青色の、空
あるところにお姫様が生まれて、何不自由なく暮らしていました。お姫様はすくすくと育ち、結婚をする歳になりました。けれども約束の日、会えるはずの王子様に会えなくなっちゃって・・・。それから・・・、えっと・・・。
どうしよう。夢が、ない。夢ってなに? 夢がないと、この先何にも始めちゃいけないの?
進路希望調査票の最初に『あなたの夢は何ですか?』って欄がある。この欄のせいで私はいつもつまずいてしまう。
「またボーッとしてる!」
頭の上から聞き慣れた声が降ってきた。
「え? ボーッとしてるんじゃないよ?」
自分の口から出た声は、美也の声には全く及ばない小さな声だった。
「ボーッとしているっていう以外にその状態をなんて言うの?」
「・・・空想?」
「なにを空想しているっていうの? 内容を具体的に言ってごらん!」
えっ、そ、そんなことを言われても、空想は空想だもん・・・。具体的に? えっと・・・。すぐに答えられない私を見て、また美也の声が降ってきた。
「ほら、言えないじゃない。それ、空想じゃなくて妄想でしょ? あんたってホント、なにも考えてないんじゃない?」
妄想? 妄想って空想よりもヤバい響きがする言葉じゃない?
そういえば、あんまりちゃんと考えたことなかったかも。受験する高校を決める時は、美也と同じところがいいなあと思ってここにした。友達も何人か一緒だったから安心だったし、幸い学力的には間に合っていたようで、上の方ではなかったが普通に合格できた。それからなにをして過ごしているかと言えば・・・。
特になにもない。毎日きちんと授業を受けに学校に通っている。学生なんてそれで十分じゃない? 部活は特にやりたいこともなかったから、入らなかった。別にそれでいいと思っていた。自分がやる気のない人間だなんて思ったことはなかったし、それで不安になることもなかったけど・・・。
私、実はいい加減な人間だったのかな。自分では自覚がない。あ、自覚がないのはもっとまずいのか。
高校二年の半ばはとっくに過ぎ、いよいよ進路の話題が増えてきた。
「愛生はどこに行くの?」
小学校から仲の良い美也は、私の一番の友達だ。
「行くってどこに?」
「大学だよ」
「大学!?」
「愛生、大学行かないの?」
「えっと・・・」
なにも考えていなかった。これじゃ美也に言われたとおりだよ。
「もしかして、まだ先のことだから、とか思ってる?」
少し美也の声が尖ってきた気がする。見抜かれている。なにも考えていないというか、先延ばしにしてきたというか・・・。
「え、あの、ちゃんと考えるよ! 行く行く! 大学は行くよ?」
そういえばお母さんは「行きたいなら大学へ行ってもいいのよ」って言ってたっけ。
「なにかやりたいこと、あるの?」
やりたいこと? やりたいことって? 私の顔を見て、美也が呆れている。
「やっぱなにも考えてないよね? やりたいこともないのに大学行くなんて言ってるの?」
やばい。美也が怒っている。
「だ、だめかな? だ、だってさ、ホラ、行ってみて『これだ!』ってことに出会えるかもしれないじゃん?」
「そんないい加減な気持ちで進路を決めるの? なにをやりたいかがちょっとでも自分で分かっていないと学部も選べないじゃない」
ガクブ? ガクブってナニ?
美也が大きな溜め息を吐いた。
「あー、もうちょっと早くこの話しておけば良かったね。小さい頃だったらともかく、まさか高二にもなってまで人に言われなきゃなにもしないなんて、思ってもいなかったから。これからみんな忙しくなるんだからね! あんたもちゃんと考えなさいよ!」
・・・本気で怒っている。前から思ってたけど、美也ってホント、しっかりしているな。だから美也についていけば大丈夫だって、ずっとそう思っていた。それで良かった時期はもうとっくに過ぎていたのに、私はそこで思考が止まっていたんだ。
そういえば入学して間もない頃に“進路希望調査票”なるものが配られたっけな・・・。提出した気がする。
私、なんて書いたっけ? 高校卒業してすぐに社会人なんてムリって思って、とりあえず『進学』に丸を付けた気がする。うろ覚えだけど・・・。それから何度か提出しているよね。最初と同じ理由で進学に丸付けてた・・・。でも、それだけ。大学か専門学校かなんて全然考えてなかった。第一、自分がなにをやりたいかなんてちゃんと考えたことがない。自信を持って言うことじゃないけど・・・。私、ピーターパン症候群なのかな? いや、別に大人になりたくないわけではない。でも、どうしよう、美也が怒っている。
「ちゃんと考える! 考えるよ! まだ大丈夫だよね!?」
美也に向かって慌てて叫ぶように言った。美也は私をジッと見据えている。すごくすごく疑っている目だ。
「私だって自分のことで精一杯になるよ。まあ、相談ぐらいは乗るけどさ」
「あ、ありがとう、美也! やっぱ友達っていいね!」
「ちゃんと自分で考えなさいよ」
念を押されたが、怒っていた顔はもういつもの優しい表情に戻っていた。ふう、良かった。
でも、はああ。進路かあ。憂鬱だなあ。
私がやりたいことってなんだろう。
いつも頭の中ではハッピーになれるお話とか、目に付いた物がこんなふうに動いてしゃべり出したら面白いだろうなとか、都合のいいように動かしたり考えたりしているのに。自分のこの先のこととなると全く考えられない。
四月になり、新学期が始まった。とうとう高校三年生だ。春休みに入る前に美也に怒られたことをよく考えてみたけど、やっぱりまだ、こうという結論は出せていない。どうにもならないけど、こんなんでいいのか、自分!
始業式が終わって一週間くらいたった頃のこと、クラスの女子がなんだか騒がしい。
「男子だって」
「えー、ホント? うわー、イケメンかな?」
なんの話だろう。
「おはよう、愛生」
私より早く登校していた美也が声を掛けてきた。
「おはよう。ねえ、なんかみんな騒いでいるけど、なんかあったの?」
クラス替えはあったが、嬉しいことに美也とはまた同じクラスになれた。美也は一度、周りの女子を見てから、「転入生だって」と教えてくれた。
「えっ、そうなの? うちのクラスに?」
転入生なんて、高校生になってもいるんだあ。
「相当、遠くから越してきたらしいよ」
「遠くってどこ? 良く知ってるね」
「知らないよ」
ワクワクしながら答えを待っていたのに、素っ気ない返事・・・。まあ、時々こんな言い方をする人ではある。
「・・・知らないの?」
「さっき職員室の前を遠った時に、『それは遠くからはるばるだったなあ』って聞こえただけだもん」
そ、そうなんだ。はるばるなんて、久しぶりに聞いた言葉かもしれない。もしかして海外からだったりして。
「知りたかったら自分で聞けば? もうすぐここへ来るんだから」
・・・その通りなんだけどね。別な言い方もあるだろうに、そんな言い方しちゃうから、美也って誤解されちゃうこともあるんだよね。でも、相手に必要なことはちゃんと言ってくれるから、私は美也のそういうところは好きだし、美也が友達で良かったと思っている。
三年生になる直前、進路のことを指摘して真剣に叱ってくれたの、美也だけだし。
親は特になにも言ってこない。そんなんでいいの? なんてこっちが逆に思ってしまう。親も親だな。私が言うのもなんだけど。
そんな事を考えていると、女子の声がひときわ大きくなった。教室の引き戸が開いたのだ。いよいよ転入生のお出ましだ。
「おはよう。みんな席に着けよー」
担任の声でガタガタと椅子の音を立てて席に着く。そして、さっきまでの騒々しさが嘘のように静まりかえった。担任の隣には、一人の男子が立っていた。背が、高い。
「転入生を紹介する」
先生が黒板に白い線を書いていく。
桂木 悠真
それが転入生の名前だった。また、女子どもが騒ぎ出す。
「ゆうまくんだって~! カッコいい名前~」
・・・そうか? 別にフツーでしょ。クラスに似たような名前の人がいた気がしたけど? 名前だけでそんなに騒ぐ? カンジンの顔は? 顔、顔、と。
黒板に書かれた名前から、転入生の顔に視線を移す。
「!!」
驚いた。イケメンじゃん。
「口、開いてるよ」
私の斜め前に座る美也が、こちらを振り向いていた。
「よだれ、垂れてる」
『うそっ!』と、慌てて口を拭う。・・・垂れてないじゃん! アホか! イケメン見ただけでよだれを垂らすほど、私はバカじゃないよ! 美也の目がシラ~ッとして黙って私を見ている。そしてフフッと笑ってから、前を向いた。
転入生が来るなんて、一大イベントと言ってもいいくらいだ。それが男子ともなると、女子にとっては更に騒ぎが大きくなる。
早速、品定めが始まった。顔、身長、声、話し方・・・等々。私は別に興味はなかったけど、いや、イケメンだとは思ったけど、大事なのは性格じゃない? いくら顔が良くても性格悪いやつはゴメンだね。そう思いながら窓の外に目をやった。窓際の席で良かった。女子たちはまだザワザワしているが、私には関係ない。いや、イケメンだとは思ったけれども。
窓の外に視線を投げ出して、ザワつきから逃げ出した。・・・はずなのに、真横を通る人の気配に思わず振り向いた。
「よろしく」 通り過ぎる時に彼の声が聞こえた。転入生くん、いや、桂木悠真くん。きみ、この席なの?
そうだった。私の後ろ、空席だった。
自慢じゃないが、私は目がいい。一瞬だったけど、「桂木悠真」なる人物の、人は分からないがナリは見えた。切れ長の涼しい目元、もちろん二重。鼻筋はすっと通っている。そしてその下に収まる口はなんとも形がいい。唇の厚さはぼってりしているわけではなく、かといって薄っぺらいわけでもない。なんという整った顔。今まで見たことがない。
なんとなく、視線を教室内に戻すと・・・。
「!!!」
みんながこっちを見ている! 特に女子! こわっ! 少々殺気さえ感じるのは気のせい? 私一人だったらこんなに注目を浴びることはない。え? 何? この人のオーラ? いかに転入生が珍しいといえど、ナニこの注目度。
「よ、よろしく・・・」
小声で返すのが精一杯だった。
休み時間になると案の定、桂木くんの周りに人が集まる。特に女子。私は普段通り自分の席に座っているだけなのに、集まっている女子の背中が私の体を押す。他意ははないんだろうけど。いや、あるのかも。
『興味ないなら休み時間くらいはそこどいて』って、まるでそう言われているようだ。はいはい、どきますよ。ガタッとわざとらしく大きな音を立てて、椅子から立ち上がった。トイレにでも行ってこよ。立ったついでにチラと後ろの席を見る。こんなに女子に囲まれているんだから、さぞ嬉しいでしょうね。どんな顔してるんだか。
後ろを向いた瞬間、彼と目が合った。ちょうど彼女らの間の、ほんの少しの空間から、私を見ていた。
女子に埋もれていると思ったのに。その口元は、笑っているのかいないのか、分からなかった。でも、目は確かに私を見ている。びっくりして、すぐに目を反らした。女子に囲まれてずいぶんデレッとしているだろうと思ったのに、そんなことはなかった。根掘り葉掘り聞き出そうとしている女子たちに、ちょっとうんざりしていた? でも、気分は悪くないんじゃない? 意外にも彼と目が合ってしまったことに驚きが収まらないまま、急いで教室を出た。
美也は彼が遠くから越してきたと言った。そういえば、本人も自己紹介で名前しか言っていなかった。だから、いろいろ知りたがる女子に囲まれているんだろう。美也は、彼がどこから来たのか知りたければ自分で聞けば、とも言った。別にどうでもいい。そこまで知りたいとは思わない。今、ここにいるんだから。他の女子はイケメンの転入生が来たことで、これからの学校生活がまるで変わるかのように騒いでいるが、そんなことはない。私は別にいつもと変わらない。このまま毎日が今まで通り過ぎていくだけだ。変わることといえば・・・これからの行き先。私は進路を考えなければならない。この前、美也に怒られて気が付いた。自分のことなのに、自分で考えることから逃げていた。あれからもう一ヶ月近く経っているから、真剣に考え続けているとしたら(いや、真剣に考え続けていたけど)、もう何らかの方向性が見えていてもおかしくはないはず・・・。はず。
方向性? 何の? 私、何が好きなの? 何ができるの? 大学で勉強できることって何! 私がやりたいことって何!? というところで思考が停止してしまう。そこから先を考えなくちゃならないのに、そこからが何もイメージできない。気付くと階段の踊り場の窓から、空を見上げていた。
キーンコーンカーン・・・。
予鈴が鳴った。教室に戻ると、担任がもう黒板の前に立っている。
「これから進路希望調査票を配るぞ。今までの学年でも書いてきたはずだが、もう三年生だ。いよいよ色んなことが現実味を帯びてきたぞ。よおく考えろよ。提出は金曜日だ」
え、今まさに考えていたことじゃん! いきなり現実が突きつけられた! 今週の金曜日!? ムリ!
先生、もっと余裕をください! ・・・なんて思っているのは私だけ? 教室を見回すと、みんなそんなに焦っていないように見える。やっぱりこんなにのんびりしてたの、私だけなのかな。美也に怒られなかったら、のんびりどころか、全然考えていなかったかも。きっと私のことだから・・・。
美也はどうするんだろう。そういえば、毎日おしゃべりするのに、美也の進路のことは知らない。頭がいいから、きっと大学行くんだろうな。どこに行くんだろう。私もちょっと頑張ったら同じところに行けるかな、一緒に。席に座っている美也を見ると、背中がしゃんと伸びている。
すでに授業に入っていた。美也が見つめる方向を私も見る。このまま一緒に歩んで行けたらな。だって一人なんて淋しい。今までずっと美也と一緒に楽しくやってこれた。小・中・高と一緒の友達なんて貴重だと思う。これからも一緒がいいな。ふわふわとそんなことばかり考えていた。
♢
私の通学路でもある、土手の上の道。下には街の中心部を縦に流れる川が走っている。この道をずっと行くと、街を一望できる場所に繋がっているんだ。大好きな場所だけど、最近は行っていない。学校帰りに自転車を飛ばしていた私は、無意識にブレーキをかけていた。
「あれ? あの人・・・」
川に沿った土手の上には、道と土手を分ける目印のように、一定の間隔を置いて柵が設置されている。
その柵のそばに、誰かが立っていた。うちの高校の制服だ。短いけど、さらりとした黒髪が風になびいている。
「何してんの?」
思わず声を掛けた自分に、自分で驚いてしまった。
ほんのちょっと前まで青かった空、建物の向こう側が少しずつオレンジ色に変化している。もうすぐ太陽が沈もうとしている時間。視線を上げると、そのオレンジ色がいったん白に近い色になり、そこから薄青い色に繋がっている。そして空のてっぺんに向かって青が更に濃くなっていく。黒を纏っていくように。その色が混ざり合っていく中に、彼の姿が浮かび上がって見えた。まるで空の色と一緒に溶けていってしまいそうで、声が出てしまったんだ。引き留めるように。振り向いた彼は、やはり桂木くんだった。
「何してんの?」
もう一度、聞いていた。
「え?」
彼の声から、戸惑っている様子が分かる。そうだった。私、学校では一度も話したことがない。たぶん名前も覚えられていないんじゃないかな。これじゃ知らない人に声を掛けられた状況と一緒だ。
「わ、私、ひいら・・・」
「柊さん?」
桂木くんの口から私の名前が出た。驚いた。
「えっ、私の名前、知ってるの?」
「えっ? だって俺の前の席でしょ?」
今度は桂木くんが驚いていた。その直後、彼がふわりと笑う。
「変なの。同じクラスなのに、何その反応」
笑ったまま、体をこちらに向けた。
「だって学校じゃ話したことなかったから」
「ああ、そうだね。前と後ろの席なのに、なかなか話す機会がなかったかも」
「桂木くん、いつも誰かに囲まれてる」
私、何をべらべらしゃべっているんだろう。教室にいる時にはこんなふうにできないのに。こんな自分が意外だった。
「そうだね。集まってくる」
・・・そんな虫みたいな言い方。
「みんな桂木くんと話したいんでしょ。この頃は他のクラスの女子まで混ざってる気がするんだけど」
桂木くんはまた川に視線を戻していた。それからちらと私を見る。
「柊さんは?」
え? 私?
