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史と先輩

作者: 折田高人

『……ダッド……ダッド・ワール……ダッド……ダッド・ワール……』

 柔らかな声が彼の名を呼んでいる。

 彼は空が好きだった。

 晴れ渡る蒼穹の空(セイクリッド・ブルー)の下、大地を蹴って何度も太陽に手を伸ばしたものだ。

 僅かな間の浮遊感。少しでも空に近付けるその瞬間を、子供ながらに楽しんだ。

 彼は空が好きだった。

 否。本当は地を恐れていたのだ。

 幼き頃から語り掛けてくる、地の底から微かに聞こえる乙女の声。

 彼以外の誰にもその囁きを聴く者はいない。

 自らに付き纏う歌うような声は、大地から足を離している瞬間だけ聞こえなくなった。

 何時からだろうか。空に憧れるようになったのは。

 鳥の翼があれば、煩わしい声から逃げる事が出来るのに。

 時は経つ。少年は青年となり、幾多の出会いと別れを繰り返し……それでも声は変らずに彼の足元から囁き続ける。

 今日も彼は空に焦がれる。瞬く幾星霜の星々。星月夜(スターリング・ナイト)だった。

『……ダッド……ダッド・ワール……ダッド……ダッド・ワール……』

 踏みしめる大地が声を上げる。

「……黙ってろ女神(あばずれ)め。分かっている」

 忌々し気に声に応えた黒衣の青年は、不機嫌そうに周囲を睥睨する。

 広大な平原より這い出てくるモノがある。

 武装した蠢く骸骨(スケルトン)共。生者を呪う、七万六千体の不死者の群れ。

 虚ろな眼窩に灯る光。青白い鬼火が、天空の星々の輝きに負けじとばかりに青年を取り囲んでいた。

 青年は無表情だ。目の前の憎悪の群れに、羽虫を見るような冷ややかな視線を返す。

 背に負った禍々しい剣の柄を手に取る。

 その時だった。

 銀光が世界を支配する。

 太陽が血に生れ落ちたかのような眩しさに、青年は一瞬、眼を焼かれる。

 やがて青年が視力を取り戻すと、地上の星々は瞬く事を止めていた。

 眼窩から光を失った七万六千体の骸骨共。夜風に吹かれて散り散りに霧散していく。

「……聖剣エグザイル。グイドか」

 青年の前に舞い降りる影が一つ。

 白い男だ。夜風に棚引く金髪。蒼い瞳が青年を真直ぐ見つめていた。

「……いい加減にしろ、ダッド・ワール。お前の生はお前の為にあるものではない。女神の民の為、そして世界の為。女神の騎士(グランド・ウィスパー)としての役目を果たすのが我らの宿命だ」

「相変わらず女神に頭を焼かれているようだな、グイド・ノッカ。俺の命は俺の為にある……俺から全てを奪っておいて、貴様らに協力しろと? 馬鹿も休み休み言え」

「まだ現世の柵に憑りつかれているようだな。ああでもしなければ、お前はあの村でただ腐り行くだけの人生を歩むだけだった」

「だから感謝しろと?」

 ダッドの赤い瞳に憎悪の炎が宿る。

 白き騎士の手にある聖剣。あの刃が流した血を、ダッドは生涯忘れる事がないであろう。やがて家族となるはずだった男の裏切りを……!

 貫かれた華奢な体躯。

 命の火が消え行く妹の微笑。

 婚約者(グイド)の手によって摘み取られた哀れな家族の亡き顔。

 あの人を許してと彼女は言った。

 だが。村を焼かれ、住民を皆殺しにされ。それを運命と受け入れる事はダッドには到底できなかった。

「貴様らの言い分など知った事か。妹の嘆願など知ったものか。俺の人生は、貴様ら女神の騎士(ゴミども)をこの世から一匹残らず駆逐する為にある」

『お止めなさい……ダッド・ワール……お止め……なさ……』

 剣が引き抜かれる。魔剣スパイダー。魔王マッド・ロックが鍛え上げた呪われし剣。

 魔王の意識がダッドを支配していく。

 今や大地からの囁きは聞こえない。代わりに聞こえてくるのは、どす黒い、血に飢えた魔剣の囁き。

 殺せ! 殺せ! 血を見せろ! 仇花咲かせて躯を曝せ!

「止めろ……止めるんだダッド・ワール! 魔王の誘惑等に乗ってはいけない! 大地に……女神の声に耳を傾けるんだ!」

「それ程大地の女神が愛おしいか? ならば、俺が直々に地の底に叩き落してやる」

「くっ! 戦うしかないのか……女神の騎士同士で!」

 闇夜に煌めく剣戟の光。

 幾条も流れ行く刃の軌跡。

 幾度とも知れぬ激突の果て、ダッドの闘志は何処までも高揚していく。

 魔剣スパイダー。これを振るっている時のみ、彼は大地の囁きから解き放たれるのだ。

 グイドの一撃を回避してダッドは大きく距離を取る。

 黒き騎士の構える魔剣に、暴虐的な魔力が集いだした。

 それに相対する白き騎士。聖剣が輝かんばかりの魔力を放出する。

「吠えろ、スパイダー! ソウルスクリーム!」

「迎え撃て、エグザイル! ヘブンズドアー!」

 激突する黒と白。

 夜の静寂を突き破る轟音。

 神の領域に踏み込みし二人の騎士の死闘(アルマゲドン)

