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暇をもてあましたお嬢様は怪盗家業に勤しむ  作者: 冴月アキラ
第一章:守護者のマリア奪還作戦
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ラブロマンス至上主義者の苦悩

 2


「オリバー=ジョーンズと申します」


 ラヴェンダーの背後で倒れていた青年は、ロビーでそう名乗った。

 散らばったガラスに手をついてしまったため、救護室で手当てした帰りのことである。


 幸い小さな切り傷がいくつかできた程度で済んだようだが、ヘタしたらグラスの破片で腱を切っていてもおかしくない怪我である。

 救護室の医師からきつめの注意を受けたのもあり、かなりしょんぼりして、肩を落としながら青年は続ける。


「この度は本当にご迷惑をおかけしました。星空があまりに綺麗だったので、見とれて前を見ていなかったもので……」

「……いえ、私自身には怪我もございませんでしたし……そんなにお気になさらないでください」


 内心は、何してくれとんじゃー、と怒り心頭だったが、その怒りは綺麗に隠し、けれど、どこかぎこちない笑みを浮かべて、『アイリーン』は答える。


「私も、景色に見とれていて気づかなかったのも悪いですから……」


 その場に立ったまま全く動いていなかった『アイリーン』は、車の事故なら0対10で過失なしなのだが、32歳の大人としての回答を返しておく。


 もっとも、その怪盗を告げる声量と覇気のないトーンは、全くビジネスの場にそぐわないものではあったが。


「でも、ドレスに赤ワインがかかってしまいましたし……」


 けれどさらにそう言い募るオリバーに、『アイリーン』はドレスを見る。


 お堅い『アイリーン』の性格を反映したそのドレスは、マーメードラインですっきりとしているが丈はくるぶしまであり、袖も10分袖、襟ぐりも首元までびっちりとレースが詰まっているタイプのものだ。

 パーティードレスと言うよりまるで家庭教師のようなお堅さだが、今回はそのお堅さが災いした。

 

 『アイリーン』にぶつかった衝撃でオリバーが取り落としたワインの中身は、床にこぼした分以外はべっしゃりと『アイリーン』のドレスに吸い込まれてしまったのだが、お堅い性格を反映して黒に近いネイビーだったのが幸いし、ほとんど目立たない。

 濡れている今は赤ワインのシミは目立っているが、乾けば多少ましになるだろう。


「これは、そんなに高いものではないので……オリバーさんが気に病む必要はありません」

「ですが……」


 さらに、言いつのろうとして、突然オリバーは、ああ! と声を上げる。


「僕としたことが、ビジネスカードも出していませんでした!」


 そう言うと、スーツの懐から金属製の名刺入れを取り出す。


「スミス製薬の第三研究室主任研究員の、オリバー=ジョーンズです。もしドレスのクリーニング費用や弁償費用が必要な場合にはこちらのアドレスに……て、どうされました?」


 会社のロゴ入りの名刺を差し出す、オリバーに、『アイリーン』――正確にはラヴェンダーはフリーズした。

 明らかに目を見開き、驚いたリアクションをせざる得なかったラヴェンダーに、オリバーが不思議そうに首をかしげてくる。

 

(製薬会社の主任研究員なんて……『アイリーン』が食いつかないわけないじゃないの!)


 その反面、内心盛大に舌打ちをしたくなったラヴェンダーである。


 こういう場での理想的な対処法は、名刺だけもらっておいて、その場を離れることである。

 こちらの連絡先を残しておかなければ、相手から連絡が来ることはない。


 『アイリーン』に一言報告は必要になるかもしれないが、それでも、相手もこれから数え切れないくらいの人数と挨拶する羽目になり、もちろん会社に帰ってからは挨拶文を送らなければならない。そんな追加業務と通常業務忙しさに紛れたら、大概はこんな些細なアクシデントは忘れ去られてしまうものである。たいした問題にはならない。


 ただし、それは営業などの全く『アイリーン』と関係ない職種か、別分野の研究員に限る。

 