「どうして俺と話してくれないの?」
どうしてって、別に理由はないけど・・・。
「だから、いつも誰かに囲まれてるからって言ったでしょ」
「ふーん」
・・・・・・。何この沈黙。
「べ、別に話したくないわけじゃないけど」
言い訳しているみたい、私。なんで?
「帰り道、こっちなの?」
話題を思いつかなくて、とっさに聞いた。
「え? うん。そうかな」
そうかな? そうかなって何!? 自分ちどこよ!?
「そ、それにしては今まで会わなかったね」
「ああ、そうだね。俺、ここからの景色好きだな」
「は?」
私の質問と違うこと答えてない? 構わず桂木くんは続けた。
「さっき聞いたでしょ。『何してんの?』って。景色見てた」
うーんと、国語おかしくないか? おかしくないか。最初の質問に答えてくれたんだもんね。ずいぶん間が空いたけど! ・・・調子狂うなあ。
「柊さんは? 家近いの?」
「え、う、うん。自転車で二十分くらい」
「そうなんだ」
また、空を見ている。
「ここ、夕焼け空が綺麗だね」
「うん! 私もここを通るの好きなんだ! この先に開けた場所があって、そこからならもっと視界が広がるから、夕陽が良く見えるよ!」
また、べらべらしゃべっていた。
「へえ。今度その場所教えて」
「えっ、いいよ!」
びっくりしている私に、桂木くんがさっきのようにふわりと笑う。笑顔、すごくいいじゃん。
「じゃ、気を付けて」
・・・え? 会話終わった? 桂木くんはもう背中を向けている。何だ? このタイミング。
ま、いっか・・・。しゃべったの初めてだし。きっと考え事しているところに、私が邪魔したんだよね。
「じゃあね」
背中にそう言って、自転車のペダルに掛けた足に力を込めた。
♢
五月も終わりに近付いていた。空気が梅雨の気配を運んできている。桂木くんは、ずっと前からいたかのようにクラスに馴染んでいた。でも、彼の周りは相変わらず騒がしい。
なぜか。
それは彼の顔やルックスが良いだけではなく、なんと性格も良いらしいからだ。あの土手で話した時に、私はそうは思わなかったけど。まあ、でも回ってきたプリントを受け取る時にいつも必ず『ありがとう』と言ってくれるのはこちらも嬉しいが。当たり前だと言われればそうだけど、今まで言われたことってないよ。その当たり前のことを。逆に考えれば、言わないことが当たり前みたいな?
とにかくクラスの女子はもちろん、他のクラスの子までが、なんとか桂木くんのそばに行こうと努力をしているようだ。見ていてちょっと涙ぐましくもある。そんな女子の会話は、聞こうとしなくても耳に入ってくる。笑顔がすごくいいとか、すごく優しいとか、思いやりがあるとか、声がいいとか。声? 声がいいのも性格に入るの? 良く分かんないけど・・・。そんな良いこと尽くめなことばかり言われていても、男子からの“やっかみ”とかもないらしく、同性からもウケがいい。そんな人、ホントにいたんだ。
「何見てんの?」
美也の声にハッとした。
「え?」
美也と一緒にお弁当を食べていた私は、どうやら手を止めて人気の彼の方を見ていたらしい。
「桂木くんのことずっと見てたけど、愛生、気になるの?」
は?
「なんで?」
聞き返してしまった。
「私が愛生に聞いてんの! 質問を質問で返さないでよ」
あ、そうか。
「ごめん、ごめん。別に気になるとかそんなんじゃないけど、転入してきてからの人気、続いてんなーと思って」
慌ててお弁当に向き直り、卵焼きをつまんだ。
「そうだね。最初は見てくれだけかと思ったけど、中身もいいみたいだね」
「へえ、そうなの? 良く知ってるね!」
卵焼きをゴクンと飲み込んだ。
「委員会が一緒になったって言ったでしょ? 体育委員。六月には体育祭があるし。放課後の集まりとか、地味に忙しいのよ」
そっかー、委員会か。美也って勉強だけじゃなくて運動神経もいいからね。体育委員にぴったりだと思ったんだ。そういえば、委員を選ぶのに争いが起こっていたような・・・。そっか、男子は桂木くんだっけ。
「大変だよねー、委員会って」
地味に忙しいと言う美也に向かって、軽々しく言ってしまった。でも、美也は怒る素振りもなく、
「もー、気軽なもんだね! 早く終わってくれないかなー。受験にも備えなきゃならないってのにさー。でも、桂木くんていろいろやってくれるのよ。自分の仕事じゃないないことも。しかも、さりげなく。ああいうの、思いやりっていうのかな。すごく良いと思う」
へえ、そうなんだ。
いつも美也とはいろいろ話しているのに、下校途中に桂木くんと会ったことは口に出せなかった。話したくないわけではないし、秘密にしておきたいわけでもないけど、土手でのことは自分でもまだちゃんと飲み込めていなくて、上手く話せない気がした。
あの後、やはり桂木くんとは学校で話していない。あの時はあんなに普通に話せたのに、おかしいな。他の友達と話している時とは違った感じがした。だからなのか、あの時以来話せないでいた。私から話しかけることもないし、桂木くんからも話しかけてはこない。特に用はないから別にいいんだけど。他の女子みたいにできないし、やろうとも思わないし。
前後の席に座っていながら、接点のない毎日が過ぎていった。そして帰り道。私はいつもの土手で立ち止まる。ここをそのまま通り過ぎるのはもったいないと思っている自分がいる。私の好きな場所。
下校途中の土手の上で、川の向こうに見える空を眺めていた。
五月の風がさらりとほっぺたをなでてゆく。もしかしたら、一年の中でこの季節が一番好きかもしれない。心地良い風。暑くもなく、寒さを感じるわけでもない。居心地がいい季節。あと少ししたら、この季節もジメジメとした湿気を孕んで重たい空気に変わっていく。
緩やかに少しずつ雲が流れ、形を変えていくのをただ眺めていた。
小さい頃には、雲の上には神様がいるのだと思っていた。宗教的な、具体的なものではなくて、ただ漠然と“神様”というものが空の上にはいるのだと思っていた。なぜだか知らないけど、白い髪、白い髭を生やして白い服を着たおじいさんみたいな人が雲の上に座って、天上から私達の世界を見ている光景が脳裡にあった。幼心に、あれが神様だと思っていた。
不思議だな。今、思い出した。なんであんなこと思っていたんだろう。絵本は好きだったけど、本で見たわけでもなく、誰かに言われたわけでもないのに・・・。さすがに高校生になった今は空を見上げても、全くそんなことは思ったりしない。
「なにしてんの?」
ハッとして振り向いた。声がいい。そして顔もいい桂木くんだった。
「なにって別に・・・」
「俺の真似?」
は? なに言ってんの? と言いたかったが口には出さなかった。驚いた顔のまま固まっていると、桂木くんは笑っていた。
「だってこの前のシチュエーションと一緒だから」
前にここで会った時のこと、覚えていたんだ。驚いた。相変わらず学校では話す事なんかないし、転入初日以来、目が合うこともない。私はすっかり“その他大勢”の中に埋もれているのかと思っていた。ふーん・・・。違ったんだ。
「ここでしかしゃべらないね」
ホントそう。しかもまだ二回目。
「だって桂木くん、いつも誰かに囲まれてる」
「ははっ。この前も同じこと言ってた」
また笑ってる。「だってほんとだもん」今度は口に出た。
「ずっとそうなの?」
「ずっとって?」
桂木くんが私を見た。うわっ、やっぱいい顔。迂闊にも一瞬見とれてしまった。
「あ、あの、前にいた学校でも、今みたいにみんなに囲まれてたのかなって」
あんたは人気者なんでしょ、と聞いている。顔も良いし、背も高いし、声も良いし、頭も良いらしい。そこに性格も良い(らしい)ときたら、モテないワケはないよね。別に、だからどうというわけではないが。
「どうかな」
川の向こうに広がる空を見ながら、彼は言った。小さな声だった。もしかして自覚なし?
「桂木くんて、越してくる前はどこに住んでたの?」
しまった! 聞いちゃった! 自分から言わないんだから、聞くことないのに・・・。
「遠く」
ぽつり、と一言が返ったきた。内心、一人で慌てていた私はそのたった三文字の言葉で我に返る。
「そう、遠くね・・・。遠くからはるばるって先生が言っていたみたいだしね」
三文字に我に返り、三文字にちょっとイラッとした。
「はるばるって・・・。宇宙人かよ、俺」
ちょっと呆れたような表情で笑っている。あんたが言ったんでしょ、遠くって。笑うのをやめた桂木くんはまた、空を見ている。私がイラッとしたのには気付いていないらしい。
この人は自分のこと、話したくないんだな。そう思った。いつも周りに集まっている女子たちのおしゃべりからも、彼が以前どこに住んでいたかという話は聞こえてこない。きっとあんなに話しかけられても、今みたいにかわしているのだろう。何か隠したいことでもあるのかな。そんなことが頭によぎったけれど、もうやめておこう。本人が話したがらないことをこちらから聞く趣味は、私にはない。空を見上げると、もう夕焼けが始まっていた。
「邪魔だな」
え? もしかして私のこと? ここに来たのはそっちが後だよね? 訝しげに、隣に立つ彼の顔をそろりと見た。
「あのマンションの陰になって、太陽が落ちていくところがうまく見えない」
邪魔とは、私のことではなかった。でも、そんな言い方・・・。
「邪魔っていうけど・・・、確かに景色のことだけ考えたら、邪魔って言うのかもね。でも、あの中にはたくさんの人の生活があるでしょ。一つ一つの家族がいて、いろんな模様の暮らしがあるんだよ」
桂木くんは黙っている。私は更に続けた。
「あなたもあの中の一人じゃないの?」
ちょっとカッコイイことを言ったのではないかと思って、心の中でニヤリとしてしまった。
もちろん、あのマンションの住人ということではないけれども、いろんな人が生活しているという意味で。
「空想屋」
「へ?」
変な声がでてしまった。
「いや、ずいぶんおめでたい発想だなと思って」
おめでたい? もしかして私、馬鹿にされてるのだろうか。唖然としていると、桂木くんが続けた。
「確かにたくさんの家が集まってるんだから、いろんな暮らしがあるだろうよ。だけど、それが全部しあわせなものだって、柊さんは言いきれんの?」
心なしか、少し話し方が乱暴になった気がする。
「そんな・・・。それは分からないけど、だって邪魔なんて言うから・・・。あそこにはたくさん人が住んでるのになーって思って、私も桂木くんもあのマンションにはいないけど、でも、住んでるって意味では同じような事だし、あの・・・」
しどろもどろになってしまった。なんで私がこんなふうにならなきゃいけないの・・・。言い訳するみたいに・・・。自分でも分からなくなっていた。
「分かった、分かった」
え? 桂木くんには分かったの? なんでこんなに私、しどろもどろしているの?