 そして……。


「やってられるかあああ!」

 一階建ての小さな借家に住人の絶叫が木霊する。

 声の主は机の上に開かれたノートパソコンから逃れるように床を転がり嘆き続けている。

 彼女の名は飯田史。ヘレン・ファウストのペンネームで知られるライトノベル作家であった。

 否、その呼び方は彼女の尊厳を傷付ける。彼女には自称する職業が存在したのだ。

「わ・た・し・は! 学者なの! 民俗学と隠秘学を専門とするれっきとした学者! 何でこんなもん書いて一日を終えなきゃならないのよ!」

 借家を通り抜けようとしていた一般通過亡霊が、荒ぶる史に掴みかかられる。

 霊道のど真ん中に立つこの借家も、かつては数多くの亡霊が賑わう通路であったが、史がこの場所を格安で借りてからはめっきり霊通りが途絶えてしまった。

 迂闊にも霊道を通り抜けようとした新参の亡霊は、矢継ぎ早に叩き付けられる史の愚痴を前にして、これが他の霊が寄り付かなかった原因かと己の迂闊さを激しく後悔する。

「聞いてる? ねえ聞いてる? 何で学者たる私がこんなチラシの裏の落書きみたいなもの書き続けなければならないの? まだまだ書きたい学術書とか頭の中に沢山放置されているのに!」

 亡霊の首根っこを捕らえてがくがく揺さぶる史。

 勘弁してくれと亡霊が救いを求めると、救済の手は以外にも早くに訪れた。

 史の服の裾を引く者があった。其処に居たのは白い犬。

「ベ~ロ~……」

 亡霊を放り出した史は使い魔の白犬を抱きしめる。

 眦に涙を溜め、心の中の不安を吐露しだした。

「もう嫌! こんな生活耐えられない! 助けてよベロニカ! 助けてぇ!」

 史を落ち着かせるかのように、ベロニカはポンポンと前足で叩いて慰める。

 一体何時からだろうか。彼女の生活が狂い始めたのは。

 彼女はただ、学者として認められたかっただけであった。

 民俗学に隠秘学、世の中にはこんな不思議があるんだよと皆に知ってもらいたかった。

 例え大衆には需要が無いとしても、少しでも理解者を得られるのならば、彼女にはそれで十分だったのだ。

 しかし、人は生きねばならない。自分が好む題材で著作を生み出しても、入ってくる収入は雀の涙。となれば、何か他の手段で生活費を稼ぐ必要があった。

 そう、初めは副業のつもりだったのだ。本業を続ける足しにさえなればと、史は大衆向けの小説に手を出したのだ。

 幸いな事に、ネタは尽きる事はなかった。彼女の脳裏に刻まれた民俗学と隠秘学の知識は、手堅く良質なファンタジー小説として結実する。

 学者としては得られなかった、そこそこの名声。

 されど、彼女は分を弁えていた。本分はあくまでも学者。学術書を纏める傍らに書き上げられるよう、彼女は一話完結型の短編小説を中心とした執筆スタイルを貫いていた。

 それが崩れたのは短編集「黒の伝道師」の出版が原因だった。

 この短編集は共通の主人公による短編を纏めたものであり、別段彼女にとっては思い入れのある作品ではなかった。この時までは。

 宿主拳。このイラストレーターが自分の作品の担当になったのが運の尽き。

 描かれた耽美かつ美麗なイラストは登場人物の悉くをイケメンや美少女に昇華させ、史は大量のファンを会得する事になったのだ。

 当然、出版社たる央端書房はこの金の生る木を逃そうとはしない。「黒の伝道師」の続編を史に連載させる為にあの手この手で交渉を始めたのだ。

 史としては望ましくない傾向だった。そもそも、生活費に関してはそれまでの短編小説だけでも何とか稼げていたのである。連載などに手を付けてしまえば、学術書を書く空き時間に短編小説を仕上げるという理想の生活が終わりを告げてしまう。

 それでも、史は了承した。連載を決意してもらえれば、彼女の学術書を優先的に出版してくれると言う甘言にまんまと乗ってしまったのだ。それがいけなかった。

 約束は果たされた。だがそれは、史の尊厳を踏みにじる様な形で成されたのである。

 クルド人の生活と歴史、民族宗教であるヤジド教についての詳細な研究論文である「孔雀と言う名の堕天使」は「アルハザードは日本で亡くなった? 東北に刻まれた狂える詩人の足跡とは?」等と言うトンデモ本と一緒くたに扱われ。

 イースター島の歴史を纏めた「鳥人」や、積荷信仰の成立を丁寧に描いた「最果ての国より」もまた、同じような扱いを受けた。前作の扱いを厳重に抗議したにも拘わらず、である。

