第十六話 【心の狭間】
「...いない」
今日は、特に何もない平日。
当然のように仕事はある。
でも、朝起きると彼がいない、隼人がいない。
私が起きれば、必ず食卓には朝ごはんがある。
それが、私のここ数年の日常。
だったはずなのに、今は何もない。
食卓には何もなく、ましてやキッチンには誰もいない。
いつも起きると、私の仕事に対するモチベーションを上げてくれる笑顔がない。
少し表情の変化には乏しいかもしれないけれども、
私にとっては、その表情を見るだけで、
(この人の為に頑張ろう)
(いっぱい頑張って褒めてもらおう)
流石に後者の方はしてもらったことは片手に収まる程だった。
でも、彼の為に、と思えば、私のモチベーションは飛躍する。
でも、ない、何もない。
隼人の声も、隼人の匂いも、隼人の笑顔も。
あぁ、本当に最悪な気分。
こんな気分が後何日続くんだろう。
こんなものが出張中はずっと続くのだろうか?
私はそれに耐えられるのだろうか?
たった一日いないだけでも、こんなにも動揺しているのに、
一週間、一か月、考えたくはないが一年間。
こんなにも長い時間、隼人と会えなかったら、私はどうなるんだろう。
寒い、胸の奥がいつものようにポカポカしない。
頭が動かない、動いてくれない。
もし、もしかしたら、
彼が今泊っている先の人間が女性で、
不純な関係...いわゆるに浮気をしているのならば、
私はどうなるんだろう?
怒り狂って、その怒りのままに、また彼に暴力を振るってしまうのだろうか?
それとも、動く気力も湧かないぐらいに絶望するのだろうか?
そもそも、今は浮気しなくとも、
私が出張中の間はどうなるんだろうか?
彼が浮気をする可能性は限りなく低い、
いや、低くないと嫌なんだ。
彼の笑顔も、彼の優しさも、彼の体も、
全部私だけのものにしたい。
私だけが見れる、感じれる。
私だけの特権、私にしか味わえない。
それに、【あいつ】が私がいない隙を狙って、日本に来るかもしれない。
そうなってしまったら、本格的に浮気の可能性が跳ね上がる。
あいつは、隼人の数少ない友人の一人。
...いや、友人ではなく、親友、なのかもしれない。
その、親友というのも、私が恋人になったからであって、
私が恋人ではなかったとしたら、あいつは確実に恋人になっていただろう。
それだけ、あいつは隼人の心に残っている。
「絶対に、そんなことはさせない...」
浮気なんてさせない、させるはずがない。
そうじゃなきゃ、私はきっと壊れるから。
----
「なぁ母さん、もしも、私が人の男を取るようなマネをしたら、どう思う?」
椅子の上で、足をプランプランと揺らしながら、
自然と、まるで他人事のように言う。
「別に、なんとも思わないけど」
それに対し、それが普通のことであるかのようなことを言う。
かつて経験したことがあるように。
「えぇ!?人から愛する人を取るんだよ!?
それなのに、なんとも思わないって...」
母親が、そんな風なことを言うとは思っていなかったのか、
目を見開いて驚く。
「流石に、脅迫とか無理やり、とかなら普通に犯罪だけど、合意の上で取るんだったらいいんじゃないの?あ、もちろん合意っていうのは、取る人と、取られる人ね?取られる人の、夫か妻の合意はいらないわよ?」
そんな言葉を聞いて、こけしのように固まる。
「...なんでそんなに詳しいの?母さん?」
「そんなもん決まってるじゃない...」
そう言って、耳の近くで、
「私も取っちゃったの、そして、その間に生まれたのが、あなたよ」
それは、今まで自分のことを見守っていてくれた、
優しい母親の声ではなく、小悪魔のような声だった。
「...わ、私はそんなことにはならない、そう信じてるから」
信じてる、私はあいつのことを信じている。
誰の物にもならず、誰も物にならない約束。
私は、その約束を守り続けている。
というか、あいつ以外の男とは全然会っていない。
多分、母さんがそこらへんを配慮してくれてるんだろうな~、
とは察しがついている。
私のことを全て見抜いて、
全然プライバシーもないから、癪に障るが、
全てはあいつの為。
かつて表面だけ強くて、中身が弱々しかった私ですら、
あいつとの約束を守っているんだ。
だったら、私のことを助けてくれたあいつなら、
約束を守ることぐらい息をするようにできるだろう。
「ほ~ん、お熱いことにはいいけれども、
取るんだったら、それなりの覚悟はしておいた方がいいわよ~」
手をヒラヒラと振り、何か嫌なことを思い出したかのように、
顔を少ししかめる。
「って!?ちょっと待って!なんで私が取ること前提なの!?
