第1話 腹式呼吸がわからない
「歌うときは腹式呼吸だよ! お腹から声を出すんだよ!」
大学に入って合唱サークルに入った僕は、先輩のこの言葉に、まず困惑した。
お腹から声を出すとは、どういう意味だろうか。
声というものは、口から出るのではないだろうか。
巨大変身ヒーローの特撮番組に出てくる怪獣ではあるまいし、僕の口はお腹にはついていないのだが……。
そもそも腹式呼吸という言葉からして、よくわからない。
まあ『腹式』と言うくらいだから、やはりお腹が重要なのだろう。
横隔膜を動かしてどうのこうの、という話も聞いたが、そもそも横隔膜というものは、意図的に動かせるものなのだろうか。
令和の現在では、例えばウィキペディアにも書かれているように、「横隔膜は随意筋である」と定義されているらしい。
定義上の概念だけでなく、最近の僕は、しゃっくりが出た時にそれを実感している。「しゃっくりは横隔膜の痙攣だから」という理屈で、横隔膜を意識的に押さえつけることにより、しゃっくりを止めているのだ。それこそ、合唱活動をやっていた頃に学んだ『腹式呼吸』の賜物だろう。
しかし、この物語は、平成の初期の話だ。当時の僕は「横隔膜は不随意筋」と思い込んでおり、腹式呼吸という言葉も、お腹から声を出すという概念も、理解し難いものでしかなかった。