 最近になって最も堪えたのは、白魔術と黒魔術の境は如何にして決められてきたのかを問う「白と黒の狭間」の出版に対してだった。

 何と央端書房は、本作を連載中の黒騎士シリーズとさも関りが有るかのような匂わせを行い、売り上げを大きく伸ばしたのである。

 自身の研究の結晶が、何も理解していない連中の金蔓になっている。

 そう考えた史は、央端書房に一泡吹かせるべく、黒騎士シリーズを自らの手で終わらせようと画策したのだが。

 雑に処分される数万単位の雑魚敵。

 死亡理由がコロコロ変わるぽっと出の妹キャラ。

 世界に数名しかいない設定にも拘らず、雲霞の如く湧いてきては使い捨てられる女神の騎士。

 作品を打ち切らせる為にわざと設定を破綻させて人気を減らそうとするも、美麗なイラストにしか目が行っていないファン達は気にした様子が無い。

 何時になったら打ち切られるのだと愚痴りながらも延々と適当な物語を垂れ流し続けていった結果、黒騎士シリーズはそういう作風なのだとファンに受け入れられる始末。

 寧ろ、超展開を楽しみとする読者層が新たにファンとして加わった結果、人気はさらに加速する羽目に陥ったのである。

 漫画、アニメ、ミュージカル……黒騎士シリーズの展開は留まる所を知らず、最早生みの親である史一人の力では始末する事の出来ない怪物にまで成長を遂げていた。

 結果、史は黒騎士シリーズの執筆に忙殺され、彼女が本業と定める学術書を仕上げる為の時間が犠牲になっていたのであった。


 今日も今日とて、奇妙な服装の連中が闊歩している鯖江道。

 彼らがカルト組織のメンバーだと知らない者が見れば、コスプレイヤーの一大聖地にすら見えてくるだろう。

 通りを行き来する、色とりどりのローブの群れ。

 それを掻き分けるようにして、史は通りを歩いていた。肩に掛かるリュックサックの重みにひーこら言いながら。

 ベロニカに留守番を任せて外に出た史の目指す先。

 目的地に漸く足を踏み入れると、自身の体力の無さを呪いながら一息つく。

 目の前にあるのは古ぼけた洋館。海外からのカルト組織の移住者が多い堅洲町においては、然程珍しくもない建物だ。

 その館に掲げられている看板には佐藤心霊クリニックの文字。

 扉を開くとそれに連動して呼び鈴がチリンチリンと鳴った。

 柔らかな電球の光が照らす廊下の奥から、一人の女性が姿を現す。

 ボサボサの長髪に瓶底眼鏡。ジャージの上に褞袍の如くヨレヨレの白衣を身に纏った女性。

 顔立ちは整っており、スタイルも良いのだが、身の回りをあまり気にしない質なのか、その装いは彼女の美貌を台無しにしていた。

「やあやあ、史君。今日はどんな御用かな?」

「先生、患者さんはいいんですか?」

「いやあ。今日の治療はもう終わってしまってねえ。雑務も終わって暇を持て余しているんだ」

 さもありなん。史はそう思う。何せ、彼女が手を翳せば治療はそれで事足りるのである。

 彼女の名は佐藤司。このクリニックの院長だ。

 心霊クリニック等と言う看板を掲げているように、真っ当な医者ではない。

 心霊医療。手を翳しただけで怪我や病気を瞬く間に直してしまう彼女を頼りにするものは、鯖江道には数多い。報酬を取らないと言われれば尚の事だった。

 無論、彼女の医療行為を不快に思う医者は多い。

 そもそも、彼女は医療界を追放された身である。

 その原因こそが心霊医療にあった。彼女はそれを新時代の医療技術として医療界に広めようと画策したのである。

 そんな怪しいオカルト擬きが医療界に受け入れられることもなく、彼女は医療界を後にしたのだが、心霊医療を広げようという熱意は全く衰えていなかった。

 手を翳すだけで治療が出来るのならば、衛生に気を遣った施設も、大掛かりな医療設備も必要無くなる。

 行く行くは一般人でも使用可能な技術へと発展させ、高い医療費を払わなくても自宅で体を治せるようにするのが司の夢であった。

 現在は高度な修行が必要となるとの事で、心霊医療の簡便化に力を入れているようであるが、中々上手くはいかないらしい。

 最も、彼女は魔女である。老いる事も無いし寿命も無い。時間ならば腐るほどある。

 その為、司はこの堅洲町に居を定め、心霊医療の展開に力を入れているのであった。武藤の一族を始め、不老の存在は堅洲町では……特に鯖江道では珍しい存在ではないのだ。

「それで史君。君の先輩に用事かな?」

「あ、はい。先輩、居ますか?」

「部屋に居るよ。何だかソワソワしているみたいだったけど……と」

 呼び鈴がなる。

 入ってきたのは明らかに堅気とは思えない風貌の男である。

 抑えた腹部からはダラダラと血が滴っていた。

「いちち……すまねえ先生。今やってるかい?」

「あはは。相変わらずヤンチャやってるねえ。ほら、傷を出して」

「頼んます」

 強面の男は悪戯を注意された子供のようにバツの悪そうな笑みを浮かべ、司の為されるがままになっている。

 血の溢れる傷口に、嫋やかな白い手が当てられる。魔力で彼女の手が淡く光るのを史は目にした。

 司の手がそっと離されると、既に傷は消え失せていた。

「で、まだ怪我人はいるのかな?」

「へい。つっても、あいつらは大した傷じゃ……」

「傷は傷だよ。呼んでおいで。どうせ暇していたしね」

「先生には敵わねえや……おい、お前ら!」

 その声に反応して、扉の外からぞろぞろとやってくる裏家業の男達。

 擦り傷、切り傷、かすり傷。司はそれらをテキパキと治療していく。

「御免ねえ、史君。暇じゃなくなっちゃったから、勝手に用事を済ましてくれたまえ」

「了解です」

 彼女は怪我人を差別しない。身分も経歴も知った事ではない。傷を治し、病を癒すのが医者の務めだと信じていた。

 故に、このクリニックは星の智慧派教会と並ぶ中立地帯。揉め事は御法度である。

 普段は居丈高な組の連中も、司の前では借りてきた猫のように大人しい。

 そんな何時も通りの光景を目にしつつ、史は重いリュックサックを肩に館の二階へと上がっていった。


「先輩、史です。入っていいですか?」

 扉をノックして声を掛ける。

 声は直ぐに返ってきた。

「フミト? いいよいいよ、入って来て~」

「失礼します」

 部屋の中に入ると、眼に入るのは本、本、本。

