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トシンは額から血を流しながら、ソフィについてきたことを――いや、ソフィの面接が終わるのを待っていたことを後悔していた。自身の脇に助けた使用人である鳥人型の女性を庇いながら、目の前で暴れている狼型の男と対峙していた。
「だ……大丈夫ですか……?」
トシンに庇われた女性は、トシンに声を掛けられ声も出せずにコクコクと頷く。
「なんなんだいったい……!」
目の前の男が突然暴れだした理由をトシンは理解できない風な言い方をしたが、心の底ではその理由が半ば理解できていた。――おそらくあの人は鼻が“きく”。同じく鼻がいいタイプである自分だからわかることだ。となると、普段ではありえない“臭い”がここにあるのが原因だ。そして、その臭いはその気も知らずに近づいてきていた。
「ソフィさん来ちゃだめだ!」
トシンの叫びも空しく、状況を見に来たリズロウとソフィに暴れている男が襲い掛かる。“人間”の臭いを嗅いで理性を失っているのか、目の前に魔王がいるにも関わらず、その男はソフィを殺そうと爪と牙を立てて向かっていった。
「やめないか!」
リズロウは男の動きを止めるために真正面に立ち、両手を掴んで互いに向かい合う。
「何が起こっているのですか……!?」
突如襲われる形になったソフィはリズロウに尋ねた。リズロウは男の腕を捻り上げ、壁に向けてその身体を投げつける。男は壁に叩きつけられるものの、まるでダメージが無いかのように立ち上がった。
「この男の名前はグライス。アスクラン近衛隊の一員でな。普段は仲間思いで粗暴な面がありながらも、不用意に暴力を振るう男ではないのだが……! 人間の臭いを嗅いだせいで、理性を失ったのか……!?」
リズロウは剣を抜こうとするが、ソフィはそれを慌てて止めた。
「な……なにをしようとしているのですか!?」
「何って……グライスはアスクランでも随一の戦闘能力の持ち主だ! 私も手加減をして抑え込めるほど、奴は甘い存在ではない!」
だがソフィはそれでもリズロウの剣を抑えた。
「なおさらダメですって! もし私を守るためにリズロウ様がその人望の厚い配下を切り捨てたりしたら、私がもうここいる事ができなくなるだけでなく、リズロウ様の信頼も失くします! “同胞より会ったばかりの人間を優先する日和見の魔王”と!」
「ならどうすると言うのだ!」
「それは簡単です」
ソフィはリズロウよりも前に出て、グライスに対峙する。
「私と、トシンで何とかします」
いきなり名前を呼ばれたトシンは驚愕の表情を浮かべてソフィを見る。
「僕ぅ!?」
驚くトシンを無視して、ソフィはあえて周りに聞こえるように大声で言う。
「それにけが人を一人も出さずに! そしてグライス殿にも重傷を負わせずに取り押さえます!」
「ちょ……ちょっと待ってください! 僕まだ何にも……!」
挙動不審に陥るトシンだが、ソフィはそんなトシンを引っ張り上げると、その尻を思いっきり叩いた。
「君は兵隊さんなんでしょう!? こういう時に給料分働くのが仕事なんだから、きっかりやる!」
「僕今日非番なんですって~! それに相手がグライス様ってそんなの無理……!」
泣き言をいうトシンをよそ目に、グライスは再度ソフィへ向かっていく。ソフィは怖気ずに立ち向かうが、一切反応できておらず、誰がどう見ても素人同然であった。そして先ほどソフィと城まで走っていたトシンは尚更ソフィの貧弱さを知っていた。
「あ~~! もう!」
トシンはグライスの横から体当たりをかまし、ソフィしか見ていなかったグライスは横からの衝撃にバランスを崩す。――だがそれだけであった。
「やばっ……!」
グライスの殺意を秘めた目を向けられ、トシンは身体が硬直してしまう。まだ軍人になって1週間も経っていない自分が立ち向かったところで、1秒も持つことはできない。だが、今はもう逃げるわけにはいかない。なぜなら自分は“兵士”だからだ。
「ソフィ“様”!」
トシンは無意識でソフィの事を様付けで呼んでいた。まだ魔王様の秘書になると決まった訳ではないのに、なぜかトシンはそう呼ぶのが最も自然体だと無意識下で思ってしまっていた。だが今はそんなことに思いを巡らせている余裕は今のトシンにはなかった。
「トシン! もう少し耐えて!」
ソフィはグライスの後ろを周るように駆けていこうとする。しかしグライスは目の前のトシンに集中し、なぜか本命のソフィのことを見ることはなかった。
「やばい……! やばい……!」
トシンはグライスの爪を立てた攻撃に対し、致命傷を防ぐのが精一杯であり、全身が傷だらけになっていた。そしてとうとう力尽き膝から崩れ落ち、グライスの牙がトシンに迫ろうとしていた。
「くそっ……僕じゃあやっぱり無理だ……」
トシンはダメージで目が霞みながら目の前のグライスを見る。自分なんかでは絶対に届かない英雄であり、軍に入る際に顔は見たことはあれど声なんてかけてもらったこともなかった。そして今、手も足も出ずに殺されようとしていた。――あれ?