「もういいよ。俺が悪かった」
私がどうしてしどろもどろしているのかの返事ではなかった。そうだよね・・・。
「また明日、学校で」
私の返事も待たずに桂木くんは行ってしまった。さっきの「分かった」は、会話を終わりにするための言葉だったのか。
「学校で」なんて言っても、学校じゃこんなふうに話さないじゃない。ただの定型文を残していっただけ。これから空の色は色彩を増していく。もう少しここにいれば見ることができるのに・・・。私が気を悪くさせちゃったのかな・・・。
空想屋。
その一言がなんだか心に重い。
自分でも言っていたのに、桂木くんの声で発せられたその言葉は、尖った何かになって心に刺さっていた。そういえば、途中から雰囲気がいつもと違ったような・・・。口調と声が少しだけ変わった。何だったんだろう・・・。よく分かんないや。もう帰ろう。帰り道に目を向けた。この道を歩いて行ったはずの桂木くんの姿はすでにない。ここからしばらくは見通しのいい道なのに、そんなに時間が経った? もしかして本当に宇宙人!? ・・・バカだ、私。
何でもできる人って本当にいるんだな。
体育祭の当日、男子の競技を見て思った。正確に言うと、歓声を聞いて思った。体育館の中に入る隙間はもうない。だから私は外にいる。歓声を聞いていると、明らかに桂木くんが活躍していることが分かる。その証拠に、人(特に女子)の壁ができていて、「すごーい!桂木くーん!」という声ばかりが聞こえるからだ。どうやら彼の活躍で、バスケットボールの試合の点数が積み重ねられている、らしい。シュートが入る確率が他の男子とは格段に違う、らしい。全く見えないが、どうやらうちのクラスが勝っている、らしい。
見えない試合を楽しむこともできないので、もうここから立ち去ることにした。だって、つまんないんだもん。
「あれえ? 愛生、どこ行くの? 応援は?」
さもここにいるのが当たり前だというように、友達が声を掛けてくれたが、全く試合が見られない状態の会場にいるのは本当につまらない。
「終わったら、結果教えて」
一言、友達に言い置いて、体育館を後にした。私は次、何の競技に出るんだったかな・・・。
球技だけではなく、最後のクラス対抗リレーも見応えのあるものだった。5クラスある中で、我がC組はもうすぐ3番手から4番手になりそうなところまで遅れをとっていた。これで抜かされてしまったら、ビリだ。そして次の走者でアンカーとなる。待機しているのは桂木くんだった。え? アンカーは桂木くん? そうだっけ? ・・・自分の関心のなさに呆れてしまう。
バトンが渡される瞬間、私は無意識に、息を止めていた。バトンが落ちたと思ったからだ。桂木くんが、かなり早いタイミングで走り出したので、渡す方と受け取る方の呼吸がずれてしまったかのように見えた。
でも、違った。バトンは確かに彼の手の中にあり、ぐんぐんとスピードを上げていく。速い。
桂木くんにバトンを渡した走者は最後尾になりそうだったのに、すごい。あっという間に一人二人と追い抜いていく。周りの歓声もそれに比例するように大きくなっていた。
心臓がバクバクしている。すごい! 歓声がひときわ大きくなった。ウソ! あと一人!? 一番前の走者まであともう少し! トラックのカーブを曲がってあと十メートルほどの距離にまで迫っていた。一位の子だって頑張っている。でも、振り向いてしまった! 大きくなる歓声になにか不安を感じたのか。後ろを振り向いてしまったその瞬間、桂木くんが抜いた! ゴールテープに飛び込み、勢いのまま走り抜ける。C組の男子が追いかけていく。囲まれた輪の中で、彼が右腕を空に向けて思い切り挙げ、ガッツポーズをしている。興奮する男子たちの間から見えたその顔は、満面の笑顔だった。嬉しそう。女子も駆け寄っていき、クラスが集まっている。私はその様子をぼうっとしながら眺めていた。心臓のバクバクが止まらない。息が苦しい。一歩も動けないまま、離れているところで眺めていることしかできなかった。
アンカーの素晴らしい活躍があり、リレーでの一位という功績によって私達のクラスが優勝した。高校生活最後の体育祭での優勝は、とてもドラマティックなものになった。そして、このリレーでの活躍が桂木くんの人気を更に高めることになったのは、言うまでもない。
桂木くんはすごいな。なんでも持っているような気がする。こういう人って世の中にはいるんだな。自分の身近に現れるなんて思ってもいなかったけど、実際目にすると、ものすごい壁が立ちはだかったような気がしてくる。
私は今のところ、自分が何をしたいのかも分からない。取り柄のない私には、まるで桂木くんが別世界の人間のように見えた。
体育祭が終わって数日が経った放課後、私はいつもの土手に立って溜め息を吐いていた。アンカーで走った桂木くんの姿が、頭の中で動画のように繰り返し再生されている。
教室では相変わらず、お互いに話すことはなかった。なんでだろう、後ろにいるのに。どうしても声をかけられない。休み時間に人が集まってくる現象は、以前にも増してひどくなっていた。ごぼう抜きの一位が、彼の人気に拍車をかけていた。ゆえに私は今までと変わらず、自分の席を追い出されていた。いいんだけどね、別に。
「美也~」
追い出されていくところは、だいたい美也のところ。でも、美也にもそうそう相手にしてもらえなくなっていた。
「え? 国立?」
「そう。私、国立の大学に行きたいの」
美也が目指している大学は国立だった。
「じゃ、私ムリじゃん」
ふてくされた顔をしながらその一言が口を突いて出てしまった。
「は? まさか、同じところにしようと思ってたのになんて言うんじゃないでしょうね?」
しまった! また怒られるやつだよね、これ。
「愛生はやりたいことがあって私と同じ大学に行きたいと思ってるの? 違うよね? 単に私と一緒がいいやって、そのくらいなんじゃないの? 甘いよ!」
・・・やっぱり怒られた。でも、言っていることは間違っていない。
「小・中・高と一緒だったからなんて理由だったら、ぶっ飛ばすよ!」
見抜かれていた。ごめんなさい。一緒だったらいいなとは思ったけど、国立大なんて私にはムリです。動機が不純でした。頭の良い美也が、休み時間にも参考書を広げるようになってるんだもの。一緒に・・・なんて、チラッとでも思った私がバカでした。
いよいよ居場所がなくなったようで、心が落ち着かない。
出るのは溜め息ばかり。柵に体を預けて空を仰いでいた。
「あ、またいる」
この声はまた。黙って振り返ると、やっぱり。
「とっくに帰ったんじゃなかったの」
桂木くんが私の横に立つ。何よ、別に話すこともないのに。少しの沈黙が流れる。
「・・・体育祭のリレー、すごかったね」
その少しの沈黙にさえも耐えきれずに、私から話しかけてしまった。
「あ、バレた? 俺、足速いでしょ?」
うわ、自慢してる。ヤなやつだ。
「ヤなやつだと思った? ははは」
何それ、なんで笑ってんの? しかも、私の心の中を読むみたいに・・・。もう。腹が立つ。
「なんで黙ってるの? 俺、別に自分の自慢するつもりないよ」
じゃ、自分で言うな。
「柊さんとはホント、学校で話さないよね。なんでだろう」
それは私が聞きたい。
「話さないんじゃないよ、別に。桂木くんの周りにはいつも人がいるし」
そう言い放って、私はプイと顔を背けた。こんなふうにしたいわけじゃないのに、なんだかいつもとは違う気分。前みたいに話す気になれない。分かっている。私は一人でスネているだけなんだ。でも、それに勘づかれたくない。
「なんか・・・スネてる?」
バレバレだった。はぁ、なんで分かっちゃうんだろう。墓穴を掘っている自分が恥ずかしくて、もう一言も喋れない。横を向いたまま黙っていると、
「ねえ、スネてるの?」
更に追い打ちをかけるように言ってくる。スネてない! しつこい! 今日は一人になりたかったの! もう台無し!
「スネてるんだ」
「スネてないってば!」
ああ、言っちゃった。
「スネてるじゃん。なにかあったの?」
いろいろあったよ。桂木くんがアンカーで走る姿を見せられて、美也が国立大学を受けることを知って・・・。そして私には何もない。それを実感した数日だった。このままだと、桂木くんに八つ当たりしてしまう。
「進路のこと・・・」
その一言が出てしまった。
「桂木くんはきっとなんでもできるんでしょ。勉強もスポーツも。そんな人から見たら、私なんて本当にどうしようもなく見えるよね」
ああ、八つ当たりだ。言ってから後悔する。
「なんでそんなこと決めつけんの? 俺、足速いけど、それだけかもしれないじゃん」
「うそっ! バスケもすごかったでしょ!」
「あ、見ててくれたんだ」
笑顔で顔を覗いてきた桂木くんの顔が近くて、びっくりした。
「ち、違う、そう聞いただけ・・・。だって人だかりで体育館に入れなかったんだもん・・・」
言い訳をした声が小さくなっていく。また、言葉のない時間が流れた。そうだよね、呆れて声も出ないよね。人のこと羨ましがって勝手にスネているだけのこんな人間に・・・。
「自分のこと、自分でどうしようもないなんて言うなよ」
「えっ?」
「そう言うことは、言わない方がいい」
川に視線を投げながら、桂木くんがゆっくりと、そう言った。さっきとは表情が違う。揺らいでいる川面に、太陽の光が反射してキラキラと輝いている。その光が、桂木くんの瞳にも映っているのが良く見えた。
「俺は自分のこと、なんでもできるすごいやつだなんて思ってないよ。・・・・・・むしろ、どうしようもないやつだったんだ」
「え?」
声も、それまでと少し変わった。
「自分のこと、自分で諦めてた」
アキラメテタ? 突然、彼の真ん中あたりに近づいてしまったような気がした。戸惑うことしかできず、ただその横顔を見ていると、また、彼が言った。
「けど、今は自分のことを、自分でどうしようもないなんて言いたくない」
なにを言いたいんだろう。私はまだ、どうしていいか分からずに次の言葉を待っていた。
さっきよりも長い沈黙が続いた。桂木くんの表情を窺うけれど、話し始める様子はない。その先に、私からは踏み込む理由がなかった。
その時、大きな声で騒ぎながらこちらに向かってやって来る集団がいた。うちの学校の生徒だ。サッカー部かな。
「タイムリミット! ・・・また明日ね」
え? ちょっと! タイムリミット? 桂木くんはさっさと行ってしまった。
「なんなの? あの人・・・」
私はただ呆然と立ち尽くすしかなかった。でも・・・。
『どうしようもないやつ』
桂木くんが言ったことが気になる。どうしようもなかった桂木くんとは、いったいどんなふうだったんだろう。転入してくる前ってことだよね。あんなに人気があってみんなに囲まれて笑っている人が、どうして「自分を諦めた」ことがあるんだろう。それは、どういうことなんだろう。
意味深?な告白?が聞けそうだったのかな。聞けなかったのは残念な気もするが、聞かなくて良かった気もする。だって、今まであんなに自分のことを話さなかった人が、どんなキッカケで気持ちが変わったっていうの? ・・・でも、気になる。知りたくなってしまった。
ああ、進路のことで悩んでたのに! そういえば、三者面談がもうすぐだ! 桂木くん、お母さんが来るのかな? ・・・違うって! 自分のこと考えなきゃ!
♢
昼休みにいつものように美也と一緒にお弁当を食べていると、近くに座っている女子グループの話が聞こえてきた。
「ねえねえ、聞いた? B組のあの子、桂木くんに告ったんだって!」
「え? マジで?」
「間違いないよ! B組にいる私の友達が見ちゃったんだってさ、告ってるとこ」
「何人目よ!」
「それで、どうだったの?」
「ソッコー振られてたらしいよ。見てくれ考えろっつの。アハハ! マジないよね!」
「ないない! アハハハ!」
わざとなのか、大きな声で喋ってるから、丸聞こえ。そこまで笑うことないんじゃないの? ふと見ると、美也がしらーっとした目になっている。
「“見てくれ”って、人を好きになることと関係あるの? それよりもあの人たちの言い方を考えた方がいいと思うけど」
「そうだね・・・」
美也に同意した。
「あの人たち、人のことより自分のことはどうなのかな。まあ、私には関係ないけど。これからAOとか、指定校推薦とかあるのに。緊張感とかないのかな。もう目の前だよ。そろそろナーバスな雰囲気になってきてるの、感じない?」
AO? シテイコウスイセン? なんじゃそりゃ。また、美也から得体の知れない単語が出てきた。もう怖くて聞けないよ・・・。もう一生の恥になってもいい・・・。
「ね、愛生?」
「う、うん、そうだね・・・」
力なく答えることしかできなかった。
それにしても、すごいな、B組のナントカさん? この告白ってだけでもすごいのに、この時期に来て・・・。ていうか「何人目よ!」って言われてなかった? そんなに告白されてるんだ、桂木くんて。それもすごいな。
・・・あの人は、人を好きになるのかな? なんかイメージが湧かない。いやぁ、人だからそりゃ人を好きになるんだろうけども。
「愛生は? 考えたの? 行きたいとこ」
「え! う、うん。考えてるよ! 美也があの時言ってくれたおかげ!」
自信満々のフリをして笑顔で言った。また見透かされてしまうだろうか。これ以上のことを聞かれると、答えられない。だって、まだ考えられていないし・・・。また怒られるのは嫌だ。
「そうなんだ。私に話せるようになったら教えてね」
バレてない。あ、ウソをついてしまった。ごめんね、美也。本気で心配してくれているのに。とりあえず、進路指導室に行ってみようかな。そこでなにかヒントになるものはないだろうか。
放課後、進路指導室に足を踏み入れた。誰もいない。噂では、担当の先生がいるはずなんだけど・・・。
少し待ってみたけど、誰も来る気配がない。部屋の中を見回してみた。ぐるっと壁に沿って並べられた本棚には、いろいろな学校の案内書や参考書のようなものがギュウギュウに詰まっている。机を見ると、誰かが出してそのままにして行ってしまったのだろうか、資料が乱雑に置かれたままだった。これじゃあなにをどう見たらいいか、ますます分からなくなってしまった。
どうにも自分の頭で処理できずに、一冊の本にも触れることなく、そのまま進路指導室を出た。まるでそこにある本が全部、自分に襲いかかってくるような恐ろしい錯覚まで見えた気がした。ヒントをもらえるどころか、前よりもどうしていいか分からなくなった。
美也が言うとおり、どのガクブで何をしたいのかということがはっきりしていないと、きっとこの部屋に来ても、掴めるものはなにもないんだ。途方に暮れる私に、誰か救いの手を。
そして、軽く流すつもりだったのに、結果的に美也に嘘をつくことになってしまったのも、時間が経つにつれて、心に重く感じるようになっていた。ああ、どうしてあんなふうに言っちゃったんだろう。後悔しても、もう遅い。大事な友達だからこじれてしまうのは嫌だ。私のことを本当に心配してくれているのに、その場しのぎのことをいってしまうなんて・・・。自己嫌悪が止まらない。
自転車を引きながら、とぼとぼと歩いて立ち止まったところは、いつものあの場所だった。
そういえば、この前は桂木くんの秘密を聞けそうだったんだっけ。ホントはちゃんと考えなきゃいけないことがあるのに、ボーッとそんなことが頭の中に浮かんできてしまう。脳みそが、自分の考えるべき本題から逃げてしまう。いけない、私の脳みそ。
「やっぱりここの空、綺麗だな」
空の色の不思議な変化にいつも癒やされる。学校の帰りは夕焼けだけど、たまにはここからの朝焼けもも見てみたい。今度、朝早く来てみようかな。夕焼けは夜の闇を運んでくるけど、朝焼けは明るい太陽を運んで来てくれる。私の気持ちを前向きにしてくれるかな。
♢
それからは梅雨という季節の名の通りに、しばらく雨が続いた。紫陽花が、今こそが我が時とばかりに色とりどりに咲き誇っている。それはいいんだけど、自転車通学ができないほどの土砂降りの日もあった。そんな時は、親に車で送迎してもらったり、それができない時には遠回りになるけどバスを使ったりした。通学路の土手は、しばらく通っていない。桂木くんとは学校で毎日会うけど、どうしてか話すきっかけがないので、あれから言葉を交わしてはいない。
桂木くんの、『どうしようもないやつだった』という言葉が頭を離れない。
三者面談は、自分の進路について親を交えて話す時間だった。
以前、私は美也の手前、大見得を切ってしまったけれど、根本的にはなにも進んではいなかった。担任は、家族と話し合ってなるべく早く決めるように、と定型文的な話し合いであわった。まあ、先生に期待はしていなかったけど。教職に就いているだけで、先生はなんでもできるわけではない。ましてや、進みたい道の端っこさえ見えていない私に対しては、アドバイスのしようもないのだろう。
要は自分で考えろ、ということだ。自分に自分で責任を持てと。当たり前だよね。
そんなことは分かっている。美也に怒られたこともそりゃ大きいけれど、自分の気持ちが少しずつ変わってきているのも確かだ。いつまでもフワフワとしてはいられない。
私のやりたいこと。好きなことは私の中のいったいどこにあるのか、真面目に見つめ直している・・・と思う。この数日、土手からの空を見に行けないせいもあるけれど、考える時間だけは保証されているような日々だった。でも考えているとはいえ、やっぱり同じ場所をぐるぐる回ってしまって、結論というようなものには行き着いていないのが正直なところ。時間だけがどんどん過ぎていく。
雨続きの気候も終わりに近付いてきた。湿気だけは残っていて、それはありがたくはない置き土産である。
これから気温も湿気も高い、日本の夏が始まる。そういえば今朝、蝉の声がしていた。これで夏がもうすぐそこにいることが分かる。
そして一ヶ月も経たないうちに夏休みがやってくる。あっ! 大変! その前に定期試験がある!
