二人の特別な人
2
『いやだいやだいやだ!』
大きな声で叫んで、少女は地団駄を踏む。
『ここを出て行くなんて絶対嫌だ! あたしはここにいる! ずっといる!』
そう言って、目の前にいる、少年と青年の中間くらいの、そのくせ大人顔負けに鍛えられた太い腕にしがみつく。
『絶対、離れてなんてらやないんだからぁ』
もう、わがままなんて言う年齢じゃないの、と普段はませたことを言えるだけの歳になってきていたはずの少女の全力の癇癪に、腕の主は困ったように頭をかく。
『つったってよー、こう言うの、俺らが決められることじゃねーじゃんか』
そう言って、少年が指を突っ込んでいるのは、赤銅色の髪だった。
小さい頃は肩車してもらう度に、その赤銅色の髪にしがみついて、操縦ごっこをしたものだ。
それなのに、少女の身体が大きくなり、少年の身体はそれ以上にもっと大きくなってしまって。
いつのまにか身体の距離だけでなく、心にも距離ができてしまっていたようだった。
『それに、俺はいい話だと思うぜ。ラヴィのほんとの親父さんの家族と暮らせんだろ? 金持ちだって話しだし、お下がりじゃなくてラヴィのための綺麗な服、一杯買ってってもらえると思うぜ』
少年は、少女を慰めようとして言った言葉だったのだろうと思う。
けれど、少年から出た引き留めではない、むしろ別れを推奨するような言葉に、少女はその紫の瞳をめい一杯見開いた。
そしてその目に、みるみるうちに大粒の涙が貯まっていく。
『……っ服なんかなによ! グロウの馬鹿! はげ! 筋肉だるま!』
『おま、俺はまだはげてな……て、おい!ラヴィ!』
思いつく精一杯の罵詈雑言と共に、しがみついていた腕を突き飛ばす――といっても、力の差がありすぎて、少女の方がよろけている始末だったが――と、少女は一目散に駆け出した。
(キライキライキライ! みんな、大っ嫌い!)
溢れる涙そのままに孤児院を飛び出した少女は、孤児院の裏の林に飛び込んだ。
林と言ってもそんな深いものではなく、大人なら10分で抜けられるようなものだったが、まだ十一の少女からすれば大冒険みたいなものである。
たくさんたくさん走って、林の端にある小さな物置小屋に到着すると、中に入って閉じこもった。
この物置小屋は、少女にとっての泣くための場所だった。
誰にも涙は見せたくない、プライドの高さだけはいっちょ前の少女にとって、プライバシーが存在しない孤児院では泣きたくても泣くことができない。
そのため、まだ四歳か五歳の、林の中が本当に大冒険だった頃からこの年になるまで、泣きたい時にはいつも、この場所やってきていた。
大人になりつつある理性は、きっとどうしようもないことなのだと諦め始めている。
でも、子供のままの部分が、ここから離れたくないと泣いている。
その相反する感情をうまく処理できるほど少女は大人ではなかったから、その苛立ちもかみしめて、声を殺して泣いていた。
でも、そう、そうして少女が物置小屋で泣いていると、程なくしてあの人が迎えに来てくれるのだ。
いつもはどこか距離をとったような接し方なのに、こうして泣いているときにだけ、息を切らして駆けつけてくれる。
だから、ほら、今も――
『ラヴィ』
物置小屋の扉が遠慮がちにノックされ、柔らかな声が少女を呼ぶ。
『ラヴィ、いるんだろ?』
声の主が、再度呼びかけてくる。
けれどまだ顔がぐしゃぐしゃなままの少女は、答えられずに唇を噛んだ。
(こんな顔、見せられない)
涙を止めようと必死に目をこするが、こすればこするほど悲しくなって、涙は次から次へと溢れて、止まってくれない。
『……入るぞ』
そうして、少女が涙との格闘を始めて、どのくらいたったろう。
それまでじっと入り口の前で待っていたその人は、溜息交じりにそう言うと、物置小屋に入ってくる。
(ああ、来ちゃう)
いつも迎えに来るのは彼なのだから、どこにいるか探すのもお手の物だ。
まっすぐ少女が隠れてる棚の前まで来ると、しゃがみ込んで目線を合わせてくる。
(こんな顔、見られたくないのに)
『ほら、いた』
なのにその人は、こんな時だけ、柔らかくこちらを見つめてくれるから。
少女も顔を隠すことができないのだ。
少しでも長くその表情を眺めていたいから。
『相変わらず酷い顔だな』
そう言って、その人は少女の頭をぐしゃぐしゃとかき混ぜる。
髪がくしゃくしゃになるからやめて、といいたいのに、出てくるのは嗚咽ばかり。
『ほら、そろそろ出てこい』
そうしてその人が両手を広げてくるから、少女は我慢できなくなるのだ。