 研究一筋の『アイリーン』が、同業他社の研究員と名刺交換する機会があったら、間違いなく食いついて、人嫌いも何のその、会話をしに行くに決まっている。しに行かなければ不自然なのである。


 だがそれは、極力目立ちたくないという、表と裏両方の仕事に共通する大前提を持つラヴェンダーからしてみれば、全力で避けなければならない事態である。


 名刺を渡し、会話をつなげるか否か――ここまで、頭脳フル回転で計算すること0.5秒。


 結論は、是、だ。


「……すいません、あまりの偶然に驚いてしまいまして……スミス製薬の、研究員の方なんですね」

 

 オリバーが不審がらない程度の間を挟んで答えると、ああ、と小さく呻いて、パーティーバッグをあさる。そして、自分も黒い革製の名刺入れを取り出した。


「ゴールディン社製薬事業部、第一研究室でマネージャーを務めているアイリーン=クラークです。弁償の件は必要ございませんが、もしよろしければお互いの研究分野に関して、少々お話のお時間をいただけたら幸いです」


 専門分野では恐ろしく饒舌な『アイリーン=クラーク』らしく、一気にまくし立てると、ゴールディン社の頭文字であるGがデザインされた名刺を差し出す。

 すると、オリバーは一度きょとん、とした顔をした後、満面の笑顔になった。


「ご丁寧にありがとうございます!  まさか、ゴールディン社のクラーク氏と名刺交換の栄誉をいただけるなんて、僕はなんて幸運なんでしょう! クラーク死のご高名はかねがねお伺いしていて、いつかお会いしてみたいと思っていたんです!」


 そう言って、オリバーはぐっと両手を握りしめて力説すると、ビジネスカードを差し出した『アイリーン』の両手を覆うように握りしめた。


「ちょっ」

「ぜひ! ぜひお話しさせてください!」


 言いながら、握った『アイリーン』の両手ごと、ぶんぶんと両手を振る。『アイリーン』の手の中で、強度のないビジネスカードがぐしゃぐしゃになっていくが、オリバーは気づいていないらしい。


「あの……! 手を……!」


 耐えきれなくなって『アイリーン』が声を上げると、そこでオリバーは初めて気づいたようだった。ばっと両手を話し、さあっと青ざめていく。


「——た、大変申し訳ございません!  僕としたことが、なんて失礼なことを……!」


 そしてばっと頭を下げると、オリバーは震えながら詫びの言葉を口にする。憧れていた研究者に逢えたのにという研究者としての思いと、単純に他社の人間に失礼をしてしまったビジネスパーソンとしての失態とで、かなりテンパっているようだった。

『アイリーン』は突然頭を下げた青年に戸惑いながらも、周囲から注目されていることに気づくと、慌てて青年の肩に手を置いた。


「顔を上げてください、ジョーンズさん。私は気にしていませんから」


 『アイリーン』がそう言うと、オリバーはおずおずと顔を少し上げて『アイリーン』の顔を見上げた。


「本当ですか?」


 そう、氷翡翠の瞳で見上げてくる様は、何となく飼い主に怒られた犬を彷彿とさせる姿だった。ぺちょんと垂れた耳としっぽがついているような気さえした。

 それを、強く返せる『アイリーン』ではない。なぜなら『アイリーン』はばりばりの犬派だ。しかも焦げ茶の毛並みの大型の犬を飼っている。


 『アイリーン』は、表情の乏しい顔をわずかに緩め、滲むように笑いながら、頷いた。


「本当です。だから、顔を上げてください」

「ありがとうございます!」


 『アイリーン』の言葉にがばっと身体を起こし、嬉しそうに笑った青年に、今度はぴんと立った耳とぶんぶんと振られるしっぽの幻が見えた気がした。


「どこか、落ち着ける場所でお話ししましょう」


 そのため、それまでより幾分軟化した声と面差しで『アイリーン』は告げた。それに、いくつなのかわからないが――間違いなくラヴェンダーよりは年上の――オリバーは、まるで子犬のようにくせっけの髪を揺らし、大きく頷いたのだった。