美也は今まで通りに私とおしゃべりしてくれる。以前“そろそろナーバスな雰囲気になっている”と言っていたので、親しい友達とはいえ、美也との関わり方に気を付けなければならないなかなと思っていたけれど、全く変わらない笑顔で接してくれている。
美也が言っていた、“ナーバスな雰囲気”ってなんだろう。それさえ分からない私は高校三年生の資格がないのだろうか。
私とのおしゃべりは楽しそうにしてくれるけれど、実際、今の美也は部活を引退した後の時間を受験対策に充てている。塾にも通って、遅くまで勉強しているようだ。えらいな。すごいな。私も真似しなきゃ。
ガクブの意味を調べ、ガッカというものがあることも知った。大学ってたくさんある。そしてガクブとガッカも。
余計分からなくなった。『大学に行ってみて、“あ、これだ!”ってものに出会えるかもしれないじゃん!』・・・と美也に向かって言い放ったあの時の私を、できるなら回収して往復ビンタを食らわせてやりたい。
そんな私とは違って、一生懸命自分の道を切り開こうとしている親友を、心から尊敬する。美也と同じでいたら安心という思いにあぐらをかいていた自分。もう恥ずかしくて地の底まで潜りたい。
♢
夏の通学路。高校に入って三回目の夏だけど、自転車通学は正直、キツい。例え二十分程度といっても、強い日差しの中で体を使って自転車を前に進めるのだ。坂道のある。下り坂はいいが、下りがあるということは上りもあるということだ。もう汗だらだら。家を出る前に念入りに塗った日焼け止めは、役に立っているんだかいないんだか・・・。
学校に着いたら、駐輪場に自転車を停めて教室へ急ぐ。エアコン、エアコン。近年は県立高校にもエアコンが設置されるようになった。そりゃあ毎年のこの猛暑続きじゃね。でも、八時半にならないとつけちゃいけないルールがあるのが、公立であるがゆえの設備投資能力の悲しさ。さあ、早く教室へ入ってエアコンのスイッチを入れるんだ! そう思って少しだけ開いていた引き戸に手を掛けようとした時、中から人の声がした。誰かがもう涼しくしてくれているのかな
「ね~、本村さんてね~」
え? 本村とは美也の名字だけど、なんの話? この声は、桂木くんに告白した子を馬鹿にしていた、あのグループの子たちのものだった。
「勉強できるし~って顔してさあ。・・・だよね」
「ね~。ちょっと・・・・・・でいい気になりすぎ」
「・・・・・・でさ、どうせ・・・・・・なんてって思ってるんでしょ」
細く開いた隙間から中が見えるが、私は自分の手を動かすことができなかった。教室の中にはどうやら彼女達しかいないらしい。他に誰も来ていないの? 私、そんなに早く着いちゃったのかな? 汗が、額から頬を伝って流れ、床に落ちる。さっきまで暑かったはずなのに。彼女たちの言葉を聞いた途端、、背中にひんやりとするものを感じた。ちょっと待って。まさか、まさか美也の悪口を聞くことになるなんて。
「おはよう」
ポンと肩を叩かれた。びっくりして振り向くと、美也だった。廊下にはもう他の同級生がドヤドヤと教室に向かっている。私が開けられなかった引き戸を、美也が開けた。
「あっ!」
思わず声が出てしまったが、中を見ると、陰口を言っていた彼女たちはもうみんなの中に紛れて、何事もなかったような顔をしている。。
あの子達、美也に対してそんなことを思っていたんだ。でも、なんで? 今まで美也にいろんなことをやってもらっていたじゃない。美也だって嫌な顔なんかしたことないはず・・・。
なんだろう、嫌な感じ。確かに悪口を言っていたはずなのに、もうニコニコして他の友達としゃべってる。私の聞き間違い? いや、聞き間違いなんかじゃない。美也のことを悪く言っていた。なんで?
授業が始まっても、美也の背中ばかり見て、朝のことを考えていた。三時間目が終わった後、美也があのグループの中の一人に何か話しかけていた。日直が一緒らしい。ねえ、美也、その子、さっき美也の悪口言ってたよ。今すぐに教えてあげたい。だけど、このタイミングでいいのかな? もうちょっと様子を見てからの方がいいかな?
「えー? 職員室まで行くの?」
「そう、運ぶものがあるから手伝って」
美也はそう話していた。すると、違う方向から声が聞こえてきてこう言った。
「本村さん、一人でできるんじゃない? 小学生じゃないんだから」
明らかに邪魔をしている。その子も陰口を言っていた一人だ。どちらかというと中心人物? 顔を見ると、口の端が意地悪そうに上がっている。そして日直の子に向かって手を振っている。まるで『無視、無視』とでも言うように。美也には見えない位置だ。うわっ、これって・・・。
「美也、私が行くよ!」
前にいたクラスメイトを押しのけて、美也の手を引いて廊下に出た。
「え? だって日直の仕事だよ?」
「いいの、いいの! 私が一緒にやりたいの!」
廊下に出ると、モワッとした空気がまとわりついて来て、また暑さが再来したが、そんなことは気にせずに少し戸惑っている美也を連れてグイグイ歩いた。美也は黙っている。
何人? 何人いるんだっけ、美也の悪口言っていた人。あの人と、あの人と、もう一人いた。三人か・・・。なんで美也があんなことを言われなきゃならないの? 美也、頑張ってるんだよ? 普通に頑張ってるんだよ? 日直だって必要だから二人いるんでしょ? どうして「一人でできるでしょ?」なんて言うの? おかしいよ!
そんなことを考えながら、私も黙って歩いていた。職員室で荷物を受け取ってまた戻るまで、お互い言葉はなかった。教卓に持ってきたものを置くと、「ありがとう」と美也が言った。なんだか元気がないように聞こえたけど、もう授業が始まる時間だ。美也の目を見て、「また後で」と小声で言って席に着いた。席に着く直前、一瞬だけど桂木くんがこちらを見ている気がした。
授業中に美也の方を見ると、背中がいつもの通りシャンとしている。大丈夫かな。でも、私の方は先生の話が頭に入らない。朝の出来事を繰り返し考えてしまっていた。
美也はさっきのこと、なんとも思わなかったのかな。あれって明らかに美也への嫌がらせじゃない? なんで美也に? 同じクラスだけど、あまり話さない三人だ。どんな人たちだろう? こちらが知らないってことは、向こうもこちらを知らないってことだ。あんまり関わりがないのに、なんで悪口を言われるんだろう。
♢
それから少し経ってから分かった。美也は彼女たちのターゲットになっている。彼女たちは、美也を妬んでいる。 進路を決めて本格的に進まなければならないこの時期が来て、成績が良く、先生方からの印象も良い美也のことが羨ましくて、あんなことをしている。クラスのみんなには分からないようなやり方で、毎日ちょっとだけ嫌がらせをしている。それはもの凄く陰険なことに感じる。こんなこと、去年の今頃はなかった。
彼女たちは元ソフトボール部だった。運動部に入っていた他の友達に、それとなく聞いてみたところ、私が知らなかった三人のことが少しずつ分かってきた。
中心人物は、植田綾乃というソフト部の元部長だった。もう部活は引退している。部活に興味がなかった私は気にすることもなかったが、うちの学校のソフト部は、もともと強豪校と呼ばれる中にいるらしい。そして、去年の三年生が引退して植田たちの代に替わってから更に実績を重ねてきたそうで、植田率いるソフト部の評判は凄いものだった。練習試合を申し込んでくる他校も後を絶たず、試合経験も豊富だったそうだ。相当期待をかけられており、全国大会出場が目標ではなく、出場のその先を見据えていた。本人達もその周りも、勝ち進むことが当然のことであり、部員たちももちろんそのつもりで毎日の練習に励んでいた。ソフト部の部員は校内で見かけると、ずいぶん自信満々な様子で、廊下を歩いている姿も幅をきかせているように私には見えた。実際、女子版野球部のようなところもあり、みんなガタイが良いせいもあってか、雰囲気的にも大きく見えた。
県大会の予選一試合目を大量得点で勝ち、二試合目も軽く勝てるような相手だったそうだ。しかし、相手も練習してきている。気持ちの違いがあったのかどうか、初戦の時とは違い、あっという間に点差を付けられてしまった。勝つことに慣れていた植田たちは、あんなに練習していたのに小さなミスをカバーしきれず、回を重ねるごとに相手に点を与える結果になっていった。いつもレギュラーとしてチームに君臨していた植田は、部長としてどうにかしようとしたが、常勝のチームを引っ張る存在であり、要であると思われていたが、チームのみんなの心までは掴んでいなかったようだ。あまり名を知られていない高校相手とのし合いの最中、それが表に出た。凡ミスをしたチームメイトを励ますのではなく、大きな声で罵倒した。ひどい言葉だったらしい。最後の全国大会がかかっていることもあり、植田は焦りが先走り大事なことを忘れてしまったのだろう。自分以外をないがしろにしてしまった。いや、それまでもないがしろにしていた結果が出たのかもしれない。植田の本当の姿が露呈した。
ひどい言葉を投げつけられたチームメイトは、それでもミスを挽回しようとしたが、こちらも焦って更なるミスを重ねてしまい、それが他のメンバーにも波紋のように広がっていった。結局、点を取り返すことはできずに、負けた。今まで常勝していたチームは、負けそうになった時に本当はどうしたらいいのかをしっかり考えてこなかったことが、その結果に繋がってしまったのだろう。植田個人としても同じだった。全力を出し切り、もっと上の段階で、充実した思いをしてから引退するはずだった三年生を含めたソフト部は、それ以降バラバラになった。
実力と人の上に立つ力があると自負していた植田の、独りよがりの強すぎるリーダーシップは、誤っていた。そのリーダーシップが、集団を率いることとして方向性に欠けるものだったとしたら、なおさら。
きっと植田も部長になり立ての頃は、一人一人に気を配っていたのだろうけれど、チームとしての強さと自分の力を取り違えてしまい、こんな結果になったのではないか。個人競技ではないソフトボールのチームを自分一人が引っ張っているという間違った自信が、あの結果になったのではないか。そんなふうに感じた。
試合で負けた三年生は、その時点で引退だ。その後の植田はといえば、消化できていない自分の不満を周りに散らすようになった。人の弱みを見つけては、そこにネチネチと入り込んでいる。自分が気に入らない人間を見つけるとなにかしら因縁をつけている。
美也に対しては後者だった。まるで子分のように他の二人を引き連れて、美也の悪口を言うようになり少しずつエスカレートしている。同調している二人は何とも思わないのだろうか。植田が怖いのか、その同調ぶりは逆に感心するほどだった。三人は悪口を言うことで繋がっているようだ。そんなことで繋がる仲間ってどうなの? 自分達じゃない誰かの悪口や陰口を言うことでなにがどうなるんだろう。私には分からない。分かりたくもない。
休み時間もあの三人が美也のことをチラチラと見ながら、クスクスと笑っている。いったい何が面白いんだろう。正直、気持ちが悪い。
美也は学級委員ではないが、いろいろと先生に頼まれることが多い。それも植田の気持ちを逆立てているのだろう。植田も今までずいぶんとチヤホヤされてきたようだから、あの惨敗試合で自分への期待が一気になくなって、他の生徒の一挙手一投足が気になるらしい。・・・・・・はっきり言って、迷惑以外のなんでもない。チームが負けたのはどうしてなのかをしっかり考えもしないで、周りに毒を吐いているのは見苦しいよ。
その植田が取り巻きに言ったのが聞こえた。
「もうあんなイイ子ちゃんとは話さない方がいいよ~」
とっさに美也の顔を見た。あれは絶対美也にも聞こえているはず。・・・聞こえていない? いや、聞こえていないフリをしている。だって、参考書を開いた両手にギュッと力が入っているにが見えた。
プッツーン。私の中で何かが切れる音がした。
「ちょっと、あんたたち!」
ガタン! と椅子の音を立てて、私は三人のいる方へ向かった。
「美也があんたたちになにか悪いことしたの?」
集まって座っていた三人が、いきなり声を上げた私にギョッとしていた。
「・・・・・・!」
次の言葉を発しようとした時、突然右腕を強く引っ張られる感覚があり、そのまま引きずられるように教室の外に出た。誰? 首を回してみると、美也だった。
「やめて。愛生」
静かな声だった。
「だってひどいよ、その子たち! 美也はなにもしてないのに!」
「あんなの放っておけばいい」
言い方は静かだけど、その言葉の芯には、強いものが感じられた。
「美也は悔しくないの?」
「悔しいよ。でも、今はこんなことにかまっている場合じゃないから」
なんで? それでいいの? ムッとしたが、でも、思い直して言った。
「・・・強いんだね、美也は」
「違うと思う」
私の腕を離して、美也は首を振った。
「たぶん私は面倒なことになるのを避けたいだけ。あの子たちのストレス発散に付き合っている暇はないの。今は勉強に集中したい。ただ、それだけ」
「ストレス発散? 美也に嫌がらせをすることが?」
「そうよ。そういう時期なの。ナーバスな雰囲気になっていてるってこと。それがこんな形で表に出るともあるの。あの人たち、部活で思ってたとおりにいかなかったんでしょ。自分たちの予定より早く引退することになっちゃったから、気持ちが追いついていないんじゃないの? 部長でピッチャー、ずっと注目されていて、それが当たり前で、とても気持ちが良かったんでしょうね。私が見る限り、あの人は自分が一番じゃないと気が済まないみたいだから。そうできないストレスを周りにぶつけてるのよ」
知らなかった。ナーバスな雰囲気になってきてるっていうのは、そういうことも含まれるの? 受験生であることや、自分の責任で部活の引退を早めた連中が、ストレスを発散するためにクラスメイトに嫌がらせをする? その人間性が理解できない。
「理由が分かっているなら、なおさら美也には関係ないじゃない!」
どうしても納得がいかない私は、美也に詰め寄ってしまった。しかし、美也の表情は私と違って落ち着いている。
「ありがとう、愛生。この前からずっと気にしていてくれたでしょう? 嬉しかったよ」
美也が笑ってそう言った。
「ちゃんと話せなくてごめんね。もう気にしないことにしたよ。愛生が守ってくれたから、もう大丈夫。あんなヤツらなんて相手にしないのが一番いいの!」
「守るなんて、そんな・・・」
そんな大げさなことじゃない。ただ、私は、大事な友達が嫌な思いをしていると思って、勝手に出しゃばっただけ・・・。もしかしたら余計なことだったんじゃないかとも思う。美也はいつもの笑顔で笑っている。
やっぱり美也ってすごい。筋違いのことを言われたり、されたりしているのに相手にしないっていう方法をとれるなんて。私ならきっとダメだ。わめいて叫んで、きっと気持ちがぐちゃぐちゃだ。こういう場面で泣くことで周りを味方にしようとする人もいるけど、美也はそんな真似、絶対しない。そうやって相手を悪者にしたり、自分を貶めたりしない。やっぱりすごいよ。
「ありがとう」
もう一度、言った美也の言葉に、温かさがこもっていた。
「うん」
これで終わりにしよう。もうこれ以上は言わない。美也が決めたようにしよう。
二人で教室に戻った。大声を出してしまったので、恥ずかしさが少しあったけど、それよりも自分の気持ちが澄んでいるように感じた。教室の中にはすでに緊張した空気はなかった。ただ、あの三人だけが、私達が戻ってきたのを確認した後、慌てて顔を背けている。たぶん、もう嫌がらせはなくなるだろう。そんな気がした。
♢
放課後、この時間になっても夏の空は突き抜けるような青色で、夕焼けにはまだまだだ。下校途中、青空を見上げながら風に吹かれていた。肌にまとわりつく空気はジメっとしているが、家に向かう前に今日は少しここで過ごしたいと思った。雲が太陽にかかり、日差しを遮って日陰ができる。
「柊さん」
後ろから声をかけられた。桂木くんだ。
「やるじゃん」
なんの前置きもなく、そう言われた。
「なにが?」
ぶっきらぼうに返してしまった。だって、いきなりなんのことよ? 横に並んだ彼が、柵に肘をついてこちらを見る。
「柊さんて、すごいね」
「だからなにが?」
主語を言ってよ、主語を!