 書架に納まらないのだろう大量の本が、所狭しと積み上げられている。

 本来は落ち着いて本を読むスペースとして働く筈の机ですら、大量の書籍に埋もれて機能を果たせる状態には無い様子。

 申し訳程度にスペースの開かれたベットに腰掛けながら、金髪の美女が本を読んでいる。タイトルは「イェグ=ハの王国 英国怪奇短編集」とある。

 彼女の名はロビン・リッケンバッカー。車輪党における司の先輩の魔女だった。

「やっほ~フミ~。今日はどんな御用かな?」

「借りていた本、返しに来ました」

 そう言って史がリュックサックから取り出したのは、分厚い本の数々。

 その大半が言語もバラバラな民俗学の本で、僅かに魔導書も混じっていた。

 彼女が執筆の為にロビンから借りていた稀覯書の数々だ。

「御苦労様。他に読みたい本はあるかな? トゥーレに寄贈する前に貸してあげるけど」

「では、御言葉に甘えて……」

「にゃはは。良いって良いって。ロビンさん、フミトの本を読むの楽しみにしているから、これくらいは力になってあげるよ」

「先輩……」

 史は照れくさそうな笑みをロビンに向ける。

 今までに書き上げてきた数々の学術書。それを正当に評価してくれるのは、史の知る限りでは車輪党の面々だけしかいなかった。

 特にロビンはこれまで彼女が書き上げてきた知の結晶を隅々まで読みつくしただけではなく、それらを自費で複数購入し、車輪党の図書館に寄贈してくれたりさえしていた。 

 時には惜しみない誉め言葉を。時には耳に痛い批判の言葉を。自身の著作に此処まで入れ込んでくれた相手はロビンのみであり、史はこの魔女に深い敬意を抱いているのだった。

 最も、史にとっての憎き忌み子たる黒騎士シリーズですら愛読しているのは頭を抱えたくなる所であったが。敬愛する先輩であるが故に、読まないでくれとは言いにくい。せめて、それ以前に書き上げた短編小説くらいで満足して欲しい史であった。

「ところで先輩、何だか嬉しそうですね? 何か良い事でもあったんですか?」

「そうそう、そうなんだよフミー! ロビンさんがトゥーレに掲げたスローガン、憶えてる?」

「ええ。あれだけ大きく掲示されていれば、忘れたくても忘れられませんよ」

 ウルティマ・トゥーレ。それは車輪党の本拠地たる都市型宇宙船である。

 数年前にナチスの残党から奪い取ったこの異星の箱舟は、今も世界のどこぞの海の底を漂っている。

 車輪党とその協力者のみが門を通じてこの移動拠点と行き来が出来るのだった。

 そんな箱舟の中の大図書館。

 少なくない蔵書があるのにも関わらず、図書館の規模が大きすぎて多くの書架はスッカスカ。

 まだまだ発展途上の図書館であったが、ロビンは此処に「目指せ! ミスカトニック大学図書館超え!」のスローガンを高々と掲げたのである。

 ミスカトニック大学。ロビンの母校でもある其処にある図書館はその筋では有名で、数々の魔導書を収める魔導図書館と噂されていた。

 しかし、魔導書の殆どは厳重に保管され、ちょっとやそっとじゃ閲覧できない。ロビンもまた、神秘を秘匿しようとする大学の意思に阻まれ、魔導書に触れ合う機会はついぞ訪れる事が無かった。

 なんとか苦労して手に入れた禁書目録を眺めながら、まだ見ぬ稀覯書の題名を指でなぞって思いを馳せる日々。

 何時しかロビンは大きな野望を抱く事になった。誰もが自由に使える魔導図書館を作る。夢は大きく母校超え。

 そんなロビンであったから、堅洲町に住み着くまでは世界中を旅してまわり、様々な稀覯書を手に入れてきた。

 彼女が極めて貴重な魔導書である「黒の書」を手に入れた際の経緯は、車輪党では語り草となっていた。

 いま、ロビンが堅洲町に腰を落ち着けているのは、偏に武藤家から大量の魔導書の寄付があった為だ。加えて、ウルティマ・トゥーレの奪取にも武藤家は力を貸してくれていた。

 武藤家は見返りを求めなかったが、車輪党にも……ロビンにも面子と言うものがある。結果、稀覯書採集の側、武藤家の手伝いを率先して行うべく、車輪党での知り合いであった佐藤司のクリニックに転がり込んだのであった。

「母校を超える! その第一歩が今日果たされそうなんだ!」

「一体何があったんですか?」

「ネクロノミコンだよネクロノミコン! ミスカトニック大学超えを目指すなら、絶対外せない魔導書が手に入りそうなんだ!」

 史は目を丸くする。

 ネクロノミコン。隠秘学を修めた者ならば知らぬ者はいないと言ってもいい超が付く程有名な魔導書だ。

 とてもおいそれと手に入れる事が出来る代物ではない。

 車輪党の図書館にも、ネクロノミコンと称する魔導書もあるにはあった。

 だがその殆どが誤訳の多い上に多くの記述が意図的に削除された不完全な物ばかり。

 武藤家から譲り受けた「夜音秘抄」なる翻訳本は、翻訳自体は正確であったものの、ネクロノミコンの呪文のみを抜粋したものであり、神話的存在に関する情報が欠けていた。

 黒騎士シリーズを終わらせようと躍起になる史の機嫌を取る為に央端書房が販売を決めたネクロノミコンと称した本も、フィーリーの再構築した新釈版の再販である。オリジナルとは程遠い代物だ。

 とにかく貴重な魔導書なのだ。故にネクロノミコンそのものが手に入るという情報を、史は俄には信じられなかった。

「本当ですか? 本当にあのネクロノミコンが?」

「マジマジだよ! 鳥取のとある大学にポルトガル語版のネクロノミコンが収められているって噂があったんだ。ロビンさん、何とか其れを突き止めたんだけど、やっぱり簡単には譲ってくれなくてさ。一時は諦めていたんだよ。ところがだ。ロビンさんは知らなかったんだけど、その大学の卒業生だっていうオカルティストが完璧な写本を仕上げていたんだ。そのオカルティストはもう亡くなっているんだけど、その子供もオカルティストでね。研究の為の資金が無いからってその写本を売りに出していたんだ!」

「凄いですね。資金難とは言え貴重な魔導書をポンって売ってくれるなんて」

「その卒業生、写していたポルトガル語版を基にして日本語に訳した写本も作ってたんだってさ。だからポルトガル語版の写本は無くても困らないんだって。それで、その写本をサトコが仕入れてくれたんだけど、お得意様だったロビンさんに優先的に売ってくれる事になったってわけ」

