第33話:驚異的な集中力
数日後――
部屋の一角に、簡素な机と椅子が設けられていた。
瑞穂が持ち込んだノートや教科書が積まれ
刹那が書いた「海人勉強計画表」なるものが壁に貼られている。
その中央には、こう記されていた。
――目標:高認試験合格。まずは中学卒業レベルを目指す。
「……なんつーか、地味だな」
海人は鉛筆を手にしながら、半ばうんざりしたようにつぶやいた。
「そりゃ最初は地味に決まってるじゃん。小学の教育からやり直すんだし」
刹那が腕組みして胸を張ると、横で瑞穂が丁寧に補足する。
「今日の課題は、小学5年生レベルの算数と、漢字の書き取りです。
まずは“学ぶことに慣れる”のが第一段階ですから」
海人はため息をつきつつ、鉛筆をカリカリと動かし始めた。
それから一週間。
机に向かう海人の表情は、最初の頃とはまるで違っていた。
集中した眼差し。無駄のない手の動き。
文字は丁寧に、計算は正確に。
まるで“戦闘”と同じように、学びの場にも彼は順応していた。
「……終わった」
ノートをパタンと閉じ、海人は軽く肩を回した。
「今日の分、数学Ⅱ・英語構文・古文読解まで完了。問題集も8割正解か」
刹那がぽかんと口を開けて彼を見つめる。
「ちょ、ちょっと待って! なんでいきなり“因数分解”とか普通にできてんの!?」
「昨日の夜にちょっと集中したら、なんとなくパターンが見えてきた。あとは応用問題ばっかだったし」
「“なんとなく”のレベルじゃないよ!?」
刹那が絶叫に近い声をあげる横で、瑞穂は静かにページをめくりながら微笑んだ。
「やはり……想像以上ですね。
記憶力、論理処理、集中力――どれも常人の比ではありません。
……あの六年間、閉ざされた環境の中で知識だけを吸収していた成果でしょうか」
「いや、吸収する相手が本しかいなかったからな。
そりゃあ“本気で読む”しかねえだろ」
そう言って笑う海人の目には、疲れと同時にどこか充実した光が宿っていた。
ゼロも、さすがに評価を変えたらしい。
「補足します。マスターの処理能力は一般の教育課程を凌駕しています。
短期間で高認突破、さらに上位進学校への進学も現実的です」
「おい、それ以上持ち上げるとプレッシャーで寝込むぞ」
「事実です。……が、社会性・協調性においては未評価領域です。
“女子と話す能力”は現段階でゼロと推測されます」
「それは今は関係ねえだろ!」
刹那は苦笑しながら海人の頭を小突いた。
「でも、すごいよ海人。……本気で、高校行けそうじゃん」
海人はしばらく黙ってから、ぽつりと呟く。
「……まだわからねぇけどな。でも、手応えはある」
そして、ふっと小さく笑った。
「やるなら、ちゃんとやる。中途半端は……もうたくさんだ」
瑞穂と刹那は、その言葉にそっと頷いた。
焔木海人――幽閉の六年間を経て、今、新たな“学び”という戦場で才能を開花させようとしていた。
さらに数日後。
山から少し下った町の一角――
焔木海人は模擬試験の答案を前に腕を組んでいた。
静かな試験室。カリカリと鉛筆の音だけが響く。
その中で、海人の動きは一切淀みがなかった。
――終了のチャイムが鳴る。
「ふぅ……」
鉛筆を置き、海人は深く息を吐く。
表情には、緊張ではなく明らかな手応えがあった。
結果はその日のうちに簡易判定された。
「……全科目、偏差値60超え。中には70を超えた教科もあります」
センター職員が目を丸くしながら言った。
「この短期間でこれは……正直、信じられません。どこかの有名塾に通っていたとか?」
「いや、独学です。――あと、ちょっとした家庭教師がついてました」
そう言って、海人は背後に立つ刹那と瑞穂のほうをちらりと見る。
刹那は得意げにVサイン。
「……あくまでちょっとだけね。私の教え方も大概だったし」
「けれど、それを活かしたのは彼自身です」
瑞穂は控えめに笑った。
職員は頷き、手元の書類を整理しながら言った。
「では、試験の出願は正式にお手伝いします。日程はこちら。試験は来月、十分に間に合いますよ」
「……ああ、頼む」
海人は深く頭を下げた。
その様子に、職員は目を細めながら言った。
「それと、もし進学先がまだ決まっていないなら、推薦可能な高校もあります。……たとえば」
その瞬間、刹那がぐいっと前に出た。
「ちょ、ちょっと待って! もし推薦するなら私達の高校にしてください!」
「え? あ、でも、そこって――」
「同じクラスになるかはわかんないけど! 先生に聞いてみるから! 絶対楽し……、勉強にもなるし!」
職員が苦笑するのと、瑞穂が控えめに咳払いするのが同時だった。
「……まずは試験を通ってからね。刹那」
「だよねー!」
海人はそのやり取りを見ながら、静かに、しかし確かな実感を込めてつぶやいた。
「……外の世界ってやつが、少しずつ見えてきた気がする」