     ★ ☆ ★ ☆ 


 時刻は19:10を回ったところ。

 開会の挨拶が始まったために、一度メインフロア戻った二人は、その後解禁となったビュッフェから思い思いの食べ物を取り、再びロビーに集まった。

 

「抗ウィルス薬に関する昨年出た論文ですが……」

 

 ロビーにも休憩用にテーブルや椅子が設置してある。

 それらを利用して飲食するのは本当はマナー違反なのかもしれないが、『アイリーン』だけでなくオリバーもあまりパーティーの類いは得意ではないとのことだったので、ロビーに食べ物の皿を広げて歓談している次第である。


 最初、ラヴェンダーは内心冷や汗をだらだら垂らしていた。

 

 『アイリーン』を演じるに当たっての事前資料として、『アイリーン』自身が書いた論文と、その周辺分野のいくつかの論文には目を通している。けれど彼女の学校では科学分野の専門授業は力を入れていないし、彼女自身、そこまで理数系科目が好きというわけではない。

 浅い回答なら返すことはできるかもしれないが、『アイリーン』の専門分野に深く立ち入った質問をされたら返せる自信はなかった。


 けれど、その最初の不安は懸念だったようである。

 

 もともと、『アイリーン』と違い、オリバーはそこまでコミュニケーションに難があるわけでもないようだったし、加えて専門分野になると饒舌になるのは彼も同じ。

 ということでこの十分ずっとオリバーの展開する仮説や考えに頷いているだけの時間が過ぎていた。


 といっても、彼も平常心が保てているかというとそういう様子ではないように見えた。

 ラヴェンダーにはオリバーと『アイリーン』のどちらの職位が高いのかはよくわからなかったが、『アイリーン』の方が業界で有名なのだとしたら、研究者としては上、ということなのだろう。


 尊敬する人に思いがけず会話するチャンスができてしまい、嬉しくてとにかくしゃべっているが、内心はすっごくテンパっている。


 一歩引いたところにあるラヴェンダーの観察眼からは、オリバーはそんな風に見えた。


(あまり女性と話した経験もないみたいね……素材は、悪くなさそうなんだけど)


 初対面で、聞き役に回らず一方的に話す男性は基本的にはあまり好まれないのだが、そういったところに気が回らないのは女性慣れしていない証拠。


 くるくるのくせっ毛を切らずに目が隠れるくらいの長さまで伸ばし、パーティーの場に上げてセットしてくるでもない。よく見ればシャツはアイロンを当ててないのかしわだらけだし、スーツもよれよれで、ところどころ合成繊維特有のてかりまである。


 髭を剃ってきているのだけが及第点だが、あとはだめだめ。典型的服装に気を遣わない理系男子、といったところか。


 ただ、前髪で隠れているが、透明感のあるのに美しい彩度で輝く氷翡翠(アイス・ジェイド)の瞳は切れ長ですっとしているし、鼻筋も通っていて、横顔の輪郭は悪くない。きちんと身繕いすれば、がらっと変わるだろうに。


(もったいないわぁ。私が身内なら、一日デパートに連れ出して、大変身させてやるところなんだけど……)


 そう思い、ラヴェンダーは溜息をついた。昔、孤児院で実の兄のように慕っていた人の一人にも同じようなことを考えたがあるが、結局、これがベスト、 なコーディネートを着せた3分後には、暑い、動きづらい、と脱がれしまったことがある。


 その時にラヴェンダーは学んだ——結局、本人が変わりたいと思わない限り、こういうアドバイスは意味がないのだ、と。


 なのでラヴェンダーには退屈とも言える話を聞きながら、想像するだけにとどめておくことにする。

 前髪を上げて一房だけ垂らす、かっちり目のセットにして、スーツは細身の黒の三つそろえ。ネクタイは髪の色に合わせた、やや赤味のあるダークブラウン。タイピンかカフスには翡翠かエメラルドの填めて、白いハンカチを胸元に——うん、かなり良さそうだ。

 