その首に抱きついて、レモンみたいなさわやかな匂いがするその人の腕の中で、泣き止むまで泣いてしまうのだ。
本当は、泣き顔なんて可愛くない顔をこの人に見られたくないから、ここに泣きに来ているのに。
(だってあたしは、……、あなたのことが……)
『――それじゃあ、俺は、紫の瞳の女を捜すことにしよう』
突然、その人の口調が変わる。
慌てて身体を離すと、そこにいたのは、あの、男――
『オリバー!』
『そして、次に会うときには、その右目をくりぬいてやろう』
そう言って、男の指が伸びてくる。
捕まえられた身体は動かない。逃げられない。
男の指が、眼前に迫る――――
「きゃああああっっ」
自らが上げたその、けたたましいまでの悲鳴でラヴェンダーは目を覚ました。
カッと目を見開き、身体を起こす。バクバクと脈打つ左胸を押さえ、右手で怖々と左目を覆った。
「見える……夢か……」
呟いて、脱力した。
「最っ低……よりによってあの男があの人に重なるなんて……」
「悲鳴聞こえたけど、どうした?」
呻くようなラヴェンダーの呟きと、フェリスが部屋に駆け込んでくるのとはほぼ同時だった。
リビングにいて、悲鳴を聞きつけて駆けつけてくれたらしい。
「ごめん。ただ、悪夢を見ただけなの。気にしないで」
「そっか……疲れてるんだろ。もう少し寝てた方がいいんじゃないか?」
「今何時?」
「だいたい午後7時くらいかな」
手にしていた端末で時間を確認して、フェリスが言う。
二人が部屋に帰ってきたのが午後4時くらいで、それからシャワーを浴びてラヴェンダーが布団に入ったのが5時頃――と考えると、2時間くらいしか休めていない計算になる。
「んー」
髪をぐしぐしとかき混ぜてしばし考えたが、結局ラヴェンダーはそのまま起きることにした。
「折角起きたから、夕飯食べてから寝ることにするわ」
「じゃあ、食堂から夕食持ってくるよ。あんたが寝てる間に、寮監と食堂のおばちゃんには話し通しておいてあるんだ」
そう言い残し、フェリスは寝室から出て行く。
彼女の遠ざかっていく足音を聞きながら、ラヴェンダーはもう一度深い溜息をついた。
「孤児院時代の夢なんて、もう長いことみてなかったのに」
かき混ぜた髪をそのままぐしゃりとつかみながらぼやく。
ラヴェンダーが孤児院に暮らしたのは生まれたてほやほやの赤ん坊の頃から十一までの十一年間。
孤児院にはたくさん子供がいたし、入れ替わりもそれなりにあった。
でもその十一年間の間に特別だった人が二人、いる。
その内の一人が、夢の最初に出てきた人。グロウ=マルディーニ。
イタリア系移民の彼は、鮮やかなラテン系らしい赤銅色の髪に、同じ色の瞳をしていた。ただはイタリア系にしては珍しく身体を動かす、というか鍛えることがとにかく好きで、特に格闘技が得意だった。背は非常に高く、ラヴェンダーが孤児院を出る頃で、まだ十七歳くらいだったはずだが身長185センチは超えていたはず。
その代わり、といってはなんだが、おつむの方はあまりよくなかった。典型的な脳筋タイプといえる。
グロウがラヴェンダーにとって特別だったのは、ラヴェンダーが≪リヴァティ・ヒル≫にもらわれてきたとき、世話役になったのがグロウだったから。
泣いたときにあやすのも、どこかに出かけるときに手を引くのも、全部グロウの役目だった。
そのせいか、ラヴェンダーにとっては本当の兄みたいな存在で、血縁があるとは言え、出逢って五年経っているがすぐに別れ別れになってほとんど離れて暮らしているヴェルフ家にいる義理の兄より、よっぽど『兄』という単語がしっくりくる相手だった。
ちなみに、グロウが世話役に決まったのは、ラヴェンダーを世話する手が足りないと言うよりも、当時5歳だったグロウがあまりに落ち着きのない子供だったために、これは誰かの世話でもさせて面倒を見ることを覚えさせないと、やばい子になる――という、先生達の判断だったというのを聞いたことがある。
結局ラヴェンダーもばっちり育ての兄の影響を受けて無鉄砲でやんちゃな子供に育ってしまったので、それまでグロウだけを捕まえてれば良かったのが、肩車したまま駆け回るグロウをラヴェンダーごと捕まえなければならなかった先生達にとって、その選択が正解だったのかどうかは謎が残るのだが。
ただ、普段はそんな仲良し兄弟でも、たまには喧嘩するときもある。
あるいは仲が良すぎてテンション振り切れて暴走するとき、留める人間も必要だ。
その役割を果たしていたのが、もう一人の特別な人――
