失意の帰国とアーデルハイド女大公との対面
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作戦失敗の翌日、ラヴェンダーは『アイリーン』として下船後、シューヴァンシュタイン公国へ帰国した。
もともと、『アイリーン』としての乗船記録がある以上、『アイリーン』として下船しないわけにはいかなかったので、≪守護者のマリア≫奪還後は、持ち込んでいたレプリカを部屋に残して、『アイリーン』用の部屋に戻り、翌日下船する予定となっていた。
そのため、男が開けっ放しでおいていった、≪守護者のマリア≫が納められていただろうアタッシュケースの中にレプリカを納め、煙幕弾の残りと落ちたコンタクトレンズを回収後、ラヴェンダーはその部屋を後にし、『アイリーン用』の部屋に戻ったところまでは予定通りの行動と言えた。
ただ、予定と違ったのは、ラヴェンダーは≪守護者のマリア≫を手にすることはできず、あの憎たらしい男の後始末をさせられただけだった、というところだ。
迎えのヘリにはフェリスが乗っていた。 通信が途切れたこと、一時セキュリティーがコントロール下から外れたことなどから、ラヴェンダーが心配でいても立ってもいられなくなったらしい。
「疲れたわ」
おかえり、と迎えてくれたフェリスに、ただ一言そう返してヘリに乗り込むと、話すことすら億劫だったラヴェンダーはフェリスの肩を借りて、一眠りすることにした。
そうして、失意の中の帰国となったのである。
「おかえりなさい、二人とも」
学院に帰ってすぐ、ラヴェンダーとフェリスは教会の地下室に向かった。そこにはエリーゼが待っていてくれて、暖かい声と共に迎えてくれる。
「ただいま戻りました……≪守護者のマリア≫を奪還できず申し訳――」
「いいのよ」
謝罪の言葉を口にしようとするラヴェンダーを遮ると、エリーゼは堪えられなくなったように表情を崩し、そしてラヴェンダーをぎゅっと抱きしめてくれた。
「……本当に、無事で良かった」
「……」
「フェリスが連絡が取れなくなったと言い出したときには、本当に、どうしようかと……」
「……ご心配おかけしました」
「疲れてるでしょう? まず、お茶にしましょう」
抱きしめてラヴェンダーが無事だと確認できたのか、エリーゼはにっこり微笑むと二人をソファに座るように促して、温かい紅茶を入れてくれる。
テーブルの上にはすでに、サンドイッチやスコーンなどの軽食が用意されていた。
考えてみれば昨晩のパーティーで食べて以降、なにも口にしていなかったことに気づいたラヴェンダーは、ありがたくそれらを頂くことにした。
食事の合間に――すでに経緯はメールで昨晩知らせてはあったが――何があったのかを、ぽつぽつと説明した。
パーティー会場で、スミス製薬の主任研究員だというオリバー=ジョーンズという男との間にトラブルがあり、その後、『アイリーン』として少し会話したこと。オリバーに『アイリーン』が口説かれたこと。うまく切り上げて怪盗の方の仕事に取りかかったら、ターゲットのスウィートルームに先客がいたこと。
そしてその先客が、オリバーだったこと。
「……これは、私の推測なのですが」
キスを奪われたことと、それがファーストキスだったことはあまりに不名誉なので伏せ、一連の出来事を説明した後、ラヴェンダーはそう前置きを置いて続けた。
「『オリバー』として『アイリーン』を口説いたのにも、意図があったように思えました。『足がかりになりそうだったのに』と言ったいたので、あの男はゴールディン社自体にも、入り込んで何らかの情報を得るか、あるいは、害意をなそうとする意図があったのかもしれません」
あの男が『オリバー=ジョーンズ』として本当にスミス製薬に在籍しているのか、それとも『アイリーン=クラーク』のようにその地位を借りただけの別人なのか、はたまた、『オリバー=ジョーンズ』そのものが全くの仮想の人間なのか。
現時点ではラヴェンダーにはわからない。
だがはっきりしているのは、あのロビーでの会話も、次につなげたいという必死に見えた訴えも、男っ気のないアラサー女性に、どうやったら警戒されないか計算に基づいた上での演技でしかなく、懐に入ってしまえば自分の容姿でどうとにもなるという色仕掛けでしかなかったのだ。
(道理で、やたらじっと見つめてくると思ったら、自分の容姿を相手に気づかせるためだったってことね)
一度は飲み込んだはずの『演技で負けた』という思いが再燃してきて、ラヴェンダーは大きく深呼吸をした。