今は私が取られる側の人間なの!!今の取る側は仁香のはずなんだ!!」
と、言い終わった瞬間に、しまったと、後悔する。
何故ならば、目の前にはデリカシーの欠片もない母親がいるからである。
「ウフフ...あらま、【今は】ってことは、あなたも経験者なのかしら?あらま~嫌だわ~まさか娘が私と同じようなことをしてるなんて~」
「そんな感情の籠ってもいない棒読みに惑わされるもんか!!だいたい!あんなことをしないといけない状況になったのは母さんのせいでもあるんだからな!!」
それに対して、わざとらしく驚いた表情をして、
「あらら!!あんなことって何かしら~!お母さんってば気になるわ~!私ってば色恋沙汰には興味が絶えないのよね~、まぁ、だいたい全部知ってるけど」
「全部!?なんで!?」
これに関しては本当に知らないという表情をする。
何故ならば、私は誰にも見られないように行動してきたはずだからだ。
「私の会社を舐めないでちょうだい、
自分の娘の状況を全て知ることは当然よ、あなたが学生時代の頃に、
しょっちゅう彼の家に行ったこととか、
自分の住んでいるマンションに連れ込んで襲ったこととかもね。
あ、でも、今の彼の状況とかは調べてないから油断は禁物よ?」
「え?そうなの?...って!今さりげなくかなりまずいこと言ってたよね!?本当に私にプライバシーないじゃん!そもそも私の状況を知るのは当然ってどういうことなのさ!!」
「ッフ!それはね~、友人関係や、検索履歴、動画の履歴や好きなジャンルのものまで全てよ、もちろん、あなたが定期的に情熱的な声で彼の名を呼びながら...」
「やめろ!!!それ以上は言わないで!!!恥ずかしくて死んじゃうから!!」
「やめるはずないじゃない」
「このクソババア!!!」
---
「ん?何か寒気がしたような...」
周りを見るが、寒気の原因はありそうにない。
今日は、いつもどうりのお客さんの数で、
仁香も来ることがないから、至って平和だった。
平和と言っても、その平和を乱す原因の人は、
普通の従業員専用部屋で寝ている。
だから、今は静かなんだよなぁ...
斎条先輩が起きてしまえば、
この雰囲気が一転し、今の落ち着いた雰囲気から、
急にライブ会場のようなものに様変わりする。
本当にあの人には驚かされることばかりだ。
というか、紀伊野さんは今朝からジロジロと見てくる。
僕が話しかけようとしてもすぐ逃げてしまう。
う~ん、何か変なことしたっけ?
まぁ、今は特に仕事には影響がないから、このままでいっか。
「ねぇねぇ隼人君、君紀伊野ちゃんに何か変なことしちゃったの?」
僕が放置しようと思った瞬間に、
何か面白い物を見つけた子供のように、
無邪気で、純粋な笑顔をしている斎条先輩がいた。
「...僕が仕事を終えるまで寝てもらえませんか」
「うわ!ひっど~い!これでも私は先輩なんだぞ~」
とてつもなくあざとい表情で残念がる斎条先輩。
しまいには、シクシク、なんてわざとらしく効果音までつけて噓泣きをしている。
「ちなみに、斎条先輩が思っているようなことはしていないと思いますよ」
この人だったら、僕が紀伊野さんに詰め寄ったとか、
僕がセクハラしたとか思っているんだろう。
生憎僕は仁香以外の人には欲情はしない。
「えぇ~、じゃあなんであんな風になってるんだろうねぇ~」
「どうなんでしょうね、少なくとも僕は何もしていませんよ」
----
私は今、生まれてきてから一番と言っていい程悩んでいる。
それは、昨日来た女性のお客さんのことだ。
確か二人組のお客さんだったけど、
その片方の、とても大人っぽい色気の女性のことで悩んでいる。
その女性と、隼人さんの関係について聞こうか迷っている。
でも、
「あの人と隼人さんはどんな関係なんですか?」
って聞いたら、普通に告白になってしまうから、
もっと自然と聞けばいいのだろうか...