(シルバーベースのピアスも似合いそうよね……あと黒淵眼鏡でおしゃれさ上げるというのもありだわ)


 脳内でコーディネートをしてみて、ラヴェンダーは満足した。残念なのはそれを本人にアドバイスできないことなのだが。


「……すいません、僕ばかり話してしまって」


 そんな『アイリーン』の内面のことなど知るよしもないオリバーが、反応が薄い『アイリーン』の様子に自分が話しすぎていることに気づいたようだった。

 頭をかきながら、軽く頭を下げてくる。

 『アイリーン』は慌てて両手を振った。


「いえ……非常に興味深いお話でした。私の専門分野は、免疫抑制なので、抗ウィルス薬の開発に関してのお話は、大変勉強になりました」


 問題にならないよう、身長に回答をしながら、ラヴェンダーはふっと表情を緩める。

 それは、それまでの無表情がほんの少し和らいだだけなのだが、何故かオリバーは言葉を詰まらせた後、ふい、と視線をそらす。


 その態度の理由がよくわからなかったものの、腕時計にちらりと目線を落とすと、すでに時計の針は19:25を指していた。そろそろ優秀者賞の授与式が始まる時間である。


「……ただ、申し上げにくいのですが、私、そろそろホールに戻らないと……」


 そう言って『アイリーン』が立ち上がると、オリバーはハッとなってこちらを振り返る。

 そして、離れようとする『アイリーン』の手首をつかんだ。


「あ、あの!」

「いたっ」

「あ、すいません……」


 思わず声を上げた『アイリーン』に、オリバーは慌てて手を離す。

 けれど、離した手をぎゅっと握りしめると、そのままの熱意で続ける。


「も、もしよかったら、このあともお話しするお時間、いただけませんか?」

「え……」

「あの、本当に、良かったら、なんですけども……ホールの方ので、風景とか、その……」


 いいながら、少しずつ尻すぼみになっていく。けれど、熱意を帯びた視線だけは外さず、じっと『アイリーン』を見上げてくる。


 それは、女性を口説こうとする男の顔――というより、飼い主において行かれまいとする子犬のようだったのは非常に残念だったが、少なくともラヴェンダーの心には刺さった。


 罪悪感という、感情で。


(ああああああああ! 今すぐにでも神に懺悔したい!!!)


 女性に明らかになれていないオリバー青年の、一世一代の勇気。

 なのに、相手は『アイリーン』本人じゃないどころか、正体を明かすことのできない大泥棒。しかも時間がないので授与式が終わったら、すぐにでも部屋に戻らなければならない。

 

 実る可能性が全くない恋の芽を目の当たりしたあげく、自分から握りつぶさないといけないなんて、なんて酷な役回りなのだろう。


(ラブロマンス至上主義者としては、身を裂かれるような苦しみだわ)


 せめてオリバー青年の心の傷が深くならないよう、ここは極力つれない態度で去るしかない。


「ごめんなさい。今は論文を仕上げるのに忙しくて、授与式が終わったら部屋で続きを書かないといけないものですから……」

「じゃ、じゃあ、また、別の日はどうですか?」


 もう、必死。必死すぎる。


 ラヴェンダーの心はずきずきと痛んでいたが、それを表情に出さないよう、努めて無表情のまま、告げる。


「……もし仕事の用件があるようでしたら、お渡ししたアドレスの方にお願いします」


 仕事の案件以外は受けねーぞ。


 というはっきりとした意思表示と共に、『アイリーン』は身を翻した。一切振り返ることなく、ホールに続く扉を開き、ざわめきと熱気の渦巻くその中へと身を投じていく。

 

 残されたオリバー青年は、その後ろ姿をじっと見つめていた——熱のない、冷め切った眼差しで。


 振り切ることに意識のいっていたラヴェンダーがそれに気づくことは、なかったのである。


閲覧、ありがとうございました。


ラヴェンダーさんは思春期に女学校に預けられたので、甘酸っぱいラブロマンスが大好きな上に、かなり憧れがあります。それをこじらせた結果が「ラブロマンス至上主義」なのです。

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