ここで個人の怒りにまかせるほど子供でも無責任でもあれない、という責任感から、なんとかその怒りを静めると、怒りごと飲み込んでやるかのようにぐい、と紅茶をあおった。
「とりあえず、その男のことは『オリバー=ジョーンズ』を足がかりに調べるとして、それとは別にゴールディン社をもう一度洗い直した方がいいかもしれませんね」
ラヴェンダーの言葉に、端末に議事録代わりにラヴェンダーの説明を打ち込んでいたフェリスが言う。
「”こちら側”の足がかりにもなるかもしれません」
フェリスの言葉に、エリーゼが頷く。
ラヴェンダーはそれに、なんの、とは問わない。
これもおそらく『今は秘密』の中の一つだろうから。
「でも、わからないのは、この『オリバー』がスウィートルームで言っていた台詞ですわね。こちらに返してくれる意図があるのなら、何故今盗んでいく必要があったのか……」
ディスプレイに映し出された議事録に視線を当てながら、エリーゼが呟く。
「それと、通信やセキュリティプログラムに不備が出た原因も、この『オリバー』の関係者の仕業とするなら辻褄が合うのですけれど、それをわざわざこちらに戻してきたのも、理解できませんわ……」
「……それは、今考えても仕方がないことだと思います」
昨夜一晩中、嫌と言うほど考えさせられたものの、結局なんの答えを導き出すことのできなかったらラヴェンダーは、溜息と共に言った。
「まず、一つ一つ情報を潰していくしかないと思います。その上で見えてくるものもあるでしょうし」
「そうね……その通りだわ」
ラヴェンダーの言に頷くと、エリーゼは情報収集をフェリスに指示する。
すでに動き始めていたらしく、フェリスからは数日中には報告できると、回答があった。
「……それで、ね、ラヴィも疲れてるでしょうから、本当はもう休ませて上げたいんだけれども……」
それから、疲れからかそれぞれ口も開かずにもくもくと紅茶と軽食を口にしていたが、ふっと壁に掛けられた時計に視線を当てたエリーゼが、やや気まずそうに切り出した。
「失敗の報告を聞いて、おばあさまがね、すごく、心配されてたの。だから、ラヴィと話したいっておっしゃってて……」
言いながら、再度掛け時計に視線を投げる。つられるようにラヴェンダーも視線を傾けると、時刻は午後三時になろうとしていた。
なるほど、女大公との約束の時間は三時から、ということらしい。
「大丈夫です。私からも直接ご報告すべきことですから」
全身から「ごめんなさい」があふれ出ているエリーゼの姿に苦笑しながらラヴェンダーが頷くと、エリーゼはホッと息をつく。
そもそも身分を偽って潜入し、窃盗行為を働くと言うだけでストレスなのに、トラブル続きだった今回の作戦のせいで、明らかにげっそりと疲れてる様子のラヴェンダーに、このことを切り出すのはよほど心苦しかったようだ。
(まあ、その気持ちはわかるわ……正直、お相手するなら明日がいいもの)
思い、ラヴェンダーは溜息を噛み殺す。
現シューヴァンシュタイン大公、アーデルハイド=マリア=フォン=ツー=シューヴァンシュタインは今年で御年93歳になろうというのに、非常にエネルギッシュな女性なのである。
おっとりとしたエリーゼを育てたとは思えない、良く言えばパワフルで、悪く言えば押しが強い。
だからこそエリーゼも断れなかったのだろうが、おそらくこの会談が終わった後にラヴェンダーのHPは1まで削られるに違いない。
そんな、悲観的な予想にくれるなか、時計は無情にも15時を知らせる音楽を奏で、フェリスが操作する端末に、通信画面が立ち上がる。
かくして、女大公と同じ名前の学院の秘密の部屋と、そこから数キロ離れたところにあるシューヴァンシュタイン城の当主執務室の通信は繋がれたのである。
【ごきげんよう。エリーゼ、フェリス、そしてラヴェンダー。こちらの声は通じているかしら?】
そう言って、画面の向こうでにっこりと微笑むのは、可愛らしい印象さえする壮年の女性だった。エリーゼにもその遺伝がうかがえるふわふわの白髪を綺麗に結い上げてスミレの花をかたどったピンで留め、淡いピンク色のアンサンブルを身につけている。
ただ、何が恐ろしいかと言えば、老眼鏡の位置をずらしてこちらを覗き込むその女性は、到底93歳には見えない。肌つやも、ぴんと伸びた姿勢も、ぱっと見て70代くらいにしか見えないのだ。
現役の大公であるという責任感がそうさせているのか、それとも持って生まれた気質なのか――あるいはその両方が原因なのかもしれない。
