≪ヘスペリス≫への挑戦状
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事態に大きな動きがあったのは、あのパーティーから二週間経った頃のことだった。
怪盗シュヴァルツ=カッツェとしての活動用に扱っているスーパーコンピューター内のアカウントに、メッセージが届いたのだ。
【ヘスペリスへ オークション会場で待つ】
英語でそれだけ書かれた本文と、説明代わりに添付されていたのは、ゴールディン社が主催する闇オークションへの電子招待状。
放課後の六つの鐘に呼ばれて地下室を訪れたラヴェンダーが目にしたのは、ディスプレイに表示されたそれらの情報だった。
「実を言うと、黒猫に関わる業務を担当するスーパーコンピューターは、そのためだけに組まれた専用のコンピューターなんだ。セキュリティも専用のものを組んでる。外部への指示はいくつものサーバーを経由しているから、大本のアドレスを辿るのはまず不可能――のはずなんだけどね」
端末を操作して情報を操作しながら、フェリスがお手上げだ、というように肩をすくめて言う。
「そのメールを特定してきただけでなく、ここのディスプレイと端末ハックして、この画面強制表示で固定してきてる。完全に特定されてるな」
「え、ちょっと待って。これフェリスが操作してるんじゃないの?」
驚いてラヴェンダーが問うと、フェリスは暗い表情で首を横に振った。
端末が起動したアラートを受けて、一足先にここにやってきたフェリスが見たときには、端末も、壁のディスプレイも起動し、この画面を表示していたのだという。そして今まさに閉じようとしているが、全くそれに関しての操作は受け付けないのだとも。
「それってコンピューター本体への影響は?」
「今、接続する回線を全部落としてパッチを当てて確認してる。でも――最悪コンピューター本体を破棄して、プログラムも位置から組み直しだろうね」
「―――っ」
ただのコンピューターではない。スーパーコンピュータなのだ。被害額は想像もしたくないし、新しいシステムを組み直すのに一体どれだけの時間がかかるのかと思うと、目が回りそうだった。
「……とりあえずコンピューターへの心配は、一旦おいておくとして、このメール本文はどういう意味があるわけ?」
考えても仕方がないというか、なるべく考えたくないことだったので、ラヴェンダーは意識を、メッセージの内容に向ける。
差出人の署名はない。そしてラヴェンダーには『Hesperis』という単語に、全く心当たりがない。医療や科学技術分野の単語などの専門分野の単語ならもちろん知らない単語は多くあるが、この用例を見るに人の名前のように見える。
「それについては、今エリーが図書館に資料を取りに行ってる」
フェリスのその言葉に、ラヴェンダーは目を大きく見開いた。
元々表情筋の活躍タイミングが乏しいフェリスは、一見焦っているように見えないが、どうやら相当テンパっているらしい。
小さい頃から一緒に育った幼馴染みなので、子供の頃は敬語もなく愛称で呼び合っていた、とは聞いているが、ラヴェンダーが参加した頃にはすでに将来使える主君としてきっちりと線引きをしていた。だから、ラヴェンダーの前でエリーゼを愛称で呼ぶのは初めてのことだ。
本人、それを口走った自覚もないらしい。これは――相当なテンパりようなようだった。
「遅くなって申し訳ありませんわ。二人とも」
程なくして、エリーゼが≪金曜のお茶会≫部屋に姿を現す。
いつも招集はエリーゼで、ラヴェンダー達が行くとエリーゼはお茶もケーキも完璧にセッティングして待っているので、こうしてラヴェンダーの方がエリーゼを迎える、というのは初めてのことだった。
こんな緊急事態だが、そのもの珍しさに思わず感心してしまう。
「――≪ヘスペリス≫は、ギリシャ神話の女神の名前ですわね」
挨拶もそこそこに、エリーゼは切り出した。
今日はお茶をゆっくり用意してる時間がないので、ほとんど使ったことのないエスプレッソマシーンで作ったコーヒーと、既製品のクッキー片手の会議である。
「といっても、大概は『Hesperides』と複数形で用いられることが多いですわ」
言いながら、エリーゼは図書館で借りてきたという、ギリシャ神話に関する本を開き、それに関する項目を示してみせる。
確かにその図鑑のようなギリシャ神話の本には『Heriperides』という項目があった。
(オカルト分野詳しそう、とは思ってたけど、知られてない単数形からギリシャ神話ってあっててくるって、この人の知識の範囲どうなってるんだろう)