「友達のためにはあんなふうにできるんだと思って」
「え?」
なにを話そうとしているんだか、しばらく頭の中でぐるぐると考える。私がそうしているうちに、桂木くんが話し出した。
「本村さんのこと」
あっ、教室でのことか!
「見てたの?」
「うん」
見てたんだ。
「柊さんてさ、あんまり目立つ方じゃないでしょ? ていうか、できれば面倒なことは避けたい、みたいな。けど、本村さんのことだとあんなふうに勇ましくなれるんだなあと思って。だから、すごいね」
「なんか、ずけずけと言われてるような気がするんだけど・・・」
「あ、褒めてるんだよ。いつだったか、自分のことをどうしようもないとか言ってたじゃん」
あの時だ。桂木くんが、自分のことをあきらめてたって言った日・・・。
「・・・そりゃあ、大事な友達のことだもん。怒って当然じゃない」
「だから、そこ。大事な友達のためには勇気を出せるんだろ? すごいことだよ」
どういうつもりで言ってるんだかよく分からないけど、何度もすごいと言われると悪い気はしないな・・・。
「あ・・・、当たり前のことをしただけだよ。別に褒められるようなことじゃないよ・・・」
少し顔が熱くなってきた。面と向かって言われているのは、だいぶ恥ずかしい。
「あんな場面で口を出したら、自分も嫌なことをされちゃうかもとか、思わなかった?」
「え? なんで?」
質問の意味が分からなかった。
「ほら、すごいじゃん」
え? え? なんで? どこがすごいの? 桂木くんが言葉を続ける。おそらく私の頭の上にハテナマークが飛んでいるのが見えたのだろう。
「まず自分のことを考えるんじゃなくて、とっさに友達を守ろうとして動いたことがすごいって言ってるんだよ」
「そうなの?」
あはは、と桂木くんが笑った。私はまだ良く分からないんですけど・・・。イイ笑顔ですね。
「柊さんて、おもしろいな」
「えっ、どこが? どこを取ってそんなこと言ってんの?」
びっくりした。何度かこの場所で話しているだけなのに、おもしろいと言われるとは・・・。またハテナマークが飛んでしまう。やっぱり調子狂うなあ・・・。
「俺、こんなに話せるの、柊さんだけかも」
太陽を隠していた雲が去り、強い日差しが戻ってくる。え? 今、なんて? 自分の耳に入ってきた言葉をそのまま受け取れなかった。
「桂木くん、いつも誰かと楽しそうに笑いながら話しているでしょ?」
「そう見える?」
まただ。一対一で話しているのに、煙に巻こうとする言い方。
「私とはこの土手でしか話さないじゃない。学校ではいろんな人に囲まれて、誰とでも楽しそうに話しているように見えるけど?」
少し怒ったたような声になってしまった。川面の光の反射は、目に痛いくらいにキラキラしていて、桂木くんは眩しそうに目を閉じて、空を見上げながら言った。
「誰とでも話しているように見えても、誰とでもこんな話ができるわけじゃない」
・・・とんちか? 一休さん、助けて。
「ねえ、なんであの時、俺に声かけたの?」
は? どうしてこの人はいきなり話が飛ぶんだろう???
「あの時?」
いつのあの時なのか、すぐに思い出せなかった。
「初めてここで“なにしてんの?”って声かけてくれた時」
ああ、あの時。
「えっと・・・、や、なんか消えていきそうだったから・・・」
「消える?」
桂木くんが驚いた顔をして私を見ている。
「あっ、お、おかしいよね! なんかうまく言えないんだけど、夕焼けと一緒に空に溶けていきそうな感じがして、思わず声が出ちゃったの」
「溶ける?」
うわ。どうしよう。桂木くんにとって謎なワードがいっぱいだよね。引くよね、これは・・・。
一度、深呼吸をした。落ち着け、私。
桂木くんは目を見開いたまま、まだ私を見ている。でも、どうやら引いている様子はない。
「あの・・・。桂木くんが転校してくる前から私、ここで空を見るのが好きで・・・。空がこう・・・。夕焼けに染まっていく色の変化とか・・・。あの日、桂木くんがここに立っていて・・・」
上手く話せない。変な汗が出てきた。ちらっと横を見ると、桂木くんの真っ直ぐな視線とぶつかった。いつも私の話をはぐらかそうとするのに、今はじっとこちらを見て動かない。どうしてか分からないけど、理由を考える前にその真っ直ぐな視線にちゃんと答えようと思った。もう、変なやつと思われてもいい。
「太陽が沈んでいく時って、すごく綺麗なオレンジ色でしょう? ただオレンジなだけじゃなくて、空のてっぺんに向かって白くなっていって、それが薄い青に繋がっているの。それからまた青が濃くなっているんだよ。それがとても綺麗で不思議で・・・。そして濃い青から夜の黒に続いていくの・・・」
桂木くんは黙って聞いている。
「そ、そこに桂木くんが立っていて・・・。空の色が変わっていくのと一緒に、あの・・・オレンジ色が消えていくのと一緒に・・・、と、溶けるようにいなくなってしまいそうに見えたの! 私には!」
そこに立っているだけで人が消えていくように見えるなんて、ホント、現実的じゃないよね。バカか、私・・・。黙って聞かれているのが逆に苦しくなってきて、自分のことをいじめてしまいそうになる。決心して言ってはみたけど、恥ずかしすぎて、もうどうにもこうにも私が消えてしまいたい。言い訳をしそうになって口を開けたその瞬間、
「そうなんだ」
桂木くんが一言、言った。え? 笑わないの? おかしくないの? 私の話。
「へ、変でしょ?」
思わずうつむいて、もごもごとした。さっきの話は後悔しても、もう私の中には戻ってきてくれない。
「別に。だってそう見えたんでしょ」
意外な反応だった。
「やっぱ、柊さんておもしろい」
そこに戻るの?
「バカにしてるでしょ! どーせ私なんて思考回路がおかしいですよ!」
「ほら、また。“どうせ私なんて”とか言わない。俺がおもしろいって言ってるのはそういうことじゃない」
・・・・・・この会話は成り立っているんだろうか? いくら桂木くんから聞かれたとはいえ、私が話したことは、まともに受け止めてもらえるような話じゃないと思うんだけど・・・。
「柊さんには、その時の俺がそう見えたんでしょ?」
「え・・・、うん」
「ありがと。溶けて消える前に引き留めてくれて」
今度は私が驚く番だった。こんなこと、一番仲の良い美也にだって笑われちゃうかもしれないのに・・・。
「フ、ファンタジーとか、言わないの?」
「別に? なんで?」
川辺からの風を受けながら、さらりと返してくる。
「柊さん、自分で言ったことに自信がないの? 俺、すごいと思ったよ。その豊かな観察力ってどこから来てんの? 今言葉にしてくれるまで、夕焼けがそんなふうに見えるなんて知らなかったよ」
すごいと思っていた桂木くんに、さっきからすごいと言われ続けている。
「ど、どこがすごいの?」
思わず聞いてしまった。自分で言ったことに自信がないよ?
「前に俺、柊さんに“空想屋”って言ったでしょ? ごめん、あれ、謝る。でも今は良い意味で空想屋って思う」
「え? どういうこと? 結局バカにしているんじゃ・・・」
桂木くんは私のことばを遮るように首を横に振った。
「違うよ。良い意味でって言ったでしょ」
良い意味って?
「絵本作家とか、なれるんじゃない?」
??? なにを言ってるんだろう、この人? またハテナマークが見えてきた。
「私、絵は描けないよ? 突然なに言ってるの? 作家ってなに?」
もう、ホント分かんない。桂木くんの思考回路の方がおかしいのでは?
「絵じゃなくて、文章の方。原作何々さんっているじゃん。さっき話してくれたみたいに、あんなふうに空の色を感じられるんなら、人の心に響く言葉にもできるんじゃないかなと思って」
また、驚いた。まさかそんなふうに言ってくれるなんて…。
湿った風が通り抜けた後、私は小さい頃を思い出していた。
「絵本は好きだけど、そんなこと考えたこともなかった…」
「まあ、俺が決めることじゃないけど」
まあ、そうだけど。
いつもなら話が終わりになるような言い方だ。でも、桂木くんは一呼吸置いて、ゆっくりと続けた。
「小さい頃読んだ絵本て、まだ持ってる?」
絵本?
「…持ってるよ。好きなお話ばっかりだから、時々めくってる」
笑われるかな。この年で、時々だけどまだ絵本を開いているなんて。
「そうなんだ。いいな」
いいな? もしかして桂木くん、その顔で絵本が好きだって言う? いや、絵本が好きな人の顔に注文をつけるわけじゃないけど…。
「俺の母親も絵本が好きだったんだ。小さい頃は良く読んでくれてた。絵本てさ、子ども向けだからページは少ないけど、短い話の中にもなんかこう…、大事なことが詰まっていた気がする」
へえ…。桂木くんが自分の話をしている。私が聞いてしまっていいのだろうか。
「…桂木くんも、まだ持ってるの?」
聞いてから、変なことを聞いたかなと思った。高校三年生にもなった男子が絵本を持っているなんて言わないだろう。例え持っていたとしても・・・。
「ご、ごめん! 高三の男子に聞くようなことじゃないよね!」
言ったことを取り消すように、顔の前で両手を激しく振った。また変な汗が出てくる。風で乱れた髪を整えるフリをして、汗を拭った。
「持っていたい本はあったよ。でも、今は手元にない」
「持ってっちゃったってこと?」
もしくは捨てられた? いや、でも、絵本が好きなお母さんが捨てたりしないか…。
今まで自分の話をしたがらなかったように見えていた桂木くんが、自分のことを話している。正直、私は戸惑っている。聞きたいことは山ほどあるけど、こちらから切り出すことはできなくて…。私は両手の人差し指を絡ませるように、くるくると回していた。
「母親が全部、持って行った」
「え? 持って行った?」
なんか、引っかかるけど、それが何か分からない。しばらく桂木くんの横顔を眺めてしまった。
「あのさ・・・。俺んとこの両親、離婚してんだ。そんで、絵本は全部母親が持ってった」
あ、それか。桂木くんの言い方がなんか変だと思ったのは。え? 離婚? 突然、そんな話、私が聞いていの?
「ここにいるといろんな話しちゃうな。相性いいのかな」
え? なんて? 私と? そんな、まさか。また変な汗が出てくるよ!
「この場所と」
・・・・・・場所ね・・・。ふーっ。
気付かれないように溜め息を吐く。溜め息? なんか期待していたのか? 私。
悶々と沈んでいきそうになる私をよそに、桂木くんは涼しい顔をしている。気温的に全く涼しくはないけど、顔が良い人が川辺で風に吹かれているとそんなふうに見えるのは、特権なんだろうか。
私の脳みそがこの問題にどう対応するべきなのか、必死で考えている。
「今日、学校で・・・、柊さんのカッコいい姿を見て、ちょっと思い出したことがあってさ。ずっと考えてたんだ。ああ、俺もあんなふうに大事な人を守れる人間でいたかったなって」
また、話が飛んでいないかい? これは変な汗が出るどころじゃなくなってきた。
だ、大事な人って、彼女? ・・・仕方がない。分からないことは分からないと正直に言おう。
「桂木くん、なにを話そうとしてるの?」
「え、あ、うん。ちょっと重いかもしれないけど・・・」
さっきからそんな気配はしているよ。それ、聞いちゃっていい話なのか、私はずっと悩んでるよ。心の準備をした方がいいのかな。
「えっと、その、友達の話なんだけどさ」
桂木くんが、そう前置きをした。
「そいつの父親ってひどいヤツでさ。母親が大変な思いをしている時でも、全く気にしないで自分の好きなことばっかやってて。母親も仕事してたから条件は同じなのに、そいつと妹のこと、それから家事も全部任せっきりで、いっさい協力することがなかったんだ。なんか気にくわないとすぐに汚い言葉でなじってた。『その言い方はなんだ、その顔はなんだ、その態度はなんだ』って。それってもう存在そのものを否定しているのと変わんなくね? いろんなこと全部人任せにして責任取ることからは逃げるくせに、文句は言う。無理だろ、そんな人間と一緒にいるのって」
友達のお父さんの話? 桂木くんの言葉が乱暴になってくる。柵に体を預けて川面を見つめるその表情が、少し怖い・・・。こんな顔もするんだ。友達のことで? 違和感を覚えた私は、言葉を発していた。辻褄が合わない。だって、さっきからの話から考えると・・・。
「それ、本当に友達の話?」
こっちを向いた桂木くんの目が、驚きの色をしていた。
「言っていいのか分からないけど、それ、自分のことじゃないの?」
本当に、踏み込んでいいのか、分からなかった。せっかく彼の方からなにかを話し始めようとしてくれているのに。言ってしまってから、これで終わりになってしまうのではないかと後悔した。
「はあ・・・」
溜め息を吐いてから、桂木くんは自嘲するように笑って言った。
「俺も大概意気地なしだよな。すぐにバレんじゃん。自分の話なのに、“友達の”とか言って・・・。ウケるな、マジで。・・・ごめん」
「別に、謝らなくてもいいけど・・・」
「自分のことを自分のこととして話せないようなやつ、転入生だからってチヤホヤされて人に囲まれてるの、可笑しいよな」
「話してくれたじゃない、今」
チヤホヤされているのは、転入生だったこともあるけどそれだけではないことに、彼は気付いていないのか。この人ホントに自覚ないんだ。
「なんでだろ。柊さんとここにいると、自分の周りの壁がなくなっていくような気がして勝手に言葉が出てくる」
桂木くんの目が真っ直ぐに私を見ている。なんだか私の方が恥ずかしくなってきた。『なんでだろ』って聞きたいのはこっちだ。そんなこと言われたら、なにか特別な感じがしてしまう。だから、そんなふうに見るのはやめてほしい。心臓が、バクバクし始めている。
「聞いてもらいたいと思ったから、話してもいい? さっき言ったけど、ちょっと重いかもしれない」
少しためらいがちに、桂木くんが私に聞いた。
「桂木くんが話してもいいと思うなら、私は聞くよ。聞くだけしかできないけど・・・」
「いいんだ、それで」
夕方の風は湿気を含んでいたけれど、いっとき、心地よさを感じた。川面を見つめていた桂木くんが、改めてまた、話し始めた。
「俺の父親の話。意地悪なヤツだった。こんなヤツがなんで自分の父親なんだろうと思うと正直ウンザリした。こいつダメだなって、子ども心に思ったよ。何回も」
私も川面を見ながら黙って聞いていたが、桂木くんが不意に私の方を見たのが分かった。
「自分のことが一番大事ってヤツが、どんなことするか知ってる?」
「あ・・・」
教室でのことがすぅっと頭の中に浮かんできた。美也に嫌がらせをしていたソフト部の元部長・・・
『あの人は自分が一番じゃないと気が済まないみたいだから』
美也が言っていた言葉も思い出した。似ている。でも、桂木くんが話そうとしていることは、きっと、もっと、比べものにならないくらい哀しいことだ。だから、「知ってる」とは口に出せなかった。少しだけうつむいた私に気付いただろうか。
「いつだったか、大雨の日に母さんが運転していた車が後ろから追突されてさ。母さん一人でパニクっちゃったらしくて・・・。自分のダンナに来てほしいって思うじゃん? 家からそんなに遠くないところだったらしいんだけど、雨に濡れたくないからってアイツ行かねえの。・・・サイテーだっつの。自分が一番カワイくて大事で、周りも自分を一番にしてくれないと怒るヤツだった。そんなヤツ、大人って言えんの?」
隣にいる私に答えを求めているわけではない。誰ともなしに話しているようだ。ずっと心の中に仕舞ってきたことなのかな。
「俺はホント、子どもでさ、ただ一緒にいることしかできなかった。母さんはでも、俺といることがしあわせだって言ってくれたんだ。すげー嬉しかったな」
後ろから強い風が吹いた。桂くんの髪が乱れて、切れ長の目が隠れる。それを気にすることなく続けて話した。
「父親は力ではない暴力で母さんを苦しめていたんだ。それが嫌で、でもどうにもすることができない自分が嫌で、どうにかしたいのにどうにもできなくてイライラして・・・。そういうのって態度にも出ちゃうだろ? 中学生だったし、うまいことやり過ごすことができなかったんだよな。そんな俺を見て、アイツが腹を立てて暴力を振るいだしたんだ」
胸を押さえて桂木くんが下を向く。
「だ、大丈夫?」
「俺、殴ったんだ、アイツを」
「え?」
お父さんを殴る・・・。私の家では考えられない。
うちは両親と私と小学生の弟が一人。お父さんとお母さんは、たまに喧嘩はするけど、仲が良くてだいたいいつも笑って話している。歳のは慣れた弟は少しやんちゃだけど、かわいい。子どもである私たちは、叱られることはあるけど、手を上げられたことは一度もない。今まで意識したことはなかったけど、世間からすると普通にしあわせな家庭っていえるんだろう。
「俺はあんなにアイツの暴力を嫌悪していたのに、自分も同じことをしてしまった」
桂木くんの顔が苦しそうに歪んでいる。
「それは・・・。だって、お父さんがやっていたこととは意味が違う・・・」
私は、できるなら桂木くんの苦しみを取り除いてあげたくなった。
「違っても、殴ったことに変わりはない。大嫌いな父親と同じことをしてしまった自分が、心底嫌になった」
もしかして、以前言っていた“自分を諦めてた”って、それが関係してるの・・・?