「ごきげんよう、おばあさま。聞こえておりますわ――こちらの声は聞こえていらっしゃいますか?」
三人を代表して、エリーゼが答えると、アーデルハイド女大公はうんうん、と満足そうに頷いた。
【聞こえていますよ。接続状態はいいみたいですね。フェリスからの報告を聞いて、不安だったのですが……】
そう言いながら、傍らに置いてある、通信に使っているのとはまた別の端末を操作している。
(93歳でネット使いこなすおばあちゃんって、無敵すぎでしょう……)
さすが、シューヴァンシュタイン公国をIT超大国に押し上げた御仁である。
【まず最初に、お疲れ様でした。ラヴェンダーの無事な姿も見られて、わたくしも安心しましたわ】
「ありがとうございます」
ラヴェンダーが席を立ち、軽く淑女の礼をしながら礼を言うと、アーデルハイド女大公はふりふりと手を振って、座るよう促す。
【疲れているのだろうから、座ったままで結構よ。ここは秘密のお茶会の会場で、わたくしたちは秘密を共有する仲間なのだもの。身分差や礼儀の欠落なんかは今はおいておきましょう】
そう言って軽くウィンクすると、アーデルハイド女大公は続けた。
【≪守護者のマリア≫の奪還が失敗に終わったのは残念ですけれども、エリーゼの学院卒業まであと一年はありますからね。わたくしはまだチャンスはあると思っているし、わたくしが生きている限りは継承者を指名するタイミングは引き延ばせますから】
「そうおっしゃるなら、お体をご自愛くださいませ、アーデルハイド様」
【言う通りね、フェリス。そう思って今朝のジョギングはいつもより二キロも長く走ってしまったわ】
そう言ってころころと笑うアーデルハイドに、ラヴェンダー達は思わず目を見合わせた。
言葉には出せないが、それぞれの目が『93歳でジョギングに軽く二キロ追加できるって、どんな体力よ!?』と告げている。
というか、いつも何キロ走っているのだろうか。
とても怖くて聞く気にはなれないが。
【ただ、気になるのはその、≪守護者のマリア≫をあなたたちよりも先に奪っていった男の正体ね。話を聞いていると、あなたたちの計画を把握していて、そのプラットフォームをうまく利用してかっさらっていったようにも思えるの。もちろん怪盗シュヴァルツ=カッツェが予告状を出している以上、≪守護者のマリア≫を盗もうとしている人物がいると言うことは世間に知れ渡っているのだけれど】
「私たちの正体を把握しているかもしれない、ということでしょうか?」
【そこまでは、今の段階では判断がつかないわね。でも、少なくともセキュリティシステムについては乗っ取って利用することを最初から考えていたんじゃないかと思うわ。そうでなければ、我が国の天才プログラマー達が組んだセキュリティープログラムをそんなに簡単に乗っ取れないと思うもの】
ラヴェンダーの問いに首を横に振りつつも、難しい顔をしてアーデルハイドは続ける。
【こちらのハッキングをするのは無理でも、あの飛空挺の中に巻かれたプログラムを認知してさえいれば、こちらのコネクションを切って、書き換えること自体は不可能ではない……それが、専門家達からの回答よ】
もちろん、不可能ではないけれども、非常に難しいことではある、という注釈付きだったけれども。
そう付け加える女大公の言葉に、フェリスがうーん、と唸った。
「そうすると、その男の側には、こちらを上回るプログラマー、あるいはハッカーがいる、ということですね。ゴールディン社側に気づかれないよう、私たちが巧妙に隠して走らせていたプログラムの存在に気づき、書き換えのコードを用意した上で、乗っ取れるだけの……」
【そういうことになるわね】
アーデルハイドの溜息交じりの答えに、画面のこちら側にいる三人も、はあ、と溜息が重なってしまった。
「……ちなみに、もう一つ懸念点があるのですが、よろしいでしょうか?」
プログラミングやハッキングに関しては門外漢のラヴェンダーには、専門的なことはわからない。
その代わり、怪盗シュヴァルツ=カッツェの実行責任者としての意見を述べる。
【どうぞ、ラヴェンダー】
「ありがとうございます。私が気になっているのは、サンキューレターの方です」
【サンキューレター?】
「今回、≪守護者のマリア≫を盗んだのは我々ではありません。ですから私はあの場にサンキューレターをおいてきていません」
「ああ、そう言えばそう言ってたね」
ラヴェンダーの説明に、フェリスが頷く。
