焔に手を伸ばして(瑞穂サイド)
夢幻島へ海人を送り出してから、三日が過ぎた。
焔木瑞穂は、本家屋敷の奥まった書斎に一人こもっていた。
机の上には、島の地図、結界の記録、古文書。そして、未使用の術符が整然と並んでいる。
だが、彼女の目は、そこには向けられていなかった。
視線はただ、遠く――夢幻島の方向を見つめていた。
――あの日、島の空に轟いた“爆音”。
あの爆炎符の気配は、あまりにも強すぎた。
明らかに術符一枚の威力ではない。海人の中で何かが、確かに目覚め始めている。
「……生きていて。お願いだから……」
瑞穂は、小さく胸元の術符袋を握りしめた。
当主の座には、瑞穂の父であり、焔木家現当主――焔木宗真が静かに腰掛けていた。
年齢は五十を超えていたが、若い頃は術も剣も第一線で活躍した人物であり、何より心優しき「調和の人」として一族に慕われていた。
「……皆、爆発の件については把握していると思う。夢幻島における爆炎の痕跡……これは、我々の中で“制御されざる火”を持つ少年の痕跡だ」
「三日で片がついたな」
「大きな爆発だったようだ。結界の気配も乱れていた」
「やはり海人の処分は正解だった。あのような異端、いずれ禍となる」
瑞穂は、重々しい空気の中、父を含む長老たちの会話を黙って聞いていた。
――焔木健太も、そこにいた。
相変わらずの冷笑を浮かべながら、傍らに座り、彼女を一瞥する。
「心配するなよ、瑞穂。あの爆発のあとじゃ、もう確認するまでもない。
君の“痛ましい正義感”も、これで片がついたってことさ」
瑞穂は黙って立ち上がった。
「……あなたに人の命の重さは分からない。ましてや、彼の苦しみなど知るはずもない」
「そうかもな。だが、君もそろそろ“大人”になるべきだ。
過去に縋って、感情で一族を動かそうとするのは、愚か者のすることだ」
「そう言いながら、あなたは自分の嫉妬で彼を殺そうとしたじゃないですか」
「……なんだと?」
健太が目を細めた。だが瑞穂は、一切怯まなかった。
宗真は静かに娘の瑞穂へと目を向けた。
「瑞穂。それは海人のことだね」
「はい。彼は生きています。確証はありませんが、あの術は……彼のものです。彼は……戦っています。生き延びようと」
宗真は、微かに目を細めて頷いた。
「……あの子の力は、強く、危うい。だが、あの夜、私は……彼の言葉を聞いていた。“守りたかった”と」
「父上……」
「私は、あの子を罰したことを悔いてはいない。あのとき、焔木の民を守るため、私は“正しさ”を選んだ。だが、それはあの子を切り捨てたという事実から逃れることではない」
宗真は、娘に静かな眼差しを向ける。
「君は……あの子を信じているのか?」
瑞穂は強く頷いた。
「ええ。彼は、一族の誰よりも純粋な“焔”を持っていると思います。私は、それがどれほど不器用でも、無価値だとは思いません」
その言葉に、一部の重鎮たちが顔をしかめた。
だが――
「……父上。私がもし、当主となった暁には――もう一度、彼に“居場所”を与えたいと思っています」
会議の空気がぴたりと静まる。
その中で、宗真は一人、穏やかに微笑んだ。
「……よかろう」
■
会議が終わったあと、宗真は一人、庭に出て夜空を仰いでいた。
そこへ、瑞穂が静かに近づく。
「……父上。先ほどはありがとうございました」
「礼などいらぬよ。あれは、私が父として言うべきことだ」
宗真は目を閉じ、少しの沈黙のあとに言った。
「……私はね、今でも思うことがあるのだよ。“あのとき、彼にもう一度だけでも話を聞いてやれなかったのか”と。
政治的な決断と、人としての情は、いつだって矛盾するものだ。だが、だからこそ……」
彼は瑞穂の肩にそっと手を置いた。
「君には、心を失わない当主になってほしい。力の上に立つのではなく、“人の声”を信じる者に」
「……はい」
瑞穂は、その言葉を胸に刻んだ。
父は、決して冷酷ではなかった。ただ、守るものが多すぎたのだ。
そして今――その重荷を継ぐ者として、自分もまた“覚悟”しなければならない。
彼を――海人を、守るために。
「……必ず、生きていてくださいね。海人」
彼女の声は風に乗り、静かに夜空へ溶けていった。