処世術
スカートのリボンはおへその上にある。私はそこに意識を集中した。なるべく何も考えず、黙りこくっていたかった。
「どうぞ」
目の前に、サラダが盛られた皿が突き出された。目線を上げると、男の子は微笑んでいた。
「ありがとうございます」
両手で受け取り、私は恥ずかしくてたまらなくなる。ママの視線が痛い。私の振る舞いの一つ一つをチェックしている。
大好きなイタリアン、少し高級な店だけどテンションは下がる。
「よく気がつくのね」
ママが男に少し顔を寄せて、満足そうに言った。
「父が頼りないからです」
男の子はそう言って、隣の男を見る。男はうつむき加減で笑い、そうだな、同意する。
三人は笑う。私は笑わない。
ママの横顔を見る。いつもよりチークとアイラインが濃くて、目はうっとりと男と、隣にいる息子を時々眺めている。
本当にママが男に恋していることは知っている。だから会いたくなかった。ママの恋人とその息子に会う食事会、気持ち悪い。
私は水ばかり飲んで、サラダをじっくりと食べた。
「本当に驚いたんです。父がこんなきれいな人を連れてくるなんて。とても僕と同じ年の娘さんがいるとは思えませんよ」
男の子は饒舌にママを喜ばせる。
私はあなたと同じ年とは思えませんよ、と心の中で呟く。彼は姿は少年なのに、話しぶりは大人のようだ。積極的にママに話しかけ、話題を盛り上げた。淀みない会話の流を、私はうつむいて聞いていた。
両親が小学生の時に離婚している。それから母子、父と息子の二人きり。それなりの苦労はあったが親子の仲は良い。
彼と私は似た境遇とわかった。
目鼻立ちは悪くないし、滑舌がよくさわやかな声は好印象だ。
強引に連れてこられた食事会でこわばっていた筋肉がほどけていくのを感じた。
私は顔を上げて、ママの恋人の息子を見た。目が合った。
「僕たち、兄妹になるかもね」
彼はそう言って笑った。
「同じ年なのに」
私もそう言って笑う。
彼は高校生活や部活のことを尋ねてきた。部活に入っていない彼は、吹奏楽部の活動について熱心に聞いてくれた。ママの恋人も感じよく、話かけてくれた。
食事会は円満に終わった。
ママの恋人とその息子に見送られて車に乗り、私はほっと息をついた。
「いい人たちじゃない」
「そうでしょう」
ママは上機嫌で言った。
ママと彼氏が別れたと知らされたのは、それから三ヶ月後のことだ。食事会は一回きりで、また四人で会うことはなかった。
なぜ別れたのかママは言わなかったし、私も尋ねなかった。
吹奏楽部の演奏会があり、立ち寄った駅前のコンビニで彼を見た。
ママの恋人の息子は、コンビニでアルバイトをしていた。
真夏の、太陽が沈まないままの夕方のことだった。
手にしたスポーツドリンクをぎゅっと握りしめた。友達に先に行っててと伝え、私は店内をしばらく歩いた。あの、緊張を和らげる滑舌の良いさわやかな声だ。懐かしさを感じた。食事会の出来事がずっと昔のように思えた。
並んでいる人がいなくなって、すかさず私はレジへ向かった。
「このドーナッツ、一つください」
私はまっすぐに彼を見て言った。
彼は私を冷たい目で、しばらく
見ていた。
食事会の時と、まったく違う顔をしていた。よく似た人かと名札を確認する。間違いなかった。
無言で彼はドーナッツを陳列棚かから取り、スポーツドリンクをレジに通した。
「あ、あの。覚えてませんか・・・?」
「二百五十六円です」
彼は私の質問を無視した。
私を見る目は凍てついていた。
深い黒の中に、感情が沈殿しているような瞳だ。
命を失っているのに、目を開けたままのようだ。
私は素早く小銭をだして、商品とお釣りを受け取った。
彼は次の客を対応した。彼はにこやかに接客した、その微笑みは食事会の時に浮かべられているのと同じだった。
声をかけるべきではなかった。
目の前に現れてはいけなかった。
素知らぬふりをするべきだった。
早足でコンビニから出ると、涙が出てきた。そんな甘ったれた自分が嫌になる。
彼が食事会で見せた態度は、好意からくるものでなかった。
あの場を穏便に終わらせるための、処世術だったのだ。
痛ましい如才の裏に、凍てついた瞳があった。
終