「はあ」

「フミ~。気になる? 気になるでしょ!」

「なりますとも!」

 史は勢いよく頷いた。

 彼女も民俗学と隠秘学を修めた学者。

 暗黒の知識の宝庫とされる魔導書に対して、興味を持たないはずが無かった。

「うんうん。そうだよね! おっと、もうこんな時間か。ロビンさん、今からネクロノミコンを引き取りに行くんだけど、フミーも一緒に行く? もう代金は支払っているんだ」

「お供します!」

「それじゃあ早速、レッツゴー!」

「あの……先輩?」

「うんうん。分かってるよフミ~。ロビンさんが読み終わったら、トゥーレに寄贈する前にフミーに貸してあげるから」

「あ、有難うございます!」

 希少な魔導書に夢を馳せる二人の魔女。

 一階にいた司に見送られて、ウキウキ気分で館を後にしたのだった。


 進む足取り軽やかに、ロビンは鯖江道を闊歩する。

 やや駆け足気味なその速さに、史は付いていくのがやっとだった。

 流石に本を借りすぎたか。彼女のリュックサックには、新たな資料がぎっしりと積み込まれていた。

 やがて辿り着いたのは、おいかぜ骨董店。ロビンが懇意にしているフリーランスの魔女、宗谷沙都子の店だった。

 史とロビンは足を止める。店の扉の前を遮るように立つ者がいた。

 黒い瀧の様な長髪を総髪に纏めた和装の少女。その瞳は唯々空に向けられている。

 出る所は惜しみなく出ている体つきは異性を虜にするのに十分なのだが、その佇まいは抜き身の日本刀を思わせる鋭さを感じさせる。

 無口かつ無表情。本人は意図していないのだろうが、何処となく他者を突き放す様な雰囲気を発しているせいで、蠱惑的な容姿にも拘わらず近寄り難さの方が勝っていた。

「あれ? どうしたのさ、カナ。ボーッとしちゃって。店に入らないの?」

「ん。見張り」

「見張り? って、何でお店に結界まで張っているのさ」

「沙都子に頼まれた」

 語る言葉は少ないが、ロビンの声にしっかりと反応して向き合う少女。

 何度会っても息を呑むような美貌。

 平凡な自分の容姿と見比べてみたりもしたが、それを羨むような気持ちは史には湧き上がってこない。

 ロビンや司の様に人から変じた後天的な魔女が相手ならば多少なりとも嫉妬を覚えるが、生まれながらの魔女である彼女の美貌は羨んでも仕方が無いものだ。

 純潔の魔女には基本的に男が生まれない。その為、繁殖には人間の男性を必要としていた。

 例外は魔女の男性個体たる魔王であるが、個体数が極めて少なく、人間の男性の代わりと成り得るには圧倒的に数が足りない。

 そもそもである。魔王は無限の魔力を生み出す事は出来ても、自らの遺伝子を後世に残す能力が完全に欠けていた。

 死に拒絶された生き物が増える事を、自然は許しはしなかったのだろう。

 子を成す事の出来ない一代限りの魔女の変異種。それが魔王の正体であった。

 結果、種の繁栄の為、魔女は人間の女性よりも美しくなって男性を魅了しなくてはならない。それ故、魔女は男性を魅了する容姿を得るように進化してきたのである。

 子を成す為には男の魔力と精力を全て吸い尽くさねばならない。魅了され、精を吸い尽くされた男の末路は死、あるのみ。例外は存在しない。魔女にとっての生殖は、捕食行為に他ならない。

 まさに食虫花。彼女達の妖艶な美貌は、男を破滅に追いやる為に生まれ持ったものなのだ。

 とは言え。その美貌を当人が上手く扱えるかどうかはまた別問題。

 武藤三姉妹の長女、武藤要。史の目の前の少女は、色恋沙汰には全く興味が成さそうに見える。

 魔力が枯渇すれば発情もするのだろうが、魔力を無尽蔵に生み出しては垂れ流す魔王が居る堅洲町では飢餓に陥る事も無く、住民が問題を起こさねば彼女は全くの無害であった。

 さて、何時もならば堅洲町の見回りに時間の大半を費やす彼女が、なぜこんな所で佇んでいるのか。

「武藤さん、何かあったの?」

「沙都子達、大わらわだった。何があったのか聞きに入ったら、扉を閉めて結界を張ってって頼まれた」

「ふ~ん? じゃあ、カナは何があったのかは詳しく知らないと」

「ん」

「ねえ、カナ。ロビンさん、急ぎの用事があって此処に来たんだけど、店に入れてくれない? ロビンさんは此処の常連だし、何か力になれると思うんだけどな~?」

 無表情な要の表情。全く何を考えているのかは分からない。

 ロビン曰く、一応表情の変化はあるそうなのだが、余りにも微細な変化なのだろう。史のは全く変化が分からなかった。

 ともあれ、何となくではあるが彼女が思案しているのだろう事は史にも察せられた。

 実際、要は思案していた。誰も逃げ出さない様に結界を張ってとの事だったが、ロビンを入店させるには結界を一時解かねばならない。下手をしたら店内にいる何かが逃げ出す可能性もある。

 その一方で、沙都子達の様子を思い出す。とても大変そうだった。人手は多い方が助かるのかもしれない。結界を解いても自分が注意していれば、店内の何かを見逃す事はないのではないか。

