謎の男とその置き土産
R15の表現があります。苦手な方はお気をつけください。
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「……これは、傑作だ」
ラヴェンダーの投げ込んだ煙幕はほとんどその役を果たさなくなり、その残りが薄く絨毯の上を這うだけになった頃、男がぽつりと呟いた。
「まさかこんなところで再会するとは……思ったよりずいぶん早かったものだな」
クツクツと喉を鳴らす男に、ラヴェンダーは喉を震わせた。
声のトーン、話し方、眼差しに浮かぶ色――全てが違う。あの、『アイリーン』と話した『オリバー』とは。
落ち着きがあり、自信に満ちた声。暗く、影が差しているが、その分妖艶さも帯びている眼差し。
おそらく、この男にとってこちらの方が本来の姿なのだ。つまり――
(私が、『演技』で見抜けなかった――――!)
喉の奥から激しい熱が沸き上がってくる。
純然たる怒りだった。
自分のふがいなさへの。
「折角いい足がかりになりそうだったのに。まさかアイリーンまで偽物だったとは……残念だ」
そう言いながら、男はラヴェンダーをひねり上げる腕に力を込める。
(メイクを換えてるのに、私の正体までばれている——?)
疑問が脳裏に渦巻く。ラヴェンダーのメイクの腕は、本当に誰にも見抜けないくらいにハイレベルなのに、この男は明確に『アイリーン』と『カトリーン』が同じ人物だと確信している。
全身に、震えが走った。この男の瞳には一体何が映っているというのか。
「それで?」
思わずその瞳におびえを滲ませてしまったラヴェンダーに、男は泰然とした笑みを返して問うてくる。
「お前は、誰だ?」
「……答える義務は、ないわね」
「そんなつれないことを言うなよ。こんな運命的な出会いはなかなかないぜ?」
そう言ってさらに喉を鳴らす男に、ラヴェンダーは苛立ちを隠さず睨み付けながら答えた。
「この出会いが運命的だというのなら、私にそのマリア像を譲っていただけないかしら?」
その一方で、内心は必死で自分を鼓舞していた。
(笑え。笑うのよ、ラヴェンダー!)
そうでなければ、捕まってしまいそうだった。
全く叶わない圧倒的な力で押さえ込まれていることへの、本能的な恐怖に。
(そんなふがいない自分なんて、もっと許せないもの!)
その試みは、果たして成功したようだった。
「——そうしたら、私にとってこの出会いは、決して忘れ得ないものになることでしょう」
言いながら艶然と、決して恐怖などおくびも出さずに、ラヴェンダーは微笑んでみせる。
そうして、男の、闇の中で銀にも見える色素の薄い眼差しを見上げてやった。
「私たちの思い出に、それはとってもいい記念にもなるでしょうから」
ラヴェンダーの反応に男は大きく目を見開くと、声を上げて笑い出した。
「ああ、この期に及んで微笑むのか、お前は。しかもマリア像を渡さなければ忘れてやると、脅して見せてくる」
まいったなあ、と呟いて、男は続けた。
「困ったことに、非常に魅力的な駆け引きじゃないか」
「そう思うなら、この手をほどいて、私にそのマリア像を返してくださらないかしら?」
「返せ、ねえ」
面白そうに男は呟くが、力が緩められる気配はない。
「ちょっとその願いを聞くことは難しいんだよなあ……ああ、じゃあ、こうしよう」
そう告げて唇をつり上げると、男はぐっとラヴェンダーの身体を引き寄せた。
「なっ」
驚きに目を見開く彼女の唇は、その抗議の言葉を紡ぎきることもなく、ふさがれる。
男自身の唇によって。
(――――!!!!)
突然の出来事に、瞬間、頭は真っ白になる。
けれど次いで、激しい怒りが彼女の脳裏を支配した。
ままならない状況での圧倒的な屈辱感とそれを与えた相手への憎悪。
自由になる方の手を男の胸の下に差しこんで相手を突き放そうとするが、びくともしなかった。ぱっと見ただけではわからなかったが、その服の下は相当に鍛え上げられているようだった。
突き放そうとするラヴェンダーと、距離を保とうとする男との攻防はどれだけ続いたか。
不意に身体にかかる負荷が軽くなるのを感じ、ラヴェンダーが大きく右手を振ると、男の身体はひらりと後ろに離れた。
「――に、すんのよ!」
怒りの声を上げたラヴェンダーに、男は唇に人差し指を当ててみせる。
声を抑えろというそのジェスチャーに、思わず口元を覆ったが、すぐに怒りがこみ上げてきた。
(誰のせいだと思ってんのよ!)