中学三年の時、とうとう両親が離婚することになってさ。受験を迎える時期だからって母さんはずいぶん気にしてたけど、もうどうにもならないところまで来ていて・・・。
父親が俺を、母さんが妹を引き取ることになって。母さんは俺のことも一緒にちゃんと育てるって一生懸命、父親に言ってくれたんだけど、アイツがどうしても譲らなくて・・・。一人の方が
楽なはずなのに、どうしてそんなに俺に執着するのか分からなかった。何度話し合いをしたか分かんねえけど、元々自分の言うことが一番だと思ってるヤツに話し合いで解決なんてできるわけなくて。・・・アイツ、母さんを殴ったんだ。俺と妹の目の前で。許せなかった・・・! だけど、それ以上母さんが傷つくのを見たくなかったから、俺は父親の言うことに従うことにした。妹も泣いていたけど、俺はもう二人が傷つかないで済むならそれでいいと思った。妹だけでも母さんと一緒にいられて良かったと思うよ。
父親は、とにかく俺に良い学校に行けってうるさくてさ。偏差値の高い高校ばかり勧めてきた。有名進学校ってやつ。全部アイツの見栄だよ。世間体ばっかり気にしやがって。まあ、波風立てないようにしていたから言うとおりにした。
なんだろうな。自分の子どもの人生も自分のものだと勘違いしてたのかな。それか、自分ができなかったことを子どもの人生でやり直そうとしてた? どうでもいいけど、とにかく言うことを聞けってそればっかだったな。俺の気持ちは全く無視でさ。良い高校行きゃ、良い大学入れて、良い会社入れるって、それ、いつの時代の話だよ。
アイツのことウンザリって思ってたのに、アイツの言うこと聞いてる自分てなんだよって、時々バカらしくなった。そう思ってるうちに、つい反抗的な態度になって・・・。
そしたらすぐに殴られた。母さんのことを殴ったアイツが、今度は俺のことを殴ったんだ。アイツが母さんを殴ったことと、それまで俺を押さえつけてきたことが折り重なって、頭ん中もう何が何だか分からなくなって・・・、気付いたらアイツのこと、殴ってた。
両親が離婚してからこっち、ずっと自分のどこか奥の方に淀んで、溜っていた膿みたいなものが、いきなり吹き出したような感覚だった。
びっくりしたよ。アイツ、一発で倒れてやんの。アイツよりも俺の方が強くなってたんだ。なあんだ。エラそうにしてた父親って、こんなに弱かったのかって、自分の拳とアイツを見比べながら愕然とした。
それまでいろいろ気ぃ遣って、我慢してなんとかやってきたのに、たった一発でアイツ、床に這いつくばっていた。それからなんか、いろんなことがどうでも良くなって・・・。たがが外れたようになって・・・。
父親が行けと言ったから入った学校は、バカらしくなってほとんど行かなくなった。進学校だったから、みんな自分の成績が大事で周りの人間を蹴落として上に上がろうとするやつばっかりだったし。あの学校だけなのかもしれないけど・・・。
街でケンカばかりして補導されたこともあった。アイツはそんな息子は要らなくなったんだ。自分の体裁が悪くなるような息子は・・・。
それからは、俺のことを気味が悪いものでも見るような目つきで見るようになって、それまではいろいろ指図ばかりしてきたくせに、もう声を掛けてくることは一切なくなった。
俺が生きてる意味って、何だったんだろうな。
気付いたらさ、真っ暗闇の中、ビルの屋上に一人で立っていた・・・。真っ暗な、本当に真っ暗な夜だった。暗闇が、俺にまとわりついてきた・・・。そう感じた時、恐ろしくなって全身が総毛立った。
この世で一番嫌いな人間が俺を見るあの目と、その人間と同じことをしてしまった自分・・・。
俺の、いる意味が分からなくなって・・・・・・。消えてなくなりたかった・・・・・・ッ。ここからいなくなれたら、どんなに楽だろうなって思っていた・・・。
・・・・・・でも、そこから下に見える車の流れに・・・飛び込むことは・・・できなかったんだ・・・。消えてなくなりたいと思っていたのに・・・・・・。
私の手が桂木くんのワイシャツを掴んでいた。強く。
ここはビルの屋上ではない。それでも、以前夕闇に消えていきそうだった姿と重なって、思わずギュッと握りしめていた。
今の桂木くんのことしか知らない私には、聞いていて驚くことばかりだった。
学校ではあんなに笑顔で、たくさんの人に囲まれて、楽しそうにしているのに・・・。
彼の中ではもう済んだことなのだろうか。学校での桂木くんと、ここで会う桂木くん。同じ人なのに。
自分の言葉で話そうとするくせに、一歩手前でやめてしまう。親しみを感じさせるくせに、いつも試すような言い方でいなくなる。そういうところに違和感を覚えていたんだ。今、分かった。そして、今、彼の真ん中にあるなにかに触れている。きっと、まだ済んではいない。桂木くんにまとわりついている闇は、消えていない。
桂木くんは、ワイシャツを掴んでいる私の手に一瞬、目を落としたが振り払おうとはしなかった。
「力任せに父親を殴って、他人を殴って傷つけて、散々なことをしたのに・・・。自分から消える勇気はなかったんだ」
「それは勇気じゃないよ」
自分の声が自分のものではないような気がした。「え」と桂木くんが振り向く。
「自分を消してしまうためのそれは、勇気とは違う」
私はなにを言おうとしているんだろう。桂木くんが話してくれたことに対して、こんなことを言っていいのか分からないままなのに。私を見た時、苦しげな表情がほんの少しの間だけど消えていたような気がした。
「だって、それは桂木くんがこの世からいなくなるってことでしょ? そんなの絶対やだ!」
やだ。そんなの勇気じゃない。
「あ・・・りが・・・とう」
それはとても小さな声だったけど、私にはちゃんと聞こえた。
次の言葉が見つからない。どれだけ沈黙が流れただろう。桂木くんがフッと小さな息を吐いた。溜め息ではなく、力を抜くきっかけのような感じだった。
「伯母さんが・・・会いに来てくれたんだ。俺のことを見て、すごく驚いていた。甥っ子がひでー姿になってるって・・・ショック受けてたな」
彼には、父親とのこと以外にも、考えられないようなことが起こっていた。学校を休みがちになっていた頃、その学校で暴力事件が起きた。進学校であるという面子から、学校側は世間の明るみには出ないように手を尽くしてその事件を揉み消したという。
問題は、桂木くんがその犯人にされたということだ。どうして学校に行っていない生徒が、学校で先生を殴れるんだろう。わざわざ考えなくても、話の辻褄が合わないことくらい誰だって分かるのに。その時には桂木くんが街でケンカばかりしているという噂が広まっていたこともあり、全て桂木くんがやったことにされていた。
こんな理不尽なことがあるだろうか。どう考えたっておかしい。全校生徒と全教師、そして学校が、自分たちの、自分だけの面子を守るためだけに一人の人間を陥れた。それでよしとした。
私だったら耐えれない。桂木くんはその時どうしたんだろう。
久しぶりに登校した時、周りの様子がおかしいと気づき、事件のことを知ったそうだ。
それでも、桂木くんは留まってくれた。ビルの屋上で、留まってくれた。“どのくらい”というのも当てはまらない、私には全く計り知れないことだ。
「お父さんは?」
お父さんは守ってくれなかったんだろうか。さすがになにもしていないのに、そんなありもしない罪を着せられたら抗議して守ってくれるだろう。自分の息子なのだから。
「父親?」
一言、私に聞き返してから黙り込んだ。
「アイツは・・・俺の味方にはなってくれなかったよ。ろくに俺の話も聞きもしないで、どうせお前がやったんだろうって。味方になってくれるかもなんて、ちょっとでも考えたってことは俺がアイツになにか期待していたってことか・・・。アホらし・・・」
そう言って目を閉じて笑った顔は、悲しみを隠すような笑顔だった。
「母さんの時と同じなのにな・・・。忘れてたよ。アイツは自分以外の誰かを守るようなヤツじゃなかった。例えそれが身内だったとしても」
自分の家族を守らない人は家族と言えるのだろうか。いや、桂木くんは認めていない。だから、ずっとお父さんのことを“父親”という呼称で話している。
ずっと、胸の奥にあったんだろうな。いろいろ考えてきたんだろうな。私が美也にくっついて、面倒なことを避けて、へらへらと笑って過ごしてきた時間、桂木くんはたくさんのことを苦しんだり、悩んだりしてきたんだろうな。
やっぱりすごいよ、桂木くんは。桂木くんがここにいてくれて良かった。川面を見つめるその目は、真っ直ぐに自分の現実と向き合ってきた目だ。
「桂木くん・・・」
「俺の素行が悪かったから、きっかけは俺が自分で作ったのかもしれないけどな・・・。けど、なんでも俺のせいにされたらたまんねーっつーの! これが本音」
「そうだよ! 悪いのは桂木くんのせいにした周りの人たちでしょ! お父さんだって、ちゃんと話を聞いてくれないのは絶対おかしいし! 桂木くんは全然悪くない!」
突然の私の大声に面食らっている。そして優しい顔になった。
「ありがとう」
お礼を言われるのはこれで二回目だ。そんな、お礼を言われることではないよ。だって、当たり前のことを言っただけだよ。
父親と上手くいっていない俺を見て、伯母さんが引き取るって言ってくれた。伯母さんが俺をアイツから引き離してくれたんだ。このままじゃ駄目だって。
その時の俺にはなにが駄目なのかも、もう分からなくなってた。伯母さんのところに行ったってなにが変わるんだ。なにが違うんだ。
ただ、俺が息をする場所が変わるだけだ。
伯母さん、子ども好きでさ。自分の子どもも三人いるんだ。それなのに、俺のことまで引き受けてくれて・・・。あの頃、誰とも話さなくなっいた俺にいろいろ世話焼いてくれてさ。それが・・・すごく心地よかった。いとこたちも俺のこと嫌がったりしないで、小さい頃に遊んだのと同じように接してくれて、あたたかかった・・・。
いつぶりだったろう、人といるのが心地よいって感じたのは。ずっと忘れていた感覚だった。
伯母さんの旦那さんも良い人で、自分の子どものように何の抵抗もなく俺のことを受け入れてくれた。
それまでの自分のことを考えると、こんなにしてもらっていいのかって驚くことばかりだったけど、ワイワイ賑やかな中に俺がいて・・・。嘘みたいだった。こんな時間が待っていたなんて。
桂木くんの表情が少しずつ柔らかくなっていく。私も体の力が抜けていく感じがして、自分の体が強ばっていたことに初めて気付いた。
「すごい人だね、伯母さんて」
「うん。伯母さんが俺のこと面倒見てくれるって言って、今の学校に転入させてくれたんだ。俺、変わろうと思った。今までの自分のことを知らない人たちばっかりだから、すげえいいやつになろうと思って。でも、やっぱり無理があったのかな。自分がしたことを都合良くなかったことにしようなんて。ここを通る度に、どうしようもなく独りだった自分を思い出して・・・立ち止まってしまう」
『あの時の俺は、なんであんなふうに人を傷つけてしまったんだろうな。他に方法を見つけられなかったのかな』
こんなふうに話すのは、父親から離れてちょっとずつ以前の自分のことを落ち着いて考えられるようになったからだろうかと私は感じた。
「桂木くんは優しいんだね」
「えっ?」
意味が分からない、という顔をしている。
「だって、傷つけられたことじゃなくて、自分が周りを傷つけたことに苦しんでる。普通なら・・・普通というか、きっと最初は自分が傷つけられたことをいろいろ恨んだりするんじゃない」
「・・・・・・そう、なのかな・・・」
私はそう思うよ。桂木くんが少し恥ずかしそうに首筋をかきながら、川の方に視線をやった。
「ここ、前にいたところにちょっと似てる風景なんだ。だからなんか、“目を反らすな”って言われているみたいで、立ち止まってしまう。そんなのきっと気のせいだから見ないで逃げてしまえばいいのかもしれないけど、でも、それじゃいけない気がするんだ・・・」
なんでもできて、いつも自信に満ちあふれているように見えていた人は、本当のところは違ったみたいだ。こんなに自分のことを責めるように悩んでいたんだ。同じ学校になって間もないし、話したのも数えるほどだけど、なぜこんなに私に話してくれるのっかも分からないけど、ここで見せてくれる桂木くんの姿には、きっと嘘はないんだと思う。
「じゃあ、立ち向かえば?」
「立ち向かう?」
「そう。逃げたくないんでしょ? ホントは。だったら立ち向かう! 美也に頼り切りだった私が言うのもなんだけど、立ち向かおう!」
声を大きくして言った。もうそれしかないでしょ!
「・・・・・・」
あ、引いた? 桂木くんは黙っている。でも、ちょっと口が開いている。うーん、そうだよね、突拍子もない言葉に何も言えないよね・・・。
「あの、あ、会いに行けば?」
私は恐る恐る言った。開いていた桂木くんの口が、今度はちゃんと閉じた。その後すぐ、
「会うって誰に?」
と聞き返された。このまま話してもいいよね?