 僅かな時間思案した後、要は頷いて扉を譲る。結界も一時的に解いたようだった。

「皆大変そう……助けてあげて」

「了解了解! ロビンさんにお任せ~!」


「待ちなさ~い! 逃がさないわよ!」

「庵さん! 後ろ、後ろです!」

「わっわっ! そっちに行ったよ! 暴れないで~!」

 史とロビンが目にしたのは、慌ただしく店内を駆け回る少女達の姿。

 虫網片手に大立ち回りをしている金髪の少女、和泉庵。

 捕獲用の紙袋を手にして庵のサポートに回る黒髪の少女、吉野豊。

 軍手を嵌め、虫籠に何かを移している銀髪の少女、周防昴。

 おいかぜ骨董店のアルバイト三人娘である。

 一体何事か。そんな問いが口に出かかっていた所、史を横切る小さな影。

 ロビンが咄嗟にそれを掴むと、摘ままれてジタバタしているのは小さな鼠だった。

「うげ! ロビン?」

 迫りくる鼠の群れから大切な商品を守るべく必死になっていた宗谷沙都子が漸く史達に気付く。

「ナイスよロビン! そいつを昴に渡して!」

 庵の言われるがままにロビンは昴に鼠を引き渡す。

 虫籠の中にはギッシリと詰まった鼠の群れがちーちー鳴いて蠢いている。

「ごめんねえ、狭いよねえ、もう少し辛抱してね」

 若干申し訳なさそうに鼠を虫籠に押し込め、すぐさま昴は鼠の捕獲に戻っていった。

「ちょっとちょっと! サトコ、何なのよ? この大騒ぎは」

 沙都子は余程切羽詰まっている様子だ。

 ロビンの問いには答えず「何で此処に? 要の結界は?」と焦った様子を見せている。

「何でって、頼んでいた物を取りに来たに決まっているじゃない」

「武藤さんが大変そうだから助けてあげてって、通してくれたんです」

「マジ? やった! 助っ人だ! ロビン、早く早く手伝って!」

「お願いします! 全然手が回らないんです!」

「もう一息だよ! 皆頑張ろうね!」

 輝かんばかりの笑顔で人手の加入を歓迎する三人娘。

 それに対して沙都子の表情は晴れない。目が泳ぎ、蒼褪め、脂汗がだらだらと流れる始末。

 そんな店長の様子に違和感を覚えた一同であったが、やがて沙都子は意を決したように唇を開く。

「ロビン……君に見せなきゃいけない物がある。辛い光景になるだろうが、気を強く持ってくれ」

「何だい? 藪から棒に。君とロビンさんの仲じゃな……い……」

 其れを確認した瞬間、ロビンの声が途切れた。

 辛そうに瞳を伏せつつ、ロビンの前に突き出された其れ。

 鼠の被害を受けたのだろう。汚され、噛まれ、破られて、原形を辛うじて保っているといった風情の書物の残骸。

 それは正しく、ロビンが購入したネクロノミコンの写本の成れの果てだった。

「……せ、先輩?」

 目の前の惨劇を前にして、史は恐る恐るロビンに声を掛ける。

 心の底から渇望し、漸く手に入れたネクロノミコン。

 彼女の夢の第一歩となるはずだったネクロノミコン。

 何とも無残な姿になり果てた稀代の魔導書ネクロノミコン。

 史の頭の中、飛び切りの笑顔でネクロノミコンが手に入る旨を報告してきたロビンの眩い笑顔が思い起こされる。

 心配した史がロビンの肩を叩く。

 ぐらり。

 ロビンの身体が傾いた。

 そのまま倒れ伏し、彼女は動かなくなる。

「せ、先輩! センパーイ!」

 史の叫びが店内に木霊した。


 ようやっと鼠の波が引いたようだ。

 鼠がぎゅうぎゅう詰めになった小さな虫籠が三つ。毛むくじゃらの捕囚達が救いを求めて鳴いている。

 あれだけ店内を逃げ回っていた鼠の影も今や見えず、一通り今回の騒動の原因を捕らえ尽くしたようである。

「や~っと終わった~」

 虫網を放り出し、庵はやれやれとばかりに伸びを打つ。

「全く……何処から湧いて出たんだか……」

 沙都子は頭を抱える。

 幸いと言うか何と言うか。被害が出たのはネクロノミコン一冊であった。最もそれは、ロビンに止めを刺すには十分すぎる被害であったが。

 今もロビンは目を覚まさない。豊と昴が心配そうに介抱している。

「何なんですか? この鼠達は……」

「分からない……が、人為的なモノを感じるよ」

「そうなんですか?」

「こいつ等、他にも齧れる物は沢山あるってのに、魔導書ばかりを狙ってきたからね。ネクロノミコンを狙った動きも随分統率されていたし、こいつ等、誰かの使い魔なんじゃないか?」

 ネクロノミコンが代償となった事は確かに痛かったが、その事に気付いた御蔭で他の魔導書を守り切る事が出来たともいえる。

 魔導書の束を抱えて店内を逃げ回っていた沙都子を、鼠達は明確な意思を持って追い掛け回していたのだが、三人娘が仕事に来るや否や状況は逆転。

 庵達の猛攻に勝ち目が無いと悟った鼠達は、散開して魔導書を狙う機会を伺っていたのだった。

「使い魔、ですか。どうにか使役者を見つけられませんかねえ」

「……難しいかな。雅の魔力が充満してるからね、この町。濃霧の様な魔力の紛れるせいで離れた個人の魔力を特定するのは私には無理だな」

「どうしましょう?」

「う~ん。流石に被害が大きいしなあ。あれ一冊だけでもどれ程の費用が掛かったか。流石に教会に頼んで犯人捜しをしてもらうべきかな」

 今後の行動についての話に夢中になっている史と沙都子。

 そんな彼女達に……正確にはその前に置かれた虫籠に忍び寄るものがあった。

 鼠だ。最も、その姿は唯の鼠とは言い難かった。その獣の顔はまるで人間の少女を思わせるものであり、明らかに知性の輝きを湛えていた。

 そろり、そろりと気付かれない様に。

 自分に気が付き助けを求める同胞達に、静かにするようにジェスチャーを送る。

 やがて史達の死角になる場所まで移動すると、如何したものかと思案する仕草を見せる。

 捕囚となった同胞達を解放させるには、史達に気付かれずに蓋を開ける必要がある。それも、一つではなく複数も。

 流石に難しいか。

 いっその事、虫籠を一つだけ解放して、脱出した連中が店内を攪乱している隙に、他の虫籠を開ける時間を稼いでもいいかもしれない。

 とにかく、この戒めを解いてやらねばならない。まだ、標的である魔導書は店内に複数あるのだから。

 意を決した人面鼠は、さっそく蓋を開ける為に虫籠を攀じ登ろうとする。

 瞬間、自分を圧迫する人の掌の感触。

 鷲掴みにされた人面鼠の前には、今し方まで気絶していたロビンの顔。

「ふふふ……つ~かま~えた~」

 ロビンの顔には笑顔が張り付いていた。張り付いたような凄絶な笑顔。眼だけは笑っていなかった。

 南無三!