「ジェイ……」
名前を呟き、ラヴェンダーは自分の膝に顔を埋めた。
ラヴェンダーが4歳の時に≪リヴァティ・ヒル≫にやってきた彼は火事で家が焼け、生き残ったのが彼だけだったという、悲惨な過去の持ち主だ。そのため、初めて二人がジェイと会ったのも、病院の病室でのこと。
まだ4歳だったラヴェンダーの印象に強く残り、今になっても思い出せるくらい、暗い暗い目をした少年だった。
そんなジェイ少年ではあったが、またも先生達の、『プラスとマイナスかけわせたらちょうどいんじゃね?』的な安易な戦略のせいで、暴走機関車兄弟と行動を共にさせられてしまい、退院直後から振り回される羽目になった。
最初は壁作りまくりだったジェイ少年は、どれだけ二人が構っても頑として受けれてくれなかった。でも一方で、子供らしい柔軟性もそれなりに残ってはいた。
おかげでラヴェンダーが孤児院を去るくらいの頃には態度も大分柔らかくなったし、ラヴェンダーとグロウが喧嘩してラヴェンダーが飛び出すと、探しに来てくれるまでになったのだ。
特にああして迎えに来てくれるときは、いつもと違ってすごく優しかったし、あまり笑わない彼が、微笑むとまでは行かないもののふわっとした表情を見せてくれたから、本当の妹とまでは行かなくてもそれに近い親愛の情はみせてくれていたのだと思っている。
ただ、違ったのはラヴェンダーの方だ。
グロウは、間違いなく兄だった。
でも、ジェイがそうだったかというと、素直にイエスとは言えない。
可愛い顔しか見せたくない、笑いかけたり、優しくして欲しいと思い、そうしてもらえたら天に昇ってしまうくらいに嬉しくなる――そんな感情に名前をつけるとしたら、一つしかないだろう。
最愛の兄と、初恋の、人と。
そして、たくさんの仲間達と。
あの孤児院には、たくさんの『大切』があった。
それも全て、そう、ラヴェンダーが逃げ込んだあの林や、林の中の物置小屋まで全部、五年前の火事で焼失し、失われてしまったのだ。
(信じられない……信じたく、ない)
ジェイが、グロウが、また会おうと言った二人がすぐに炎に飲まれて、ラヴェンダーにはなにも告げずに、もう二度と逢えないところに行ってしまっただなんて。
それにそれを信じてしまったら、もう二度と立ち上がれなくなってしまいそうで。
(だから、こんな一度や二度の失敗で立ち止まってらんないのよ、ラヴェンダー)
自分に言い聞かせて、唇を噛む。
占いを信じるわけではないが、エリーゼが言うように、この道が本当にラヴェンダーの求める未来に繋がっているというのなら、考えるべきは失敗を悔やむことではなく、いかに取り返すかのその方策のはずだ。
「よし、よし、よし……うん」
そう思ったら、少し身体に力がわいてきた気がした。
ベッドから降りて、ご飯を食べにいけそうだ。
「……それにしても、最悪な夢だったわ」
祖父母の代にヨーロッパの方からアメリカに移住してきたというジェイの色彩は薄く、同じ金髪でも彼は光の加減によっては銀にも見える薄いブロンドで、瞳も淡い、氷翡翠のような色だった。
確かにその瞳色彩は、『オリバー』のそれとにている部分はあった。だが、ラヴェンダーがカラーコンタクトを入れていたように、その色彩だって当てにならない。
雰囲気もしゃべり方も違いすぎたし、それなのになぜ、あんな夢を見たのか。
「……これが二度目の恋といかいう、くっそ笑えない冗談が理由じゃないことだけは確かだわ」
不意に無理矢理奪われた唇の感触を思い出してしまい、こみ上げた不快感と怒りから、ラヴェンダーは手の甲でごしごしと唇をぬぐった。それからぎゅっと、胸元にある物を握りしめる。
「次会ったら、ぶん殴ってやるんだから」
さらに沸いた怒りのおかげで、全身に力がみなぎってくる。
ラヴェンダーは胸元にかけていたシルバーのチェーンを取り出した。
このメダリオンのことを、ラヴェンダーはまだ、誰にも言っていない。
それを言うには、キスのことを話さなければならないような気がして気が引けたからだ。
だが、メダリオンには明確に男からのメッセージが込められている。
いつかそれを、取りに行く、と言う。
それなら今は待ち、来たるべきその時に、このメダリオンごと握りしめた拳で、思いっきりぶん殴ってやればいいだけの話だ。
「ふっふっふ……待っていなさい、『オリバー』!」
幸か不幸か悪夢のおかげで、ラヴェンダー完全復活、である。
閲覧ありがとうございます。
次の更新は11月25日10時の予定です。