(にしても綺麗だったなぁ...)
顔も雰囲気も、全てにおいてザ・大人の女性って感じだった。
女の私ですら、ちょっとうっとりしてしまった。
そして、その女性を隼人さんが見た瞬間に、
ちょうど入り口のところから見えないところに隠れたのを、
私はこの目で見てしまった。
隼人さんは、表情の変化が乏しい。
いつもどんなことをしたって変化がない。
それなのに、あの女性を見た瞬間には、
いつもの無表情とは真逆で、
猫に怯えるネズミのような表情をしていた。
その女性と、隼人さんとの関係で、考えられる候補は三つ。
一つ目は、隼人さんの母親。
この考えは、自分の母親に内緒で働いていて、
ここで自分が働いていることがバレたくなくて焦っていたということ。
でも、この考えは、あの女性が隼人さんの母親と思える程歳をとっていなさそうだったので、三つの中では一番なさそうな考えである。
二つ目は、学生時代の頃の友達。
これに至っては、私の経験から来ている。
私がここで働き始めて数か月ぐらいの時に、
高校の時の同級生が来て、反射的に隠れてしまったことがあったからだ。
私には友達と言えるような人はいない。
だからこそ気まずかった。
ただですら過去のことで色々と馬鹿にされてムカついてきたのに、
次は私の仕事場のこととかも馬鹿にされるなんてことはあってはならない、
そう思って隠れたことがあった。
だからこそ、隼人さんもそうなのかと思った。
そして、三つ目が、最も有力な考えかつ、
一番そうは思いたくはない考え。
それが、隼人さんの恋人、もしくは妻。
隼人さんは見た目どうりの人で、
とてつもなく優しくて、気遣いのできる人。
そして、そのような関係ならば、
サプライズプレゼントを買う為に隠れてアルバイトをしている、
なんてことは当然あるだろう。
そして、どれだけ感情の変化に乏しい人でも、
自分と親しい人ならば、感情の変化が激しくなると思う。
...指輪をつけていないから独身なのかと思ったけれども、
普通に結婚しているのかなぁ...
私の恋はいつもいつも叶わない。
初恋はいつのまにか相手が私の前からいなくなってしまったし、
その恋のことを引きずって、たまに初恋のあの人のことを思い出しては絶望して、その頃の恋なんてできるはずもなかったし、その恋を断ち切り、新しい恋を始めようと思った矢先に、既婚者に恋する。
本当に私の恋は最悪なことしか起こっていない。
「あの、大丈夫ですか?手止まってますよ」
「あ!?ッハイ」
いかないいかない、今は食器洗いの最中なのに、
こんな他のことを考えちゃ食器を落としちゃう...
って!?近い、隼人さん!近いです!
隼人さんは、あと数センチでも動けば肩が当たってしまうような距離にいる。
しかも、横を見ると凛々しい顔が...まずいまずい!見られていることがバレちゃったら恥ずかしくて死ねる...
胸の鼓動が激しい、ドクンドクンと、いつもよりも早くなっている。
呼吸も荒くなってきて、手元が狂ってしまいそう。
「?...本当に大丈夫ですか?呼吸も荒いし、顔も赤いですよ?」
そう言って、私の顔を覗き込んでじっくりと見ていく隼人さん。
...あぁ、ダメだ、この人の前にいるといつもの自分ではなくなってしまう。
それこそ、私が初恋の人と一緒に遊んでいた時のように。
----
「んっと~!ふぅわぁ~疲れたぁぁ...」
椅子にもたれかかり、おっさんのような口調で呟く斎条先輩。
上を向き、欠伸をする。
「斎条先輩、今日ほぼほぼ寝ていましたよね?