 死角に紛れただけで安心しきっていた自分の浅はかさを、鼠は盛大に呪うのだった。


 三井寺頼夢は何処にでも居るようなごく普通のギャルだった。

 家系も平凡。頭脳も平凡。容姿はそこそこイケていると自負するものの、クラスで一番といったように際立って目立つようなものでもない。

 誰とも気兼ねなく接する明るい性格で、周囲からは愛されていたと自負している。

 ある日の事だった。一人の男子同級生に告白された。

 その男子生徒は何処となく根暗な雰囲気で、そこいらで鼠に語り掛ける奇行から、周りからは鼠男と呼ばれて馬鹿にされていた。

 頼夢は断った。別にその男子が気に入らなかった訳でも、嫌いだったわけでもない。

 実際、彼には分け隔てなく接していたし、傷ついた鼠を手にした彼の為に……正確にはちーちーと力無く鳴き続ける鼠の為に、流血を抑える目的でハンカチを貸してあげたりもしていた。

 ただ単に、頼夢は気が乗らなかったのだ。

 恋愛に興じるよりも、同い年のギャル達とつるんで遊びまわる方が楽しくて仕方が無い。まだまだ色恋沙汰には興味が持てなかったのである。

 ある日。友人と夜まで遊びまわってから、一人で帰宅している最中であった。

 ドン、と誰かがぶつかってきた。よくよく見ると、件の鼠男だった。

 怪我はないかとぶつかってきた相手を気に掛ける頼夢だったが、腹部に異様な熱を感じた。腹部に突き刺さったナイフ。足元を真っ赤に染めていく血溜まり。

 頼夢の意識は其処で途絶えた。

 次に頼夢が目を覚ました時、見知らぬ天井があった。

 むくりと起き上がる。

 何かが奇妙だった。

 周囲の何もかもが大きい。巨大なコップ、巨大な置時計、巨大な文庫本……。そのどれもが、頼夢の身体よりも遥かに大きい。

 鏡があった。其処に映った自分の姿を見て愕然とする。

 頼夢は鼠になっていた。顔にだけ人だった頃の面影が感じられる、奇怪な鼠に。

 鼠男が現れる。此処は彼の家だった。

 鼠男は魔術師だった。

 自分にも優しくしてくれた頼夢を如何しても諦めきれず、殺してから使い魔として蘇生させたのだと語る。

 最早頼夢は鼠男の掌の上。服従の楔が頼夢を絡めとり、彼に逆らう事は到底できない。

 とは言え、彼は頼夢には極めて真摯に接していた。

 時には自分の過去を語り、自身に強大な魔力を与えた魔導書の数々について話をした。

 少なくとも、頼夢の生活自体はそれなりに快適であったのだが。

 頼夢には如何しても耐えられない事があった。

 鼠男の残虐性だ。

 他の使い魔である鼠達は酷使され、使い捨ての道具以外の値打ちを鼠男は持っていない様子だった。

 また、自身を馬鹿にする者を魔術で害し、哀れな犠牲者が奈落に堕ちていくのをほくそ笑む嗜虐性に、頼夢は反抗心を覚えていた。

 こんな事は止めて欲しいと懇願するが、鼠男は頼夢の心優しさを称賛こそすれ、血に塗れた生活を改める様子は一切ない様子だった。

 何とかしてこの男から逃れなければならない。しかしどうやって? 使い魔として魔術で服従を強いられている以上、彼に対する反抗は無駄に終わる事は目に見えている。

 ところが。解放は予想だにしない時に訪れた。

 その日、鼠男は憤慨しながら頼夢に語った。また他人に馬鹿にされたのだと。

 最早何時もの事だった。彼は魔術によって自身のプライドを傷付けた者に報復するつもりなのだろう。

 ただ、その日唯一違っていたのは、彼の手に新たな魔導書が収まっていた事だ。

 今日手に入れたばかりの何とも珍しい魔導書らしく、鼠男は早速、報復を兼ねた実験の為にその魔術を用いようとしていた。

 それは悲惨な結果に終わった。

 魔導書を前に怪しげな呪文を唱える彼だったが、詠唱が突如として絶叫に代わる。

 宙に浮く身体が圧し折られ、溢れ出る血潮が宙に消えて行き……。

 鮮血で形作られるは触手を備えた異形の怪物。それはクスクスと笑い声をあげながら部屋を去り、残されたのは血の吸い尽くされた鼠男の亡骸のみ。

 何がいけなかったのかは分からない。ただ、鼠男が失敗して呼び出した何かの餌食になったという事だけは理解できた。

 服従の魔術は解けていた。他の使い魔の鼠達は、突然に出来事に固まっている。

 今ならば逃げ出せる。だが、頼夢にはやるべき事があった。

 血に塗れた魔導書に食らい付く。口内を支配する鉄と紙の味に辟易しつつも、根気を入れて魔導書を破壊し続ける。

 何時しか、周りには他の鼠達が彼女を真似て魔導書に群がり、魔導書に噛み付いていた。

 やがて、部屋中の魔導書を読書不可能な程に破損させた頼夢は、鼠達を引き連れて夜の闇へと消えて行く。

 鼠男を狂わせた、呪われた書物の数々。他にも存在しているのだろうか。

 ならば、やる事は一つ。魔導書は見つけ出し次第破壊する。

 さもなくば、鼠男の様に力に魅入られ道を踏み外す者や、自分と同じような目に会う哀れな犠牲者が出かねない。

 世界の裏側を知った以上、それに目を向けて生きる事など頼夢には出来はしない。

 崇高なる使命を胸に、頼夢は怪異に立ち向かう決心をするのであった。


「……という訳なんだ。だからお姉さん、その手を放してくれるとあーし、嬉しいなって」

 聞いてもいないのに自らの生い立ちを長々と披露する人面鼠、もとい三井寺頼夢。

 自身に降りかかった不幸に目もくれず、人様の為に怪異に挑もうと言った心意気は素晴らしいものではあるが。

「だけどなあ。あくまで使う人に責任がある訳で、魔導書自体を狙うのはどうなのさ。包丁で人を刺殺したからって、包丁を全て潰すつもりなの? そんな理由で商品を駄目にされたら堪らないんだけど」