けれど、ラヴェンダーも隠密に動かなければならない身だ。それ以上大声での抗議などできない。
「……今はマリア像を渡すことはできないが、時期が来たら返すことは約束する。”これ”はその先払いだな」
あくまで抑えた声のままいい、指先で自分の唇を指してみせる男をラヴェンダーは睨み付ける。
自分のキスにそれだけの価値がある、と言いたいのかこの男は。
確かに顔はいいのだろうが、どれだけ傲慢なんだとののしりたくなる。
「名残惜しいが、お別れだ」
男が言うと同時に、部屋に大きな影が差す。
(鳥?)
思い、壁の代わりにはめ込まれたガラスの方を見る。
大きな鳥のように思えたそれは、グライダーだった。
「あ!」
気づき、視線を男に戻したときにはもう遅い。男はガラス戸からバルコニーに出ている。
「待ちなさい!」
慌てて追うが、男はバルコニーの淵に足をかけてその無人グライダーを捕まえ、悠然と振り返ると言った。
「その右目、それがお前の本当の目の色か?」
「は?」
問われ、ラヴェンダーは思わず右目を押さえる。
さっきの乱闘で、カラーコンタクトが落ちたのかもしれなかった。
けれど、カラーコンタクトは視界の色を変えるわけではないので、鏡を見ないことにはラヴェンダー自身に男の言葉の真偽の程はわからない。それに、これ以上ひとかけらでも情報をやってたまるか、という思いはあった。
そのためラヴェンダーが名にも答えず口をつぐんでいると、男は再びくっと喉を鳴らした。
「……それじゃあ、俺は、紫の瞳の女を捜すことにしよう」
ラヴェンダーをあざ笑うようにそう言うと、男は宙に身を躍らせた。
「またな。黄昏色の瞳の怪盗さん」
そんな捨て台詞と共に、グライダーにぶら下がった男は飛空挺から離れていく。
「くっ」
それを追うようにバルコニーに駆け寄ったラヴェンダーは悔しさに顔をしかめた。
拳銃を持ってこなかったことが悔やまれる。こうなってはもう、ラヴェンダーにできることはなかった。
「ああ、悔しい!」
毒づいて、乱れた髪を書き上げようとして、ラヴェンダーはその手を止めた。
ねじり上げられていた方の手に、いつのまにか銀色のチェーンが絡まっていた。手を目線まで持ち上げると、そのチェーンには銀色の円盤——メダリオンがついている。
『”これ”はその先払いだな』
男の、先ほどの台詞が蘇る。中央に赤い石がはめ込まれ、それを囲むように幾重にも回転しながら重ねられた正方形の幾何学模様が刻まれたそのメダリオンが、≪守護者のマリア≫の対価になるほどのものだというのだろうか。
「……分からないことが、多すぎるわ」
ラヴェンダーは巻き付いたチェーンごと、ぐしゃり、と髪をかき混ぜた。
あの男は誰なのか。狙いはなんなのか。このメダリオンは何の意味を持つのか——考えるにはあまりに不確定要素が多すぎる。
ただ、純然たる事実が一つだけある。
【——聞こえるか!? ラヴェンダー!】
程なくして、耳をつんざくような声量のフェリスの必死な呼び声と共に、通信が復帰した。
【無事か!? ラヴィ!?】
「——無事よ」
あまりの大音量にキーンとする耳を手で押さえながらその通信に答えたラヴェンダーは、苦さの滲んだ声でその事実を口にした。
「だけど、≪守護者のマリア≫奪還任務、失敗したわ」
去来する激しい自責と自己嫌悪、そして虚無感と共に、ラヴェンダーは失敗の報告をせざるを得なかったのだった。
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次回更新は11月18日で10:00です。