142.フォローアップ研修(LOTR?)その10
「おはよう、足首はどう?」
詩織は、亜香里が寝ているベッドルームに入り、声をかける。
『エルロンドの館』のほとんどの部屋は、ドアや窓の戸がなく自由に入れるようになっていた。
亜香里は大きなあくびをしながら目をこすり、窓の外を見ると陽はとっくに昇っている。
「おはよう、いま何時?」
「分かりません。『組織』のトレーニングに入ったら時計は無いし、スマートフォンが使えないのは今までと同じ。それより、男子2人が帰っちゃったよ」
「エッ! 戦線離脱? 昨日『水難騒ぎで疲れた』とか言っていたからリタイアしたの?」
「朝食を取ろうと思って、昨日の部屋に入ったらテーブルに書き置きがあったの」詩織がA4サイズの紙を渡す。
『 技術グループから、急な呼び出しがあり急遽帰国となりました
最後まで一緒にトレーニング出来ないのは残念です
ゴールに向けてがんばってください
萩原悠人 加藤英人 』
「そう言うことですか、まあ彼らの場合は能力者補じゃなくて『組織』の技術者ですからね。ほどほどのところで切り上げたのではないの?」
「亜香里もそう思う? 『組織』からすると、私たちがトレーニングをして能力を高めることは必要だけど、技術グループの彼らは定期的に脳波の刺激が出来れば良いわけでしょう? 『昨日一日で十分』って感じじゃない?」
「同感。それよりもお腹が空いた。朝食のメニューには何か目新しいものがありましたか?」
「夕食とは違うけど、昨日と同じく地元の食材を揃えました、って感じかな?」
「了解、すぐに着替えて、食べに行きます」
昨晩、亜香里たちが使った寝室には、小さいながらもバスルームがあり、寝間着も用意されていた。
亜香里は昨日、左足のギブスにフィットする様に手を加えられたジャンプスーツに着替え、クッキングマシーンのある部屋へ向う。
(ジャンプスーツをクリーニングする設備まであるとは『組織』も少しは考えてくれているのかな? いくら高機能な服とはいえ、何日間も着っぱなしは、気持ち悪いし)
部屋に入ると、優衣が紅茶を飲んでいる。
「おはようございます、足首はいかがですか?」
「腫れた感じは無いし多分大丈夫。優衣は今日、起きるのが遅かったの?」
「起きたのは早かったのですが、この館の中を見て回っていたので、朝食が遅くなりました」
「そうだ! ここに居るうちに『エルロンドの館』の探索をしておかなければ。『組織』のトレーニングは毎回そうだけど、写メ出来ないのが残念。御宝映像になる場所が満載なのに」
「亜香里さん、そんなものを撮ったら守秘義務に厳しい『組織』からどんな処分を受けるか分かりませんよ。帰って来られない『世界の隙間』に送られてしまうとか」
「優衣も脅かすねぇ。まあ、カメラを持ってきたとしても『組織』の怪しい機械がフラッシュメモリの中身を全部消しちゃうんでしょう? 最初から撮ることは諦めてます。それよりも朝食朝食、今日も長旅だからたくさん食べておかないと」
いつも普通の女子よりたくさん食べる亜香里だが、それにも増してボリュームのある朝食を食べ始めていた。
少しお腹が落ち着いたところで優衣に聞いてみる。
「男子2人がリタイアしたんだって?」
「そうなんです、ビックリですよね。トレーニング中に急な呼び出しなんて、おかしいと思いませんか?」
「詩織ともそんな話をしたのだけど、技術グループの人達にとってトレーニングの重要度は、その程度だと思う。私たちは能力者補から能力者にならないといけないから重要だけど」
「そうですよね、でもいつ帰ったんでしょう? 朝早くこの部屋に入った時にはもう、書き置きがありましたし… 昨晩のうちに『組織』のエアクラフトが迎えにきたのでしょうか?」
「多分そうじゃない? エアクラフトだったら音を立てずに離発着できるから。私たちが眠っていたら気がつかないよね」
詩織が部屋に入って来る。
「ここからの移動手段が見つかりました。4人乗りの電動バギーカーがスタンバイしています」
