉にも耳を貸さず、さらなる完璧を求めて時間の迷宮へと沈んでいった。彼の精神は完全に破綻し、もはや人としての尊厳すら失いかけていた。
バーの片隅で、アビサルは「これはこれで最高のエンターテイメントだ。人間とは、かくも容易く壊れる玩具よな」とせせら笑っていた。
「アビサル!貴様、これ以上彼を弄ぶのは許さん!」
晴明は激昂し、アビサルに詰め寄った。
だが、神は鼻で笑うだけだ。「人間が勝手に溺れているだけだろう?私に何の責任がある。賢者の血も、感情に任せてはただの凡夫と変わらんな」
「ならば、私がこの時間を元に戻す!」
晴明はかつて自身が有していた秘術の記憶を辿り、時間の流れに干渉しようと試みた。
しかし、神ならぬ身には、アビサルが作り出した時間の歪みを正すことなどできようはずもなかった。力の反動で晴明は膝をつき、己の無力さに唇を噛んだ。(翔よ、こんな無様な祖父を許しておくれ…)
その時だった。
「…やれやれ。お前も存外、人間に入れ込むのだな、元・賢者殿。その孫への想いとやらが、お前をそうさせるのか?」
アビサルは、どこか呆れたような、それでいてほんの少しだけ楽しそうな表情を浮かべると、軽く指を鳴らした。
「まあ、いい。たまにはお前の言うことも聞いてやろう。この茶番も少々長すぎた。ただし、これで終わりだぞ。次はない」
世界が眩い光に包まれ、そして ―― 時間は巻き戻った。
気がつくと、晴明は漱一郎にアドバイスをしている場面に戻っていた。憔悴しきってはいるものの、まだ正気を保っている漱一郎が、晴明の言葉をじっと聞いている。
「…今の、私にしか書けない物語…読者が待っている…」
漱一郎は、晴明の言葉を反芻するように呟いた。そして、ふっと憑き物が落ちたような、穏やかな表情になった。
「そうか…そうだったのかもしれない。私は、いつの間にか、書くことの原点を忘れていた…読者のことなど、頭から消えていた…」
カウンターの隅では、アビサルが(相変わらず若手編集者の姿のまま)つまらなそうにため息をついているのが見えた。「やれやれ、これだから人間は面白い。簡単に堕ちるかと思えば、些細な言葉で立ち直ったりもする」
「ちっ、結局こうなるのか。まあ、いい。今回のショーはこれでお開きだ」
そう言うと、アビサルは漱一郎の中から、まるで霞でも払うかのように、タイムリープの力を取り去った。
力を失った漱一郎だったが、その顔に絶望の色はなかった。彼は晴明に深々と頭を下げると、しっかりとした足取りでバーを後にした。
数週間後、文壇を賑わせるような派手なニュースはなかったが、とある文芸雑誌の片隅に、夏目漱一郎の新作短編が掲載された。
それは決して完璧な技巧に彩られたものではなかったかもしれない。だが、そこには不器用ながらも真摯に言葉を紡ごうとする作家の魂が込められており、読んだ者の心を静かに温めるような、ささやかな希望の光が灯っていた。
バー「クロノス」のカウンターで、晴明は遠い昔のご先祖様の言葉を思い出していた。
『 ―― 真の賢者とは、未来を予見する者ではない。過ちから学び、より良き今を紡ぎ出す者じゃ』
(やれやれ、神様のお守りも楽じゃないな。だが、翔が生きていれば、きっと今のわしを見て、何かを感じてくれるかもしれん)
晴明は小さく笑みを浮かべると、次に来るであろう、新たな「迷える客」のために、グラスを磨き始めた。
(第一話 完)
お読みいただき、ありがとうございます!
記念すべき第1話、いかがでしたでしょうか?
締切や期限って嫌なものですが、それがあるからこそという事もありますよね。
物語はまだ序盤ですが、少しずつ進んでいきます。
今後の展開にもぜひご期待ください。
原作が気になった方はウェブサイトを覗いてみていただければと思います。