13-4
ソフィとリズロウは夜のオークの里を歩いて回り、そしていつしか静かな場所を求め、里から少し離れた森の中に来ていた。月の光を隠すほどに木が生い茂っているわけでもなく、落ち着くにはうってつけの場所だった。
「……この前言っていたこと」
ソフィは近くの横倒しになっている木に座り、靴を脱いで足をブラブラとさせる。リズロウも一緒に木に座った。
「なんだ?」
「この前言っていた“リズロウ様を変えた”って女の子。……私だったんですね」
「……ああ」
リズロウは頷いた。この前の休日の時にソフィに話した、リズロウが魔王を継承する決意のきっかけになった少女。それがソフィであり――アンナだった。
「秘書の面接で初めてお前を見た時、まさかなとは思っていた。……正直お前を雇ったのはアンナに似ていたからってのは本当だ」
リズロウはアンナがグライスに襲われて撃退したあの時を思い出していた。そう、あの時リズロウはソフィにアンナの面影を見ていた。まさかそのアンナだとは思わなかったが。
「……さっき小屋で話した通り、お前がアンナだなんて考えもしなかったんだ。だって、アンナはストーインで平和に暮らしていると思っていたから。そっちでクーデターが起こったことも知っていたが、エリオットを通じてお前の身の安全が確保されていることも知っていた。なのに、なんでこんなところにいるんだって……!」
ソフィは気まずくなって目を反らす、そういえばジュリスが身の安全を確保するために動いていたと言っていたが、エリオット経由でいろんなところに話が行っていたことを今初めて知ったからだった。流石に早とちりで家出をしたとは言い出せなかった。誤魔化すようにソフィは自分の考えを言葉にする。
「今思えば、リズロウ様のお子さんの年齢を聞いたときに察するべきでした。私もあの時の魔人と、ロウズリーさんと、リズロウ様がつながってませんでしたから……」
「そうだな……互いに気づきあうのに相当遠回りしたみたいだ……」
互いに言葉を失い、月が二人を静かに照らす。ソフィはどうしてもリズロウに言わなければならないことがあった。だがそれは先ほどの小屋で抱き合っても言い出すことはできなかった。――いや言う覚悟を決めるのに時間が必要だった。もうその時間は経った。
「…………リズロウ様。先ほど、私は“なんで何も言わずにクラン家を離れたのか”。そう聞きました」
「ああ」
先ほどの小屋でソフィはリズロウに問い詰めたが、リズロウからは言う訳にはいかなかったとしか返事をもらえていなかった。
× × ×
アンナはあの後、ロウズリー一家と穏やかな時を過ごしていた。ハイネも最初は当たりが強かったものの、ある時を境にソフィの面倒をよく見るようになり、妹のリンはソフィと年齢が近いこともあったため、よく遊んでいた。トモエもソフィを実の娘のように可愛がっており、リズロウもソフィに鍛冶を教えたりと、家族の一員としてソフィは溶け込めていた。
今までソフィは家族の愛情というものを感じたことはなかった。国王である父は全くソフィを気に掛けることはなく、暗殺までしようとした。母はソフィよりも王位を受け継ぐ可能性のある二人の兄ばかりを気にかけ、母としての愛情を全く注がなかった。
そして姫という立場は彼女から普通の友達を奪った。彼女が歪まなかったのは若くして姫の教育係――という貧乏くじを引かされていたジュリスと、婚約者であるケーンがいたから、そして彼女が幼くしてそういった事情を把握できるくらいに聡明だったからだった。
そのような幼少時代を過ごしてきたアンナに、ロウズリー一家との時間は何物にも代えがたい暖かいものだった。だがその時間も半年後に終わりを迎えることになる。
× × ×
「あのあと、ジュリスが執念で私を見つけ出して、私が死んだという“誤報”が解かれ、ストーインに帰ることになりました。エリオット兄さんもまさかジュリスが見つけるとは思ってなくて、もう少しリズロウ様に預けておくつもりだったとは言ってましたが」
「そうだな……正直に話すと、お前が帰れるのが遅れた理由は、俺が無理に返さなくていいと、エリオットに言っていたからだ。……俺が、アンナと過ごす日々が楽しいものになりすぎたんだ」
リズロウは10年前のアンナと過ごしていた時期を思い出していた。リズロウ側はロウズリーとして接し、当時の魔王の息子であるリズロウの身分を隠していたが、それでもソフィの振る舞いに感心することが多かった。
何より、ソフィは自分の運命を悲観していないことに何よりも衝撃を受けていた。両親からのまともな愛情も受けず、姫という立場で得たものが多いわけではないのに、彼女はストーイン王家たる人物として、若干8歳ながら立派な振る舞いをしていた。魔王の息子という重圧から逃げ出したリズロウにとって、それは何よりも眩しいものだった。
「お前を見ていて、俺も自分の運命から逃げ出しちゃダメだと思うようになっていった。だけど、それは逃げ出した先であるクラン家から、離れなければならないことを意味していた」