これは店長に全て報告していますので、お覚悟を...フフフ」
その瞬間、脱力しきっていた顔が、
一気に強張った。
「なに!?それは反則じゃないの!?」
机を、バン!と叩く斎条先輩。
「アホですかあなたは、いくら気楽にできる仕事とはいえ、
仕事は仕事です、最低限のルールを守らずしてお金をもらうなど言語道断、
今後は寝ているところを見つけしだい、フライパンを叩いて音を出したり、
アナログ時計を十個使って起こすなどの対策が練られますのでご注意を。」
「ねぇ対策方法がアナログすぎない!?
てか普通に困るんだけど!!えっと~、
あ!あれだよ!あれ!超分解からの超復活!」
「破壊から超回復でしょうが、この下から三番目馬鹿女」
「ひっど!ねぇ隼人きゅん!私の後輩が後輩らしかならぬことしたしないの!ねぇねぇ隼人きゅんはどう思う?」
「え?...いや、別に...」
「はいそこ~!接触しすぎですしほぼほぼ答えを強要しているじゃないですか!」
「違うもんね~隼人きゅ~ん」
「それ以上近づくなって言ってるでしょうが!!!」
----
「はぁ...やっと帰ってくれましたね...」
全身から力を抜き、額に手を当てる。
....本当にあの人と話していると疲れる。
まぁ、嫌ではないんだけども。
「そうですね、あ、これあげますよ」
そう言って、私に缶ジュースを渡す隼人さん。
「あ、ありがとうございます...」
あぁ...こんな人がきっとモテるんだろうなぁ~。
隼人さんと同じ学校だったらそんな可能性もあったのかもしれないなぁ...
「ん?僕の顔に何かついてますか?」
キョトンとした顔をする隼人さん。
「い、いえ!何もありません...よ?」
いいえ、ついていますよ、私を落とした魔性の笑みが。
「そうですか...ちなみに、今日ずっと僕のことを見ていたような気がしたんですけど、僕に何か用でもあるんですか?」
ば、バレてたんだ...恥ずかしい!
きっと今の私の顔はトマトみたいに真っ赤になっている。
だって体中が熱いもん。
「...その、ずっと聞きたかったことがあるんですけど」
恥ずかしいけれども、これは昨日の女性についえ聞けるチャンス。
これを逃してしまえば次はいつか分からない。
だからこそ、今ここで聞くしかない!
「昨日、二人組の女性客が来た時、隠れましたよね?
あの、どちらかの女性とは一体どんな関係なんですか?」
ほぼ、隼人さんと関係している女性はあの大人っぽい女性であることは間違いないが、念の為にもう片方の女性のことも含めてみる。
...言っちゃったよ、恋人でもなくて友達でもない、ただの同じ仕事をしている関係なのに、こんな
こと聞いちゃったよ...あぁ、もう空を自由に飛ぶ鳥になりたい。
「う~ん、そうですね、チャラい口調の方の人は知りませんが、
キリっとした凛々しい顔で、身長が高い女性は、僕の妻ですね」
「...そうですか」
やっぱりそうだたんだ、あの人が隼人さんの奥さんなんだ。
はぁ...既婚者だったんだ、隼人さんって。
でも、まだ諦めた訳じゃない。
ここで諦めてしまえば、私の示しがつかない。
何年間も抱き続けてきた初恋を断ち切ったんだ。
いけるところまで攻めていけばいい。
最初は頼れる仕事仲間、ぐらいの認識になるように頑張ろう!
そして、最後には...って、危ない危ない、そこまでしてしまったら人間として最低なことだ...今考えてしまったことは胸にしまっておこう。
出張まで、
残り十二日。
ブクマ、ポイントお願いします!
...まずい、本格的にこれはやばくなってきました...それは一話につき一日しか経っていたいため、このままだと二章がとんでもなく長くなってしまうんですよね(笑)...次は一話で二日経つぐらいにしようと思います。
あ、ちょくちょく出てくるプライバシーのない女性ですが、その女性は黒雪麗華という人物ですね。さらっと【キャラ紹介】頭が混乱した方へ。に増やしているので、目を通してみてください。
それでは、また次の話で(^▽^)/