「でもでも、それがヤバい本だってのは本当じゃんか! あーしみたいな犠牲者が出てからじゃ遅いんだよ!」

 溜息交じりの沙都子に対し、頼夢は尚も食い下がる。

 頼夢の言い分にも一理あった。そもそも、降って湧いた強大な力を……法律ですら裁けない力を手に入れておいて、それを使わないでいられる人間はどれ程いるのだろうか。

「うんうん。ロビンさんも分かるよ、その気持ち。魔導書の魅力ってのは凄いものさ。手に入れたなら試してみたくなるのも納得だ。そんな魅力に屈せずに魔導書を葬れる君の心の強さに脱帽するよ」

「ね! あーしを鼠にしたあいつみたいに、その本は人の道を踏み外させるんだ! そんな力は無い方がいいんだよ! 分かってくれたよね!」

 ロビンはにっこり笑う。

「うんうん。君の言い分は十分理解したよ。じゃ、死のうか」

「ギブ、ギブ、ノオオオッ!」

 小さな体を握り潰すつもりか、ロビンの手に力が込められていく。

 悲鳴を上げる頼夢を目にし、籠の中の鼠達は助けを求めてちーちーと鳴き出した。

「せ、先輩。この子も悪気があった訳じゃないんですから、命まで奪うのはやりすぎでは……」

「フミイ? ロビンさん始皇帝に関する本を読む時常々言っていたよね。焚書なんて蛮行を行う奴は須らく焼き殺すべきだって。どんな内容であれ書物を粗末に扱う連中を、ロビンさんは許しておけないよ」

「ノオッ! ノオオオッ!」

 相変わらず眼だけは笑っていないロビン。

 残骸と化したネクロノミコンの恨みを晴らさんとするかのように、苦しみが長続きするように加減しながら頼夢を締め上げていく。

 狂気に満ちたロビンの笑い声、必死になってロビンを止めようとする史の説得の声、苦しみから逃れようと足搔き続ける頼夢の声、ちーちーと頼夢の命の嘆願を行う鼠達の声……。

「ん。そこまで」

 阿鼻叫喚の店内に、小さいながらも良く響く声が通る。

 状況に見かねた三人娘が、店外で待機していた要を呼び込んだのだ。

 肩に置かれた要の手を見て、流石にロビンの手も力が緩んだ。

「無益な殺生は良くない。叔父上もそう言ってた」

「う……うう……」

 ロビンの顔が苦悩に歪む。襤褸切れと化したネクロノミコンの恨みと、武藤家への恩義が鬩ぎ合っているようだった。

 結局、武藤家への恩義が勝ったのだろう。見せしめの為に処刑されかかっていた頼夢を要に引き渡した。

 そのままロビンは部屋の隅に移動し、体育座りでいじけだす。

「頼夢?」

「え、あ、はい」

 命の恩人の掌の上、唐突の問いかけに頼夢は慌てて返事をする。

「魔導書を壊すのは良くない。読めなくなったら怪異を解決する為の貴重な記述まで失う羽目になる」

「で、でも……」

「ん。残念だけど私達は事件を解決する側。如何しても後手に回らざるを得ない。頼夢が望むように犠牲者が完全に出ないようにするのは不可能。既に起きている事件でこれ以上犠牲者を出さないようにするので精一杯。だけど、知識が失われたらそれもままならない。怪異に巻き込まれた人を助ける為にも、これ以上魔導書を壊さないで欲しい」

 命の恩人から提案される、強制ではない懇願。

 邪悪な目的の為にではなく、邪悪な輩に対抗する為に魔導書を必要とする者は確かに存在するのである。

「心配? 危なそうな魔導書を見つけたら車輪党に連絡すればいい。あそこの人達は魔導書を悪い事には使わないし、人目に付かない場所に保管してくれるから」

 あくまでも提案だ。断っても良いのだろう。だが、彼女の言う通りに魔導書が人を救う手助けともなる存在ならば。

 頼夢は申し出を了承した。これからは魔導書を見つけ出し、信頼できる相手に保管してもらうと。

 その言葉に、要は満足げに頷く。これならば車輪党の図書館も潤うし、堅洲町のカルト組織の魔導書が被害にあう事も無い。

「有難う頼夢。それと、ネクロノミコンが見つかったらロビンに真っ先に知らせてあげて」

「分かったよ。あーし、交わした約束は必ず守って見せるから! よーし、あのお姉さんに殺されない為にも、早速ネクロノミコンとやらを見つけ出すぞ~!」

 頼夢の言葉を受け、同胞達も任せろとばかりにちーちーと歓声を上げている。

「……気持ちは嬉しいんだけど。まあ、難しいかな」

 彼女達の気炎を削がないよう、小さく呟く史。

 この世に完全なネクロノミコンの写本など、そうそう有るものではない。

 そうでなければ、普段はポジティブさの塊であるロビンが此処までへこんだりはしないだろう。

 気落ちするロビンの背中を見て、どうやったらこの事件から先輩を立ち直らせる事が出来るのだろうかと頭を悩ませる史であった。

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