それに、ラヴェンダーは思わず身震いしてしまった。
「そんなに有名な女神達ではないので系譜に関しては諸説あるのですが、よく言われるのは夜の女神≪ニュクス≫の娘達だという説。ただどの説でも共通しているのは、彼女らは”黄昏の女神たち”であることと、≪ヘスペリデスの園≫に暮らし、女神ヘラの”黄金のリンゴ”の世話をしている、ということですわね」
そう言ってエリーゼが指し示した指の先には、木の根元に複数の乙女達が佇む古い絵画の複写が差し込まれていた。この乙女達が≪ヘスペリデス≫なのだろう。
「”黄昏の女神達”……」
エリーゼの言葉を反芻して、ラヴェンダーは右目を押さえた。
あの男の去り際の台詞が蘇る。
『紫の瞳の女を捜すことにしよう』
黄金色のイメージが強い黄昏は、進んで夜と混じる時、深い紫になる。
あの男はラヴェンダーの瞳の色を夕暮れで表し、ラヴェンダー自身を≪ヘスペリス≫と呼びかけているのだ。
「やって、くれるわ……!」
「心当たりあるのか? ラヴィ?」
「ええ……差出人は十中八九、私たちから≪守護者のマリア≫を奪っていった、あの男でしょうね」
拳をきゅっと握りしめ、ラヴェンダーは報告の際にははしょって告げていなかった男の最後の発言と、自分の仮説を述べる。
「そう……そんなことが……」
それを聞いてエリーゼは額を手で覆い、天井を仰いだ。
「それならば、ほぼ特定されたと考えていいでしょうね……フェリス、念のため学院関係でラヴィの写真が掲載されているページは全部削除するように指示をお願いしますわ。あと、同じ瞳の色の生徒たちの分も」
「わかった」
言って、フェリスは立ち上げてあった緊急時用の端末から、どこかに指示用のメールを打ち始める。
それを待ちながらラヴェンダーは苦々しい思い出コーヒーを一口、口にした。
いくらヨーロッパ中から良家の娘達が通い、学費と別に寄付が集まるとは言え、アーデルハイド修道学院も宣伝やPR活動をしないわけに行かない。
校外交流やコンテストなどで優秀な成績を収めた生徒がいればプレスリリースは発行するし、父兄への定期連絡便にも画像付きでのせることも多々ある。
そういう点では、この≪金曜のお茶会≫のメンバーは生徒会の中枢だ。他校との交流や校内のイベントでは代表として活動する立場であり、写真での露出は間違いなく他の生徒より多い。
あの男が怪盗シュヴァルツ=カッツェとアーデルハイド修道学院の関係まで特定しているかまでは定かではないが、まだつながりを特定していなかったときのことを考えて、消しておく方がいいに越したことはない。
ただ、ここまでの手際の良さを考えると、黒猫と学院のつながりは特定されてるのは覚悟した方がいいだろう。
それでも幸いなのは、紫の瞳の学生は青や緑のそれに比べたらかなり珍しい色彩だとは言っても、ラヴェンダーの他にいないわけではない。この処理によってラヴェンダー本人への特定が少しでも遅れることを祈るばかりである。
もしもラヴェンダーが怪盗シュヴァルツ=カッツェであると世間に公表されたら、間違いなく彼女の人生は詰むだろう。いくら世界有数の資産家の一つであるというヴェルフ家でもかばえまい。
「……ただ今のところ、怪盗シュヴァルツ=カッツェについて、新しい情報を得た、っていう類いの書き込みは、インターネットにはないみたいだけど」
ラヴェンダーの懸念をくみ取ってか、メールを打ち終わったフェリスは、”シュヴァルツ=カッツェ”でエゴサーチをかけ、その結果を流し見ながら言う。
いつものディスプレイが、挑戦状とも言えるメッセージ本文に占領されてしまっているので、どんな内容を確認しているのかはラヴェンダーからは見ることができなかったが。
「いずれにせよ。油断はできませんわね。おばあさまと相談しなければなりませんけれど、この(・・)挑戦状に対して、行かないわけにはいきませんから」
エリーゼはエリーゼで、アーデルハイドのスケジュールを確認しつつ、秘書に面会の依頼を送っているようだった。
そういった根回しや情報収集は、二人に任せるしかない――ただ。
「私は、行きたいと思っています。行って……あのこぎれいな面をぶん殴ってらやないと気が済まないんで」
ぎゅっと拳を握り、頬を引きつらせながらもにっこりと笑ったラヴェンダーに、エリーゼとフェリスは顔を見合わせ、そして小さく笑うのだった。
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