そもそもサンキューレターとは、怪盗シュヴァルツ=カッツェがものを盗み終えた後に、現場においていくカードのことである。
これが今回残されていなかったため、新聞には『怪盗シュヴァルツ=カッツェ、初の失敗か?』の見出しが躍っている。
ただ、正直なことを言うと、大事なのはこの紙のカードの方ではないのだ。
メールで届く予告状とサンキューレター――実はこちらの方が重要で、この二通のメッセージがハッキングの糸口と、残してきたプログラムの自爆コードのスイッチとなっている。
紙の方はあくまでブラフ。あるいは、紙できた予告状につられて、メールの受信者がつい、メール本文を開けてしまいたくなるよう仕向けるための心理的な罠なのだ。
ちなみにそのブラフの方の紙に黒猫を書こうと言い出し、また、それにちなんで怪盗シュヴァルツ=カッツェ、なんていう名前を名乗ろうと言い出したのも、どちらも女大公なのだが。
という恐ろしいおばあちゃんの話は置いておいて。
問題なのは、今回サンキューレターをメールでも紙でも出せないことだ。
プログラムの回収をどうやって行うのか――そのラヴェンダーの問いに答えたのは、IT担当のフェリスだった。
「盗むのを失敗した時点で、プログラムに時限爆弾を仕込んでおいた。大体下船時間のちょっと前くらいかな……だから、今頃もうプログラムもハッキングの痕跡も見つけるのは不可能だよ」
「そう……」
【それより、問題なのは怪盗シュヴァルツ=カッツェのブランドが毀損されたことね】
「ブランド、ですか……」
いまいちぴんとこず、首をかしげるラヴェンダーに、アーデルハイド女大公があらあら、まだまだねえ、と笑って説明してくれる。
【世間の人たちが怪盗シュヴァルツ=カッツェに対して好意的なのは、あくどい商売をしている権力者達から鮮やかに盗み出していく愉快犯であるから。これはいい?】
「はい」
【民衆はシュヴァルツ=カッツェの起こす事件に爽快感を覚えていて、だからこそ、今現時点では、多少の正体を推測する動きはあっても、本気で捕まえろ、という風にはならなってはいません。でももし、それが逆に向いたとしたら?】
「逆に……怪盗シュヴァルツ=カッツェを悪だとして憎むと言うことですか?」
【そう。そうして世界中のハッカーというハッカーが怪盗憎しで逆探知を駆けてきたら、さすがの我が国のコンピューターでも追及をかわしきれない。あるいは、ラヴェンダーが実行者として外に出ているとき、見つかって捕まるリスクも高まるかもしれない――そういう意味で、このブランドは貶めてはいけないものなの】
「なるほど……そこは思い至りませんでした」
アーデルハイドの説明に、ラヴェンダーは心のそこからの感嘆の呟きを漏らした。まさに目から鱗、である。つまり、ただの悪のりだと思っていたカードの図柄や名前も、ある種のブランディングだったと言うことだろう。
【それについてどうするかは、わたくしの方で考えてみます……とりあえず、難しい話はここまでにしましょう】
そう言って、アーデルハイドは再び、おちゃめにウィンクをしてみせる。
【元々の目的はラヴェンダーが無事かどうか確認することだったんだもの。あまり話し込んで休む時間を削ったら申し訳ないわ。今日はこのくらいにして、また今後のことについて考えていきましょう】
「「「はい」」」
努めて明るい声で言うアーデルハイドに、三人で声をそろえて頷く。
それに、いい返事ね、ところころと笑うと、切り上げの挨拶もそこそこに、アーデルハイド女大公は通信を切った。
なにも表示しなくなった壁のディスプレイを確認すると、その瞬間、どっとした疲れがラヴェンダーを襲った。
気さくに接してくれているとは言え相手は大公閣下。国家元首である。自分で思うよりずっと緊張していたらしい。
「……そろそろラヴィが限界みたいですね。私たちも引き上げてもよろしいでしょうか?」
ぐったりとソファーの背もたれに身体を投げ出したらラヴェンダーを気遣い、フェリスが言う。
そんなフェリスに、エリーゼはすこし困ったように微笑みながら言った。
「わたくしからすると、限界そうなのはフェリスも同じに見えますわ。学院の方には元々二人とも休みで届けてあるのだし、今日はゆっくりお休みなさい」
エリーゼのその、心からの気遣いの言葉を、ラヴェンダーとフェリスはありがたく頂戴して、その日は部屋に引き上げたのだった。
閲覧ありがとうございます。
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