【最終話】第42話:一時の平穏
焔木家の混乱がひと段落し、内なる敵をあぶり出す任務も一時休止となったことで、海人はようやく日常という名の安らぎを手に入れていた。
かつての監禁地である、小さな山あい。
朝の空気は澄みわたり、鳥のさえずりが穏やかに響く。
森の奥で響く獣の足音すら、今の海人にとっては心地よい生活の一部だった。
「……魔物がまた出てきましたね。少しずつ増えてる」
ゼロが警戒するように周囲を見渡し、隣を歩く海人に報告する。
「そうだな。でも今回は瘴氣は感じない。単なる生息域の変化だろう」
海人は刀を腰に差したまま、獣道を進んでいく。
数日前も、迷い込んだ牙狼を一閃で追い払ったばかりだ。
「ま、仕事が魔物退治になった時点で、平和ってことなんでしょ。便利屋だな、あんたも」
後ろから、桐生が草の葉を噛みながら、面倒くさそうに肩をすくめた。
「文句があるなら手伝わなくてもいいぞ」
「いや、するけどよ。こうして動いてる方が、俺は落ち着くんでね」
そんなやり取りを続けながら、三人は森の中での調査を終え、日暮れとともに家へと戻る。静かに流れる時間が、あまりにも貴重で尊い。
そして――
「おじゃまします」
「差し入れ持ってきたよ!」
扉を勢いよく開けて入ってきたのは、瑞穂と刹那のふたりだった。
竹籠には山菜や漬物、そして炊きたての白米がぎっしり詰まっている。
「お前ら頻繁にここに来るな。暇なのか?」
「なに言ってるの。定期訪問って言ってるでしょ? これは監視なんだから」
刹那が小突こうとするのを、海人は余裕の笑みで受け流す。
「……まあ、ありがとな。よかったら夕飯、一緒にどうだ?」
「では、お言葉に甘えて」
そして瑞穂が街でで買っきた饅頭を出した。
「甘いのがあると、空気が柔らかくなるのよ」
瑞穂はそう言って、海人の湯呑みにお茶を注いだ。
「お茶まで入れてくれるのか。なんだか、姉さんみたいだな」
「……それ、嬉しいの?」
「ちょっとだけ、かな」
瑞穂は照れたように笑い、刹那はもどかしげに頬を膨らませた。
「もーっ! 私も今日はおかず作ってきたのに、なんで瑞穂ばっかり……!」
「え? 刹那が作ったのか」
「う、うん……その、煮物と、あと卵焼き……焦げたけど……」
「ありがとな。どんな味でも、気持ちは嬉しいよ」
そう言って海人が口に運ぶと、少し濃い味付けの卵焼きが、思いのほか懐かしい味だった。
――その夜、囲炉裏を囲んで五人で食べる食卓は、穏やかで、優しい時間だった。
戦いや契約式、裏切りや瘴氣の影も、今この瞬間だけは遠くに感じられた。
「なあ、お前ら」
桐生が、口を動かしながらふと呟く。
「こうしてると、悪くねえなって思うわ。焔木家とか、封印とか、そんなの全部忘れて」
「忘れては、いけないけれど」
瑞穂が続ける。
「でも、こういう時間を持つことは、私たちにとって必要だと思うわ」
「……ほんとに、そう思うよ」
海人は囲炉裏の火を見つめながら、ゆっくりと頷いた。
守りたいものがある。
大切な仲間がいる。
それだけで、人は強くなれる。
それを、今は信じていた。
そして、夜が静かに更けていく。
――平穏の時間は短くとも、その温もりは、確かに胸に刻まれていた。
これはきっと、束の間の平穏。
けれど、海人たちにとっては何よりも尊く、守るべき時間だった。
そして、海人は思う。
(……こんな生活に戻れるなんてな)
誰かの未来のために、誰かの罪を終わらせるために。
焔木海人の旅路はまだ続く。
だがその前に、今夜は少しだけ、温かなご飯と仲間との笑顔に包まれて。