「お母さん、元気なんでしょ? あ、はるばる行かなきゃならないけど! もしかして海外?」
一気に喋った。聞きたいことも言ってしまった。はるばるって言っちゃった。
「いや、まさか! 国内だよ」
目を丸くしながら答えてくれる。
「ここからは遠いけどな・・・」
「会いに行けるんでしょ? お母さんに。桂木くんはここにいるんだから! 桂木くんが死んじゃったわけじゃないんだから!」
「え・・・?」
一瞬の間があり、ぶはっ! と桂木くんが吹き出した。ん? なにがおかしい?
「おまえ、おもしろいこと言うな!」
・・・おまえって言われた・・・。そんな関係性だったっけ? おもしろいってなに?
「な、なによ!」
「フツー、相手のことを言うんじゃねーの? 死んでるとか死んでないとか・・・」
笑いをこらえながら、そう言う。私の言い方が相当おもしろいらしい。
「えっ、だってそんな、縁起でもないこと・・・」
「俺ならいいのかよ! あはは!」
笑いすぎ。イケメンが台無しですよ。
なんか私、さっきから笑われてばかりいる。まあ、怖い顔だったり苦しそうな顔をだったりした表情が笑顔に変わってくれるのは、こちらも嬉しいですけど。私はいったいどんな対応をすればいいのか分からないままなんですが。
あっ、そうだ!
「ねえ、桂木くん! 場所と相性が良いって言ってたの、あれ違うじゃん!」
“この場所に来るとどうしようもなく独りだった自分を思い出してしまう”と言っていた。変だよね? それは相性が良いこととは真逆なんじゃないの?
「あー、だね!」
だな! じゃない! もー。私はほっぺたを膨らませた。
「たぶん、柊さんと相性がいいんだ」
・・・・・・は? またそういうことを言う! どう反応したらいいの! なんだか元の桂木くんに戻ったみたい。
「あーーーーーーーーっ!!!」
うわっ! なに!? 突然、桂木くんが大声で叫んだ。
「個人情報いっぱいしゃべったあ!」
両手を思い切り上に伸ばしながら、はははっと笑う。
「遅くなっちゃったね」
えっ? 慌てて辺りをキョロキョロと見回した。本当だ・・・。夕焼けどころか、すっかり日が落ちている。
全く気付かなかった。え? 私、桂木くんしか見えてなかったの?
「! ! !」
急に顔が熱くなる。赤くなってる! 暗くて良かった。って、そうじゃなくて!
「送っていくよ」
ええっ!
「だっ、だっ、だっ、大丈夫だよ! 自転車でピューッと行けるし! へーきへーき!」
「でも、暗いから」
川に沿った通学路の先を見ると、確かに暗い。こんな時間に帰るなんて久しぶりだから、ちょっと不安になった。でも、だって、だって、ど、どうしよう! なに話していいか分かんないよ!
「俺が送りたいんだ」
ええええええええええーーーーーーーーーー!! そういうこと言うーーーーーーーーーー!?
そんなことを言われたら、ホントにどうしたらいいの!!
「心配だから、いい?」
「じ、じゃあ、お願いします・・・」
消え入るような声しか出せなかった。
桂木くんが何気なく私の自転車を押すのを替わってくれる。この何気なさ・・・。美也が言っていたことを思い出した。こういうことか・・・。私の自転車を桂木くんが押している。「カバンだけ乗せていい?」と言って。
夏の虫の声の他には、車輪がカラカラと回る音と、そして桂木くんと私の靴音しかない。すぐに家に着いてほしいような、このまま一緒に歩いていたいような・・・。
「俺のこと、怖くない?」
「え?」
まさか、送りなんとかとか言う・・・。
「なんで?」
「俺の、前にしたこと聞いて、そういう部分もあるんだって・・・」
「え? なんで?」
送りなんとかの話ではないらしい。バカか、私。
桂木くんを見ると、少し首を傾げて困っている。ん? 困ってるの? なにを?
「なんでって・・・」
「桂木くんのなにが怖いのか、分からない!」
はっきり言った。思っていることを正直に言った。
ぶはっ! 自転車を停めて、また桂木くんが吹き出した。
「そういうとこ!」
どういうとこ!? さっきから吹き出しすぎじゃない?
「いいなあ! 柊さんのそういうとこ!」
だから、どういうとこ!?
「桂木くん、一人で納得しないでよ! 分かんない!」
「あはは! 聞くだけ無駄か!」
また一人で笑ってる。できれば一緒に笑える話題をお願いします。
そんなこんなで、あっという間に家の近くまで来てしまった。ここで曲がれば、すぐに私の家だ。
「じゃあね」
桂木くんが自分のカバンを持ち、自転車を返してくれた。
「遅くなっちゃってごめん」
「ううん。大丈夫。送ってくれてありがとう」
目を上げると、じっとこちらを見ている桂木くんの目とバチッと視線が合った。な、なんだろう。
「ありがとう、柊さん」
また、お礼を言われた。私はただ話を聞いていただけなのに。
「ううん。・・・じゃあ、またね」
桂木くんに手を振る。
「うん。またね。あ・・・」
あ? “あ”って? まだなにか言い残したことがあった?
「いや、柊さん」
そう言って、桂木くんは踵を返して夜道の中を去って行った。
“あ”。あ? “あ”ってなんだろう。ちょっと引っ掛かる。今度は私の方が首を傾げる番だった。明日、聞いてみよう。
そういえば、桂木くんが一緒に住んでいる伯母さんの家って、この近くなのかな? もし遠かったら悪いことしたな・・・。もう一度、桂木くんが歩いて行った方向を見てみたけど、彼の姿はもうすでに見えなくなっていた。でも、前みたいに不思議な感じはしない。ちゃんと彼を待ってくれている人がいるんだ。居心地のいい場所があるんだ。良かったね、桂木くん。
「ただいま!」
心の中に温かい光が広がるのを感じながら、私は玄関のドアを開けた。
♢
明日、話そう。そう思ったのに、学校ではなぜかタイミングが掴めない。昨日はどれくらいの時間、二人であそこにいたんだろう。そんなことを思い出すと、変な緊張をしてしまって、どう話しかけたらいいのか分からなくなってしまうのもあった。
何度か心の中で『せーのっ!』とかけ声をかけて後ろの席を振り返ったけど・・・。その度に彼はいない。あれ? どこに行ったんだろう? 「ねえ、桂木くんどこに行ったのお?」「分からないとこ、教えてもらおうと思ったのにぃ」と言う女子たちの声が聞こえてくる。
女子に囲まれる前にいなくなっている。
桂木くんは、授業の合間の休み時間に席を外すことが多くなり、ついには昼休みにも姿が見えなくなった。まあ、おかげで私は落ち着いて自分の席に座っていられるようになったんだけど・・・。
美也も勉強してるし、邪魔をしなくて済む。私も少し勉強するか・・・。いや! 少しどころじゃない! 定期テストは目の前だ!
時々、男子と笑い合って話している桂木くんを見かける。普通に笑っている。良かった。普通だ。
桂木くんの秘密を知ってしまったようで、私だけ勝手にドキドキしていたけど、当の本人は今までと変わらないみたい。ホント、良かった。
ああ、そうだ、勉強しなきゃ! テスト範囲、まだクリアできてない!
その後はテスト勉強で忙しくなり、帰り道で土手で空を眺める余裕なんてなかった。なにより私、もう本当に進路を決めなくちゃ。
大学。私が行ける大学・・・。いや、そうじゃない。私が行きたい大学。なにをしたいか。将来どんな仕事をしたいか。いや、そこまで今は明確にできない・・・。まだ迷路の中なのかな、私・・・。
『空想屋。いい意味でって言ったでしょ』
突然、桂木くんの声が頭の中に響いた。ぱっと後ろを振り向く。・・・いない。え? うわ、私、どうした?
バタバタとテスト期間を迎え、バタバタと終えた。成績、大丈夫かな・・・。
空想屋・・・。桂木くんに言われたことをまた、思い出していた。自分が感じたことを文章にする・・・できるかな、私に。いや、できるかできないかじゃない。やりたい。やってみたい。
あ。
なにかが、私の一番奥の、真ん中に落ち着いた。そして、すうっと染みこんでいく。
決めた! やってみる!
これは絶対、桂木くんに言わなくちゃ! 自分で決めたんだ! ・・・ちょっとだけヒントはもらったけど・・・。
休み時間にいなくなる桂木くんを探して、学校中を探し回った。ああ、もう、どこにいるの? 席は後ろなのに、なんで校内をくまなく探しているんだろう? こんなのおかしいよね? この暑いのに、走り回るなんて汗だくになるし。でも、早く話したい。夏休みに入ったら、しばらく会えなくなる。
あと探していないのは・・・。
昼休み、屋上の重い扉を開けて、ぐるっと見回す。
「いた!」
思わず叫んでいた。振り向いた桂木くんが、何事かという顔をしている。
「ずっと探してたんだよ!」
「え・・・? 俺のことを?」
今度は、そんなことがあるのか、という顔をしている。夏の屋上は直射日光を受けて、想像以上に暑い。一瞬で汗が噴き出してくる。日差しが体を刺してくるようだ。こんなところでなにをしているんだろう。
「この頃、休み時間になるといなくなるから、どこにいったんだろうってずっと探してたんだ」
私は、目の上に手をやってひさし代わりにしながら、フェンスの近くにいる桂木くんの側まで歩いて行った。
「そうなんだ」
暑いはずなのに、また涼しそうな顔をしている。やっぱり特権があるのかな。
「ここで何してるの?」
近くに行くと、桂木くんの額にも汗が浮かんでいるのが見えた。そりゃそうか。
「空、見てた」
「空? この暑いのに?」
「うん。さすがにいつもここにいるわけじゃないけど、今日はたまたま。この空って、ずっと繋がっているんだなあと思って、眺めてた」
繋がってる・・・? 大事な人のいる場所と、だろうか。邪魔しちゃったかな・・・? でも、たまたまに出会えて良かった。やっと話せる。ふうっと息を吐いた私に、
「どうしたの?」
と桂木くんが心配そうな顔を向けた。カアッと顔が熱くなるのは、この日差しのせいだけではない、きっと。
「あの、私、決めたの。自分の進路」
「え、決めたの? 自分で?」
「うん」
真っ直ぐ、桂木くんの目を見て答えた。
「えらいじゃん!」
「!」
びっくりした。呆けたようにしばらく立ち尽くしてしまった。暑さも忘れて。
今まで見たこともない、思いっきりの笑顔が私の目の前で弾けている。こんな笑顔、私に見せてくれるんだ。
「一歩踏み出したな」
「・・・一歩?」
やっとのことで声が出た。
「うん。一歩。じゃ、二歩目もいけるな!」
笑顔のまま桂木くんが言う。
「二歩目?」
「一歩が出たら、次は二歩目だろ?」
前に進んでいる、ということ? ずっと迷路の中にいるようだったけど、私、前に進んでるんだ!
「自分が感じたことを表現するっていうのをやってみたいと思う」
決意表明のように、告げた。
「そっか。ガンバレ!」
ありがとう。空想屋って言ってくれた桂木くんのおかげだよ。
「私ね、掴んだんだ」
「? なにを?」
不思議そうな顔をしている。・・・ちょっとかわいいかも。・・・そうじゃなくて、うーんと。言っちゃって平気かな。きっとまた、おもしろいやつって笑われる。でも、いいや。
「あのね、根拠のない自信!」
一瞬の沈黙。そして笑顔。
「自信はいいけど、根拠ねえのかよ!」
あっはは! と笑ってる。
「けどそれ、俺らには一番大事なモンだな!」
ん? 俺ら? 桂木くんが笑ってる。今、俺らって言った? 私、桂木くんと並んだの? 私よりずっと先にいると思っていた桂木くんと並んでいるの? それなら本当に嬉しい。
「桂木くんは? 進路どうするの?」
あっ、聞いちゃった。聞いていいかどうか、確かめてからにすれば良かったかな・・・。
「俺? 防衛大学校」
ボウエイダイガクコウ? って? 久しぶりに頭の中でカタカナに変換された聞き慣れない言葉・・・。
あっ! えっ? それって・・・。
「じ、じえいたい?」
「そ。飛行機乗るの。そんで空から護る」
「こうくうじえいたい?」
「そ」
そ。って・・・。
「えっ、ちょっと待って待って? その学校って、すごーく頭の良いところじゃない?」
ふふんと鼻を鳴らすように桂木くんが笑っている。
「知らなかった? 俺、すごーく頭がいいんだよ? そんでもって身体能力もバツグン!」
「・・・・・・」
返す言葉がない。
「なーんて。余裕ぶちかましてル場合じゃないから、鋭意勉強中」
そう言って、手に持っている参考書をヒラヒラと見せてくれた。夏の暑さが肌に戻ってきて、新しい汗が頬を伝っていく。ついでに蝉の鳴き声がうるさい。四方から聞こえてくる鳴き声は、暑さを三割増しにしていた。
すごい。すごいすごい。桂木くん、やっぱりすごい。
桂木くんの言葉で、私も彼と並んだと思ったけど、まだまだだ。桂木くんはまだ先に行っている。
♢
四月から数えてたった二回目の、学校での桂木くんとのやりとりのあと、すぐに夏休みを迎えた。夏休みに入る直前、私は担任と話し、自分の進路を伝えた。ようやく決まった私の進路について、先生も「頑張れよ」と励ましの言葉をくれた。それと、今後の具体的な日程を教えてくれた。なんとか間に合った、という気がする。もう出口のない迷路をぐるぐる回ってはいない。一歩、踏み出したんだ。
「愛生、なにかあった?」
終業式の日、美也に聞かれた。ああ、なんか久しぶりだなあ、美也と話すの。
「なにかって?」
「雰囲気変わった感じがするから・・・。前から元気は元気だったけど、前向きパワー全開っていうか」
「前向きパワー? あは、おもしろーい!」
「もう! はぐらかさないでよ! なんかあったの?」
「別にはぐらかしてないよぉ。あのね、私、やりたいこと見つけた! 大学、決めたんだ!」
そういえば美也にはまだ話していなかった。
「そうなんだ、良かったね!」
「うん!」
良かった。ちゃんと美也にも報告できた。・・・でも、美也が変な顔をしている。
「ん? あれ? 前に『もう決めた』みたいなこと言ってなかったっけ?」
あっ! そうだった!
