誰かを信じることが怖い?
ラジオ体操を終えて家に戻ると、おばあちゃんが朝ごはんの準備中だった。
「ただいま!」
「お帰りアオ、手ぇ洗ってご飯食べなぁ」
シワの目立つ顔に優しい笑み浮かべ、みそ汁を運んできた。
「うん」
わたしは顔を洗ってから居間に向かう。
広い畳の部屋に四角い木のローテーブル、美味しそうな朝ごはんが湯気を立てている。
「いただきます!」
「あい、めしあがれ」
真っ白な炊きたてご飯、今日の赤いソーセージは5本。それに綺麗な卵焼き、みそ汁はお野菜多め。新鮮なトマト、キュウリの浅漬け。
どれも美味しくて、お腹も空いていたしいっぱい食べてしまった。
「今朝はよく食べるねぇ」
「ごちそうさま! ねぇおばあちゃん、虫取り網とかある?」
「おぉ虫取りのアミかぇ……? それだばぁ、たしか納屋にあったと思うよぉ。アオは遊びにいくんかぇ?」
朝ごはんの片づけを手伝いながら、9時に約束した虫取りのことを話す。
ラジオ体操で話すことのできた千穂さんと、マキちゃんとサトルくん。
三人組に昆虫採集に誘われたことを。
素直に嬉しいし、楽しみ。
「よかったねぇ、気ぃつけて行くんだよぉ」
おばあちゃんが家の裏手にある納屋にわたしを案内した。
中は暗くて、古い農機具や道具がたくさん積みあがっていた。壁際にあった虫取り網をみつけて手渡してくれた。少しホコリをかぶっていたけど使えそう。
「よかったー」
「ダメでも下の『田中商店』で売ってらっけども……。あと虫かごはこれでいいかねぇ」
緑色のプラスチック製の虫かごも見つかった。
「いいよ! これなつかしい、覚えてる」
昔、わたしが小さいころに使ったものだ。
確かに幼稚園のころ、これを手に庭でチョウチョを追い回していたっけ……。
「他の子もおるけぇ、大丈夫だとは思うけんど……」
おばあちゃんは納屋から出ると山のほうに視線を向けて、つぶやいた。
「ん?」
「山のほうさ行く時ぁ『ユガミ』様には気ぃつけんといかんよ」
いままでとは違うけど『ユガミ』様の名前にドキリすとする。
「『ユガミ』さま……」
「そこらじゅうにおる良くないモノだけぇの。道路の先や、田んぼの向こう、古い御社さまんトコがぁ歪んで見えたり、嫌な感じがするところにはのぅ、近づいたらいかんよ」
納屋の奥の暗がりに何かがじっと息を潜めているよう、そんな気がして背筋が冷えた。
やっぱり『ユガミ』様はそこらじゅうにいるのかも。
でもむやみに怖がらない。
今日は一人じゃないし。
「わかった、おばあちゃん」
私は静かに頷いた。
他の子がいるし、おばあちゃんの説明を聞いて怖くなくなった気がする。
「そうけぇ? まんず、気ぃつけててなぁ」
「うん、行ってきます!」
おばあちゃんに見送られ、麦わら帽子をかぶって出発。
前の8月8日では自由研究のために出かけた。
でも自由研究は後にしよう。
五回目8月8日は今までとは違うルートだって気がするから。
タチアオイの花が揺れる小道を進んでゆく。
セミの声がワンワン歌い始め、むっとする草と水の匂いがする。
田んぼの間を通り抜けると、毎朝ラジオ体操をしている広場へ出た。
使われていない古い小学校の建物も見える。
でも、まだ誰もいなかった。
「あれ……?」
古い廃校舎の壁に時計がある。時間を確かめると9時の五分前。
すこし早かったかな。
誰もいない。
急に不安が押し寄せてきた。
千穂さんたちは本当に来るのかな……。
広場のはじっこの桜の木が何本かあって葉を茂らせている。わたしはその下で待つことにした。
日かげで涼みながら、誰もいない校庭をぼんやり眺める。
校庭の向こう側、錆びた鉄棒や砂場のあたりにモヤモヤがあった。
太陽で熱せられた地面がつくる「しんきろう」だろうか……。
まさか『ユガミ』様?