「なんか……おかしくないか……」
トシンは霞んだ頭でとある疑問が脳裏に浮かんでいた。だが、それを考える前に一つの叫び声がトシンの意識を呼び覚ました。
「リズロウ様! ダメです!」
ソフィは大声でリズロウの名前を呼ぶ。リズロウの名前を聞いたグライスは身体を硬直させ、先ほどリズロウがいた方向を見た。しかしリズロウはいつの間にか姿を消しており、その方向には誰もいなかった。
「“ミスディレクション”。……トシン、さっきやったことの復習よ」
グライスは後ろから聞こえた声の方向を向こうとすると、その瞬間ソフィはスプレーのような物を取り出しており、何かを吹きかける。そしてその何かがグライスの鼻に当たった瞬間、グライスは咆哮を上げた。
「ぐああああっっっ!!!???」
咆哮を上げながら苦しみ悶えるが、すぐに体勢を立て直しソフィに襲い掛かろうとする。しかしソフィは一切動じず、指を突き出してグライスに向ける。
「さっすが英雄さん。こんな護身用スプレーぐらいじゃ効かないか。……でもね、私”たち”の勝ち」
「……驚いた。本当にグライスの明確な隙を作り出すとはな」
グライスは背後から聞こえた声にゾッとするが、すでに反応は間に合わなかった。突如背後から現れたリズロウはグライスの両肩を掴むと、思いっきり地面に叩きつけるように投げつける。受け身を取れなかったグライスはそのまま動けなくなり、リズロウはトドメとしてグライスの襟をつかむと、思いっきり首を絞め、気を失わせた――。
× × ×
「な……なんでグライス様は僕を襲い続けたんですか……」
トシンは駆けつけた癒療師から回復魔法を受けながら、自分の側にいたソフィに質問する。グライスが気絶した後にようやく取り押さえるための応援部隊が来ており、そのままグライスを連れて行ってしまっていた。リズロウも部下に事情を説明するために連行についていっていたので、この場にはソフィとトシンと、トシンが助けた鳥人型の女性と、癒療師の4人だけになっていた。
「あ~……説明してもいいんだけどさ。……一つ約束してくれる?」
トシンの質問にソフィはバツが悪そうに言う。その態度にトシンは何か嫌な予感がした。
「なんです?」
「……聞いても怒らないでね?」
「……場合によります」
トシンの言葉にソフィは観念したかのように、トシンの後ろポケットからあるものを取り出した。それを見てトシンは絶句する。
「な…なんですかそれ……!?」
薄いピンクのブラジャーがトシンの後ろポケットから出てきていた。
「……私の下着」
「……はい?」
「まぁ~……なにがあったかというとね。私の臭いがべっとりついたものを君が持っていたおかげでね。君を人間と誤認するように~なんてハハハ……」
トシンはグライスと対峙するまえにソフィが自分の尻をひっぱたいた事を思い出していた。そういえばあの時、リズロウがソフィに、グライスが人の臭いで理性を失っていると説明もしていたことを思い出す。
「で、リズロウ様にこっそり姿を隠してもらって、合図をしたら飛び出してくれって伝えてあって~……まぁ君をがっつり囮に使わせてもらったわけなんだけど……怒る?」
リズロウの姿を隠させたのは、グライスからリズロウがいない印象を与え、かつ隙を作ってあのスプレーみたいなものをグライスに吹きかけるため。残った臭いから想像するに唐辛子とウイスキーを高濃度で混ぜた目潰しなのだろう。ソフィが旅の中の自衛のためにそれを持っているのはまあ不自然ではない。そしてその合図を機にアスクラン最強の魔王であるリズロウがグライスを重傷を負わせない程度に制圧する流れに持っていく。