リズロウは後悔するように、絞り出しながら声を出す。そのリズロウの様子の変化に、ソフィは言おうとしたことが、リズロウもとっくに承知であることを知った。
「……そしてあなたは私がクラン家を出て2か月後に姿を消した。魔王の息子である“リズロウ”であったことを隠しながら。……トモエさんがすでに病気であったことを知らずに」
リズロウは書置きと、エリオットからもらった家族が暮らしていけるくらいの金を置いて、家族に何も言わずに出て行った。だがリズロウは気づいていなかった。トモエが夫を心配させまいと病気であることを隠していたことに。トモエはリズロウが魔王の息子であることは知らずとも、何か途方もない宿命を背負っていたことに勘づいていた。そしてアンナとの出会いで、彼がその宿命に立ちむかう決意をしたことも。そして自分が病気であることを知れば、夫の決意が揺らいでしまう事も。
そしてリズロウが家を出て半年後、トモエは病気が悪化して亡くなってしまう。だがリズロウがそれを知ることができたのは、トモエが亡くなってから3年が経ってからだった。
「俺は……あいつの死に目に立ちやってやれなかった。それだけじゃない、墓にだって一度も見舞ってやれたこともない。もうハイネやリンとも会うことなんてできない。そして……もうそれを受け入れてしまえている自分がたまらなく嫌になるんだ」
クラン家を出て10年。その間ロウズリーとしての痕跡を残すわけにはいかないため、一切の連絡もしていなかった。アスクランとストーインの緊張状態が緩和されるまで、エリオットとの連絡も取りあうことができず、今はもうハイネたちがどこで何をしているかもわからない。だがもう新しい伴侶を娶る気は一切無かった。多少の踏み込んだ関係を持った者は何人かいたがそれくらいであり、魔王として血筋を残すようにとは言われていたが、もうその気はなかった。
ソフィもそれを知っている。最初アスクランに来た時はリズロウが結婚していないことに疑問を持っていたが、今はもうリズロウの中にはトモエやハイネ達が居続けているのだろうとわかっていた。――彼女もまた、そういう判断が“できてしまう”性質の思考回路だった。そしてそれがたまらなく嫌であった。
「リズロウ様……」
俯くリズロウにソフィはそっと手を肩に置いた。
「……リズロウ様は、今後私をどう呼びますか?」
ソフィの質問にリズロウは顔を上げる。
「……難しい質問だな。そうだな……どう、呼べばいいんだろうな」
ソフィは儚げに微笑むと、無理をして明るめな口調で言う。
「私はもう“アンナ”でも“アンソフィア”でもありません。……私は”ソフィ”。ソフィ・ガーランド。ロウズリーさんではない、リズロウ・アスクラン魔王の懐刀であり……い魔人の国で唯一の人間の女秘書です」
ソフィのその言葉にリズロウ顔面の表情が崩れる。ソフィが何を言いたいかそれが理解できたからだった。――いくらがなっても、もうあの時は戻らない。それはあの時が一番大切な思い出であったソフィも同じだと。だからこそ、今自分たちがすべきことは“今の自分たち”ができることをやろうという事だと。
「……わかった。じゃあ今まで通り、お前はソフィだ」
「ええ、承知いたしました。リズロウ様」
ソフィの返事を聞くと、リズロウは自分の肩に乗せられたソフィの腕をつかみ、力強くソフィを自分の胸に抱き寄せた。ソフィは恥ずかしがって離れようとするが、リズロウは全く離さないように力を込めていた。
「……ただ今だけはこうさせてくれ」
ソフィの体温を確かめるように抱くリズロウに、ソフィは自分もリズロウの胸に頭を預けた。そして普段の彼女からは考えられないほどの艶っぽい声でリズロウに囁く。
「これは……アンナとしてですか?それとも……ソフィとしてですか?」
ソフィの問の意味にリズロウは少し考え、そして答えた。
「……ごめんな。今は……”両方”って答えさせてくれ」
「そう……ですか」
質問の意味は自分を“娘”として見ているか“女”として見ているか。リズロウはそれに答えることができなかった。それはソフィをそういう対象として見れないから、という訳ではない。むしろリズロウの心の中で“ソフィ”が大きくなっているからこそ、“アンナ”と答えることができなかったのだから。
× × ×
そして近くの草陰でその様子を見ている二つの影があった。片方の影はもう諦めはついていた。自分も過去に同様の告白をして、“家族”としてしか見られないと言われたからだ。
だがもう一つの影は違った。そしてこの時彼の心の中に確かに炎が灯った。それは闇の炎。“彼女”を手に入れるためにどんな事も手を染めてやるという覚悟が伴ったと共に――その身を炎で焦がし続けることになる運命を背負うことになった。
ソフィ様がストーインの姫様なら、僕が――いや俺が“魔王”になればいいんだろ?