ユラユラしたそれはわたしを笑っているような、遠くから見ているような感じがして目をそらした。
「……」
もしかして……だまされた、とか?
昆虫採集なんて実は嘘で……。
じつは意地悪で誘ったふりをして、陰からくすくす見て笑っているとか。
よそ者の子をからかって、笑っているとしたら……。
そんなこと……だったらどうしよう。
ぎゅっと胸の奥が冷たくなる。
虫取り網と虫かごを持ったわたしは、浮かれててバカみたいって。
されたら嫌だなってことや辛いことがどんどん思い浮かぶ。
すると校庭の向こうのユラユラした歪みが大きくなった気がした。
ルカ、どうしよう……。
わたし、やっぱり怖いよ。
見えないオバケより、誰かを信じることが怖いのかも。
裏切られて意地悪されることを簡単に思いつくわたし自身が、いちばんキライで嫌だ。
なんて自分は嫌なヤツなんだろうって思う。
まるで意地悪な『ユガミ』様そのものじゃん。
でも……。
千穂さんの太陽みたいな笑顔が思い浮かぶ。
そうだ。
そうだよ。
だいじょうぶ、千穂さんたちはきっとくる。
バカバカ! わたしのアホ!
ぶんぶん頭をふって、んあっ! と気合をこめる。
立ち上がって、意味もなく跳ねてみる。
千穂さんの瞳とか笑顔とか、そういう子じゃないって、わたしは思った。
朝のあの感覚を忘れるなんて。
と、そのときだった。
わたしの足元にころころと白ボールが転がってきた。
太陽の向こうから、誰かが投げてよこしたのだとわかった。
「おーい、拾って投げて!」
校庭の向こうに日焼けした背の高い男の子がいた。
サトル……くんだ!
左手にグローブをつけて、右手をあげている。
後ろから小さな子もついてきている。
短い髪に野球帽、男の子みたいに見えるけど、間違いないマキちゃんだ。
サトルくんはTシャツに短パンサンダル履き。そして何故かグローブ。
虫取りの恰好じゃないけれど。
マキちゃんのほうは虫取りあみを手に、虫かごを肩にかけている。
来た!
来てくれた……!
「う、うんっ!」
わたしは嬉しくて、でも泣き笑いしそうな変な顔をあまり見られたくなくて。
地面に転がっていたボールを拾い上げると、そのまま思い切り投げた。
えいっ……!
ボールは変なほうに飛んだ。
ぜんぜんサトルくんのほうに届かないし、斜め右にすっとんでいく。
わたしって本当に球技が苦手。
野球のボールなんて投げたことも無いし。
「ナイスー」
なにが、どこがナイスなの!?
でもサトルくんはものすごい勢いでダッシュしたかと思うと、コロコロころがってゆくボールを拾って、くるくる地面の上でバレーダンスするように回転した。
「おっまたせー!」
反対側の桜並木のむこうから、元気な声がした。
そっちからは千穂さんが来た。
「チホ……さん!」
「準備に時間かかっちゃって、みんな待ったー!?」
まるで探検にでもいくみたいな、グリーンの迷彩模様のシャツと短パン、バンダナ。
手には虫取り網。なんか本気を感じるスタイルに思わず笑いそうになる。
「ううん、ぜんぜん」
わたしたちはそれぞれバラバラの方向から歩み寄った。
そして校庭の中央で集合した。
「よかった、アオさんもみんなも、来たね!」
探検隊のリーダーみたいな恰好で千穂さんが声をかけてくれた。
「うん」
嬉しくていろいろ言おうと思ったけど、うんとしか言えなかった。
「……サト兄ぃは野球しに来たの?」
「おまえらだけじゃ危ないからな」
ジト目でサトルくんを見上げるマキちゃん。
いちおう、最年長だから保護者ってことなのかな。グローブとボールしか持ってないけど。
「つか、サトルがカブトムシとクワガタの『穴場』に案内してくれるんでしょ!」
千穂ちゃんがツッこむとサトルくんはボールを上に放り投げて、自分でキャッチ。
「あぁ、行こうぜ!」
ボールを山のほうに投げるフリをしながら笑う。
そして、わたしたちは昆虫採取に出発した。
<つづく>