「なんと! 新入社員研修のトレーニングと違って、今回の『組織』は気配りが行き届いているね。この前の南九州で優衣が大変だったから、篠原家が『組織』に何かプレッシャーをかけたの?(優衣『父はそんなことしませんよー』)そうなんだ、じゃあ単純に新入社員研修の社員から一般社員へ格上げしたところを『組織』も考慮してくれたのかな?」
新入社員であることに変わりはないのだが。
亜香里は朝食を終えたあと『食べ過ぎて苦しいから運動を兼ねて『エルロンドの館』をたくさん見て廻る』と言い出し、『組織』謹製スマートクラッチを使いながら館の中を歩き始めた。
詩織と優衣は早朝に見て回ったばかりだが、亜香里の解説付きなのでついて回ることにする。
「フロドが指輪を置いて、ドワーフのギムリがそれを斧で壊そうとした台もあるし、ビルボバギンズの部屋まであるのには驚きました。彼の小さいベッドまで作っています。エルフの短剣とミスリルの胴着が無かったのが残念かな」
「亜香里ぃ、満足した? そろそろ出発しないと次の目的地に着かないよ。どこに行くのか分からないけど」
「はい、大変満足しました、それでは今日の旅程をお知らせします」
亜香里は、ロード・オブ・ザ・リングの現地観光ガイドの様に説明をする。
「このまま、『霧吹き山脈』の西側を廻って、ローハンの谷を通りエルフの森『ロスロリアン』を目指します、原作では山脈越えを諦めて、モリアの坑道を通って大変な目に合うのですが、私たちには妨害する敵もいないと思うので、そのまま山越えをします。詩織がバギーカーを見つけてくれましたし」
詩織と優衣は、亜香里のガイドを聞いて『とりあえず説明の通りにしてみるかな』と思っていた。
3人は自分のリュックの他に、クッキングマシーンが作ったサンドイッチや保存食、飲み物を持って電動バギーがあるガレージへ行ってみる。
『組織』が作ったセットが、原作と少しでも違うと口を挟む亜香里であったが、エルフの里にガレージがあるのには文句を言わない。
「詩織さん、このバギーカー、Kawasaki TERYX4 って書いてますけど?」
「ウン、これを最初に見つけた時、アレー? って思ったの。ガソリンだったら山越えをするのに予備のタンクが要るはずだけど見当たらないし、どうするんだろう? と思ってキーを回したら、なんとEVでした。おまけに表示走行可能距離が無限で『組織』謹製の使っても無くならない不思議電池?が載っているみたいだし、たぶん『組織』が TERYX4 の皮だけを使って、エンジンとか中身を丸々置き換えたんだと思う。座席はカーボンコンポジットで6点式シートベルトが付いていて、フレームもピラーとかを見ると何かの複合材を使っているみたい。チタンかマグネシウムのカーボン巻き? ルーフは見た事もないフィルム状のソーラパネルだし… このバギーカーの性能は乗ってみないと分からないけど、凄くコストが掛かっているのはよく分かる」
「亜香里さんの代車の時もそうでしたけど、『組織』の技術グループって、車オタクがいそうですよね。どこまでが仕事なんだろうって思います」
亜香里がガレージの棚をゴソゴソと漁る。
「パーソナルムーブを発見しました。もしもに備えてこれも持って行きましょう」
パーソナルムーブ3枚を脇に抱えてバギーに持って来る。
それとリュックや荷物をバギーカーの後部にシッカリと括りつけた。
電動バギー TERYX4(改)に乗り込む3人。 詩織が左の運転席に座り、助手席に亜香里、後部座席に優衣が座った。
「では、トレーニング2日目、エルフの森に向かって出発します!」
詩織が勇ましく出立を宣言し、電動バギーのアクセルを踏む。
『エルロンドの館』の脇にある、山脈を登る小道をグイグイと進みはじめた。
「これは良いね。 普通の TERYX 2人乗りをちょっとだけ運転したことがあるけど、こっちの方がトルクもあるし、ハンドルが安定している。バッテリーで車重が重くなっているのかな?」
詩織が、ご機嫌に独り言を言いながら、斜度が急で大きな岩があちらこちらに露出している坂道を気にもせず、電動バギーカーでガンガン登っていく。
その先には、山頂が雲に隠れている山々が広がっていた。