――ようやくトシンはソフィが仕掛けた策略をすべて理解し、冷や汗を流していた。どこからこの罠が仕掛けられていた?ソフィがトシンの尻を引っぱたいた時から?いや違う。わざわざ大声でリズロウの動きを制止したところからだ。あれで、リズロウには手出しをさせないという印象を無意識に与えたのだ。“ミスディレクション”を駆使して。
「……マジすか」
トシンがふと呟いた言葉に、ソフィは満面の笑みを浮かべる。
「おっ。まさか答え合わせが済んだの? 随分優秀ね。まだあまり説明してないのに」
「あ、いや」
トシンは合点がいってない返答をし、ソフィは疑問符を浮かべる。
「あれ?そういう意味の“マジ”じゃないの?」
「いや……まぁそれもあるんですけど……」
「なに?」
トシンはソフィの胸を指さした。
「僕に仕込んだ下着って、今脱いだブラなんですね。……ということは今ノーブ……」
トシンが言い終わる前にソフィは顔を真っ赤にしてトシンの脳天を殴りつけた。
「そういう事は今言わんでいいの!」
トシンは涙目になりながら頭を抑えて俯きながら言った。
「す……すみません……」
だが俯いたことによりトシンの目の前にソフィのブラジャーが迫る。そしてトシンはどうしても本能が抑えられなくなってしまった。
「クンクン……」
「臭いを嗅ぐなぁ!!!」
ブラジャーの臭いを嗅ぎだしたトシンをソフィは思いっきり蹴っ飛ばすのであった――。
× × ×
「なにをしているんだあの者達は……」
その様子をリズロウは遠くから眺めていた。事情説明が思ったより早く終わり戻ろうとしていたのだが、ソフィの説明が遠くから聞こえていたこともあり、一度身を隠していたのだった。
「あの人間はどうするのですか?」
リズロウの横で、エルフの女性であるミスティが声をかける。リズロウの腹心の部下の一人であり、諜報活動などを担当している。当然アスクランに住む魔人の一人として、ソフィへの警戒心は持っていた。
「今回グライスが分かりやすく暴走しましたが、“人間”がこの国にいる以上、このようなことは今後も起こりうるでしょう。やはりあの人間を魔王様に就かせるにはリスクが大きすぎるのでは……」
ミスティの意見に、リズロウは顎を擦り考える。そしてしばらく考えたのち、ため息を大きく吐いてミスティに答えた。
「……いや、あいつを雇う」
「ですが……!」
「……あいつの家訓曰く“悩むくらいならまずやってみる。どうせ後でなんとかすればいいし”とのことだ」
「……はい?」
突然のリズロウの言葉にミスティは解答不能に陥り困惑する。
「グライスを抑えた手腕は見事だった。……まさか主従関係を結ぼうとしている魔王である私まで利用するとはな。絶対に手放せない人材ではある。……それにだ」
「それに?」
「……いや、なんでもない。とにもかくにも彼女は代えがたい存在だ。それがたとえどんなに“ヤバい”存在であろうともな」
――リズロウは言わなかったが、少し心に思うことがあった。だがそれは今言うべきことではないとも理解していた。
こうしてソフィはこの魔人の国アスクランにおける唯一の人間として、魔王の秘書を務めることになる。だがこの時のリズロウはまだ知らなかった。ソフィがどれだけ”ヤバい”かということを――。