「あっ、あれはその・・・。ごっ、ごめん!」
両手で拝むように手を合わせて謝った。
「まあいいや。とにかく愛生が自分でやりたいこと見つけたんでしょ? お互いがんばろ!」
美也が笑ってそう言ってくれた。
「うん! ありがと!」
これから乗り越えなくてはならないことはきっとたくさんある。でも、絶対大丈夫。
朝早い時間は都心でも空気が澄んでいると感じる。いつも見ている夕焼け空ではなく、太陽が昇る空が見たくて、今朝は頑張って早起きをして通学路の土手に来ている。
少し明るくなってきた空を見上げながら、夏休みに入る前に桂木くんが話していたことを思い出していた。
『護る』
この空で繋がっている大事な人を、ということかな。桂木くんは、私には全く及ばないようなところにいるような気がする。近付けたと思ったのに・・・。なんだろ。寂しいのかな? 私。
航空自衛隊。そっかぁ、そんなこと考えてたのかぁ。
『自分のことを大事にするってのは確かに必要だけど、自分のことだけ大事にして自分を守るような生き方って、みっともねえなと思うんだ。そんなカッコ悪いことだけは、絶対したくない。これは俺がアイツから学んだ、最大で唯一のことかな。だとしたら、あの時間もあながち無意味ではなったってことか』
そう言って笑った桂木くんの顔は、本当に優しい顔だった。
自衛隊のことを詳しく知らない私に、桂木くんはこう言った。その一言は、桂木くんが胸に抱いていることを全て詰め込んだような言葉だった。
『誰かのために戦うのは、自分を守ること以上にかっこいいと思わないか?』
その“誰か”は、知っている“誰か”でなくても。この空で繋がっている大事な人だけではなく。・・・そういうことか。
空の色が、また変わってきた。太陽が地平線から昇ってくるのが分かる。
「朝焼けはなんて表現する?」
突然、後ろから声がした。
「ひゃっ!」
驚いて肩をすくめた。振り向くと、そこに立っていたのは桂木くんだった。・・・え?
「偶然だね」
偶然? 偶然すぎるよ!
「び、びっくりした・・・」
それ以上、言葉がでない。
「朝焼けってどんなだったろうなって、ちゃんと見てみたくなってさ。ここがちょうどいいよな」
隣に並ぶ彼は、とても清々しい表情をしている。夏の朝にぴったり・・・と思いながら、見とれてしまった。気持ちのいい風が吹いた。
風は目の前に広がる川の表面を優しくなでて吹いてくる。まだ気温が上がっていない空気の中にいるのが心地いい。
世界を照らす準備をしながら、一秒を数えるように刻々と太陽の光が広がってくる。
「まさか柊さんに会えるとは思わなかった。あは、すげえ偶然」
びっくりした。心臓の鼓動が落ち着くまで黙っていようと思って、髪が乱れるのもかまわずにじっとしていた。
「もう失くしたと思っていたけど、失くしてなかった」
・・・またなぞなぞ? いや、とんちか? 一休さんを呼ぶやつ?
「母さんに会いに行ってきた」
「えっ?」
突然始まった話に、また、言葉が出ない。
「よ、余裕だね・・・。難しい学校を受験するのに・・・」
少し間を置いてから出た私の言葉は、やりとりとして間違ってなかっただろうか。
「もやもやしてたから、はっきりしておきたかったんだ」
会いに行けばって言ったのは私だけど・・・。桂木くんはふっと息を吐くように笑ってそう言った。それで、どうだったんだろう・・・? 気になるけど、私からは聞けないよ。彼は私の顔を見てから、また笑っている。
「そんな心配そうな顔しなくても大丈夫だよ」
あれ? 心配そうな顔してた?
「すごく驚いていたけど、すごく喜んでくれた。母さんも妹も元気でさ」
そう言った後、とてもしあわせそうな柔らかい笑顔になっていた。良かったね。本当に良かった。
「大事なものって、積み重なっていくんだな」
明るくなっていく空を見つめながら、呟くように言った。
「母さんたちと離れた時に終わってしまったと思っていたものが、まだちゃんと続いていて、うーんと、なんて言ったらいいのか・・・」
「桂木くんのことをちゃんと、ずっと思い続けてくれてたんでしょ?」
桂木くんが驚いて私の顔を見ている。
「そう! すごいな、おまえ!」
だから、おまえって・・・。
「だってお母さんだよ? 当たり前じゃん!」
私はまだお母さんではないけど、うちのお母さんのことに置き換えてみたら、それは当然のことだと感じた。だからそのままそう言った。
「・・・そうなのかな」
「そうなの! とにかく良かったね! 会いに行けて、喜んでくれて! 桂木くん、すごく嬉しそう!」
「えっ、嬉しそう? そういうの分かるの?」
「分かるよ」
オーラ出てるし。・・・そういえば、前に話した時に感じた、つきまとうような、なんだか暗いものというか、そういうものがなくなっている。霊感はないけど、感覚として、そんな気がする。本当に良かった。
何か考えていた桂木くんが、少し赤くなって言った。
「・・・俺、マザコンみたいじゃん」
「マザコンでしょ!」
私はきっぱりと言い切った。目を丸くしている桂木くんの顔がなんだかおもしろい。
「男の子だって女の子だって、みんなお母さんから生まれてくるんだよ! マザコンで当たり前でしょ! マザコン上等!」
ぶはっ! 出た! いつものやつ。また吹き出してる。まあいいですよ。例に漏れず、私もその顔好きですから。
「あっはは! マザコン上等か! よし! これからいろいろ前向きに生きられそー!」
元気な声。両手を挙げて伸びをしながら叫んでいる。
「私もやりたいことがはっきりしたら、一本筋が通ったような気がしてる。自分がブレないような、そんな感じ。もう自分のこと、どうしようもないなんて思わないよ」
笑って言えた。本当にそう思うんだ。
「受験のことで、ちょっと不安がよぎることもあるけどね」
「なに言ってんの。俺らには最強の武器があるじゃん!」
私のことをまじまじと見て、声音を強くした桂木くんが言った。
「え、な、なに?」
「おいおい、自分で言ったんだろ?根拠のない自信て! なにが一番大事なことかそれさえはっきりしていれば、誰だって強くなれる」
「・・・そうだね」
桂木くんの一言が、心に強く残る。
「・・・なんか、桂木くんてかっこいいな」
しーん。
あれ? 私、なにを言ってしまった?
「よく言われる」
「は?」
「クラスの女子にも、他のクラスの女子にも」
自慢か?
「いや、見かけのことではなくて、中身の話なんだけど」
慌てて付け加えた。・・・見かけもカッコいいけどね。
「それ、告白?」
はっ?
「ちがっ! なに言ってんの!?」
顔が赤くなってしまった。桂木くんがそれを見ている。なんで!? なんでそんな余裕な顔してるの!? もう! こんなのばっかり!
「俺、転校してきて良かった。柊さんと話せて良かった。今まで自分のことは自分で責任持たなきゃって考えすぎてたけど、一人で解決できないことは誰かに頼っていいんだなって思えるようになったよ。柊さんと話すまで、自分が母親に会いたいと思ってるなんて気付かなかったんだ。おかげで俺も一歩、前に進めたよ。本当にありがとう」
そんな、たいしたことはしていないよ。少し恥ずかしくなって、目を反らした。辺りはすっかり明るくなっている。太陽の光が眩しい。ああ、朝焼けの空の変化を見逃した。
「ねえ、さっきの告白じゃないの?」
嬉しそうな顔のまま、柵に肘をついてこっちを見ている。なんの話を元に戻そうとしているのかな!
「だから、違うって言ったでしょ!」
もう、しつこい! 真面目なことを話したかと思えば、また人をからかって!
「あのさ」
一言、言って桂木くんが黙り、空に視線を移した後、妙な沈黙の時間が流れる。なんか変。
「なに?」
どうにも待っていられずに促した。
「あのさ・・・」
もう一度、同じことを言ってまた黙る。なんだろう。明けた空を眩しそうに見ていた桂木くんがこちらを向いた。
「前から思ってたんだけど」
また、途切れる。
「うん?」
「“桂木くん”って呼ぶの、めんどくさくね?」
「え?」
桂木くんは桂木くんだ。名前を呼ぶのに面倒くさいなんて思ったことはないけど・・・。私が不思議そうな顔をしていると、
「や、あのさ・・・」
前髪をわしゃわしゃとしながら、珍しく桂木くんがしどろもどろしている。え、こんな姿は初めて見た。
「“桂木くん”て、なんか呼びにくくね? 堅苦しいっていうか・・・」
ん? なにが言いたいんだろう? ちょっと真意が掴めない。
「や・・・、ホントはこっちが先。名前で呼んでもい?」
「・・・えっ? 誰を?」
桂木くんが右手を胸の高さまで上げて、そっと私を指さす。誰って、私しかいないか。なに言ってんだろ、私。・・・えっ? どういうこと?
「名前で呼びたい。愛生って」
えっ、ええっ!!! 驚きで声が出ない! え、なんで、なんで? 顔がさっきより赤くなっちゃう! あ、桂木くんの顔も赤いよ!
「俺も、悠真でいいから」
「いや、そういうことじゃなくない? はっ、恥ずかしいしッ」
私こそ、そういうことではないことを言っているかもしれない。桂木くんは笑っている。心なしか、余裕な表情に戻っているような・・・。私が焦っているのを見ておもしろがってる?
「俺、名前で呼ばれたいなあ。愛生に」
って、もう呼んでるじゃん! いいって言ってないのに! ずるい! はあああああ・・・。桂木くん、笑ってるよーーーーー。なんでそんな笑顔なのーーーーー。私なんかどうしたらいいのか分かんないのにーーーーー。男の子にそんなふうに言われるのも、名前にで呼ばれるのも初めてだよーーーーー。どうしたらいいのーーーーー。
「ねっ、そうしよ!」
うわっ、そのいたずらっぽい顔! ずるいってば! でも、ちょっと頑張って・・・言ってみようか・・・。
「ゆ、ゆ・・・、悠真くん・・・」
「“くん”もいらない」
「ええっ! でっ、でも・・・」
暑い。太陽が本格的にこちらを照らしている。でも、この暑さは果たしてそのせいだけなんだろうか。
「じゅっ、受験終わったら・・・」
苦し紛れの紛れ紛れ・・・。
「はっ? えっ? それ、来年じゃん!」
「お、お楽しみってことで・・・」
紛れ紛れでごまかせないかな・・・。
「はっ? なんだそれ! ははっ! なにその“おあずけ”みたいなやつ!」
桂木くんが大笑いしている。
「はー、やっぱおもしれぇ!」
「もー、またバカにしてるでしょ! からかわないでよ!」
恥ずかしすぎてどうにもならない。どうしよう、これ、逆ギレかな? いや、どっちもキレてないか。
「俺、こんなに笑えるの、ひいら・・・いや、愛生といる時ばっかりなんだ! だからもっと仲良くなりたいと思って! 名前で呼びたい!」
「もう呼んでるじゃん!」
「え? あ、ホントだ」
わはは、とまた笑っている。
「もーーーーー! ゆうまのバカーーーーー!!!」
破れかぶれで川に向かって叫んだ。もうヤケクソだ!
「あっは! ちゃんとこっち向いて言ってよ」
「言わない。受験終わったらね」
顔をプイと背けた。そんなにすぐに言うこと聞いてあげない。
「え? やっぱおあずけ?」
「だ、だ、だって勉強しなきゃ! 受験生だもん!」
「お? なんだ? 急にマジメか?」
「もう、バカ!」
「バカ呼ばわりかよ。俺、バカじゃないのに・・・」
口を尖らせてスネている。桂木くんがスネている。か、かわいい・・・。ハッ! 違う、違う!
「・・・いいよ、私のことは愛生で」
観念した。
「じゃ、俺も悠真で」
「っだから! それは! 受験が終わってから・・・」
「むう・・・」
桂木くんが黙った。スネた横顔が、かわいい。
そういえば、学校にいる時よりも喜怒哀楽がストレートに出ている気がする。あれ? そういえばここで話している時にの方が、ちゃんと感情を出している? 学校では“喜”と“楽”しか見せていなかったような・・・。
この前話してくれた時には、怒っている感情がたくさんあった。それから、哀しい気持ちも・・・。ここで話してくれた時の桂木くんは、素でいられたのかな。
今もそうなんだよね。きっとこれが桂木くんなんだ。
実は、学校で見る桂木くんの雰囲気も以前を少し違ってきたように感じていた。前よりも柔らかい感じがする。こんなことを感じているのは、私だけかな? 転入してきた頃から考えると、確かに違うと思う。もしかしたら、大事な話をしてくれた、あの時からかもしれない。桂木くんも『前に進めた』と言っていた。
もう後ろを振り返らずに、前を見ることができるようになったんだ。
「いい名前だよな、愛生って」
しばらく黙っていた桂木くんが、温かさを含んだ声で私の名前のことをそう言って、こちらを見る。
「名前って、両親からの最初のプレゼントだって言うじゃん? 大事にされてるんだな」
うん、大事にされてるよ。
「それなら桂木くんだって・・・」
言おうかどうか少し迷ったけれど、やっぱり言いたかった。少なくとも、桂木くんが生まれてくる時には、ご両親が彼の誕生を待ちわびていたと思うからだ。今は“父親”と呼ぶ、かつては桂木くんにとって“お父さん”だったその人も。
「悠真って名前だって、意味があるんでしょう? 漢字からすると・・・例えば、だけど・・・。“はるかなるまこと”とか・・・。すごく深いじゃない? きっとご両親が桂木くんのために一生懸命考えた名前だと思う。大事にされてるのは一緒じゃない?」
桂木くんは少しの間、考え込んでいた。
「・・・そっか。俺が生まれた時には、両親がちゃんと喜んでくれたってことだよな。うん。なんか、根拠のない自信がパワーアップした気がする! やっぱすごいな、おまえ!」
褒められるのは嬉しいんだけど、また、おまえって言った。
「あのさ、この前からちょくちょく私のことを“おまえ”って言ってるよね? その“おまえ”っていうのも結構距離的に近くないかな!」
猫が逆毛を立てるように、息をフーッと吐いた。我ながら、一人でなにを興奮しているんだろう。それなのに・・・。
「え? そう? 呼んでたっけ?」
当の本人はどこ吹く風だ。気が付いていなかったの? 逆毛だった気持ちが、音もなく引っ込んだ。
「桂木くんが私のことを“おまえ”って言うなら、私は桂木くんのことを“あんた”って言おうかな!」
どんな論理なんだ。自分でもめちゃくちゃだと思う。
「試しに言ってみる?」
からかうように笑っている。もう! どうしてこうも余裕そうなんだろう!
「おまえ」
「あんた」
・・・・・・。
ぶっは! 二人で吹き出した。
「夫婦漫才かよ!」
腹痛え、と桂木くんが腰を曲げている。あはは! 私もおかしくて笑ってしまった。
あっ、同じことで一緒に笑ってる! 初めてかもしれない。なんか嬉しいな。
差し込む光の温度が、ジリジリと高くなっていた。せっかく早起きをしたのに、太陽が昇る
空をじっくり見ることはできなかった。けど、それはたぶん、これからまた見ることができる。それは今日、この時と同じではないけれど。ここでこうして、桂木くんと笑い合いながら言葉を交わして一緒にいられる今は、今だけだ。この瞬間に、ここにいられて良かったと思う。
この先、楽しいこともそうじゃないこともたくさんあるだろう。でも、どんなことがやってこようとも、大丈夫。一歩ずつ踏み出していける。前へ。もうそこに暗闇はない。迷路に迷い込んだりしない。
「気持ちがいい朝だな」
並んで夏の朝の光を正面から受けながら、優しい顔で桂木くんが呟いた。
「そうだね」
ふわり、と風が通って行く。
「この先にもっといい場所があるって言ってたよね。次はそこへ行ってみよう」
「うん」
二人同時に視線を上げた。
見上げるその先に広がるのは、突き抜けるような―。
青色の、空。