第5話、逃走するお姫様
アルゲナム国の聖都陥落から二日後。東の国境へと急ぐセラフィナ姫と近衛の分隊は、魔人軍の猛追を受けていた。
魔人軍騎兵に接敵され、さらに夜の間に距離を詰められ、とうとう追いつかれてしまったのだ。
「セラフィナ様! ここは我々が引き受けます! 離脱してください!」
近衛騎士のメイアは強い調子で言った。
「ミリナ、姫様を頼むぞ。他の者は私に続け!」
アルゲナムのために! ――メイアは、部下を引き連れ、押し寄せる魔人兵の追撃部隊へ突撃を敢行した。
王女直属の近衛隊。ふだんより顔をあわせることの多い彼女たちは、剣の稽古や訓練、食事を共にした者たちだ。公務や視察とあれば、セラの護衛としてその職務を果たしてきた。そして今回もまた、近衛としての使命をまっとうすべく、圧倒的多数の敵へと切り込んだ。……おそらく、彼女たちは助からない。
「姫様、お早く!」
近衛兵のミリナ――そばかすの残る顔立ちの少女兵は、セラを促した。
ここでもまた逃げなくてはならないのか。セラは歯噛みする。近衛たちを見殺しにしたくない――だがその思いで足を止めれば、決死の覚悟で残った彼女たちの想いを無駄にすることになるのだ。わかっている。……わかっているのに。
ごめんなさい――
セラは、ミリナ近衛兵と共に夜の闇の中を走る。森へ――多数の敵兵から逃れるためにも視界が遮られる森の奥へと。
矢が飛来する。近くの地面に、駆け抜けた木に、矢が突き刺さる。当たるわけにはいかない。だが振り返っている余裕もない。全速力で走る、走る。走る!
どれだけ走っただろう。深い森の中、闇の中、何度も足をとられそうになったが、奇跡的に転ぶことなく、魔人兵を振り切ることに成功した。
軽鎧を着けていた上で、ふだん走る以上の距離を走った結果、息が切れた。呼吸とともに上下する胸。びっしりと浮かび流れる汗をぬぐい、振り返る。
ミリナもまた両手を膝につけて、ぜえぜえ言っていた。無理もない、と思ったセラは、ふと近衛兵の背中に矢が刺さっていることに気づいた。
「ミリナ!」
まさか、ずっとその状態で走っていたの? ――そうとしか考えられない。セラは駆け寄る。
「ミリナ、あなた矢を……」
「へ? ……あぁ……」
そこで彼女は背中に手を回し、ずっと感じていた違和感のもとに触れ、すでに青ざめていた顔に小さく笑みを貼り付けた。
「刺さっていたんですね……あぁ、どうりでチクリとしていたわけです。はは……あ」
前のめりに倒れかけるミリナの身体をセラはとっさに受け止めた。
「待って、いま傷を診るわ」
膝をついて、ミリナを座らせる。まず矢を中ほどから折って、彼女の身に付けている軽鎧をはずしやすくする。抜くと出血がひどくなるので、止血、ないし治癒の魔法――体内の魔力を光の力に変換して、対象の治癒能力を高めて怪我を治す――で素早く手当てができるようにするのだ。
矢を折ったとき、ミリナは痛みに顔をしかめる。……抜く時はもっと痛い。次に傷口に治癒できるよう、彼女の軽鎧の留め具をはずそうとするが……。
ガサガサ、と周囲の茂みが揺れた。とっさに魔人兵かと身構える。
だが、敵の姿はない。微かに風で木々の葉が揺れ、さきのもおそらく風の仕業だろうと思う。しかし追われている現状を考えると、ここに留まる気にはなれない。
「……姫様、わたしに構わず――」
荒い息をつきながら若い近衛兵が言った。セラは首を横に振った。
「何を弱気になっているの。もう少し先に行きましょう。それまで頑張って」
見捨てない。セラはミリナに肩を貸すと、彼女を連れて歩き出す。……わかってる。使命を優先するなら、負傷した近衛の彼女を置いてでも逃げるべきなのだ。
――だけど。
もう耐えられなかったのだ。
家族を見捨て、故郷を見捨て、守ってくれた部下たちを見捨てることに。本当はそんなことをしたくないのに、自らの心を捻じ曲げて、背を向けた。
与えられた使命。それが将来、自分が今助けることができない人々を救うことになると信じて――いや、信じたい。
だが、現実主義的な思考がセラの思考をもたげる。
失われた命は戻らない。本当にライガネンに行くことで、アルゲナムを救えるのか。たとえ使命を果たしたとしても、もう取り戻すべき国も民もなくなっているかもしれない。そうなったら、すべて無駄になるのではないか。
足が止まりそうになる。振り返りたくなる。今からでも皆のもとに戻りたい――そんな気持ちがもたげる。
目の前で傷ついた近衛を救う。それはセラのちっぽけな自己満足と人は言うだろう。
だが、安っぽい人道主義などと言われようとも、今のセラには必要な行為だった。足を止めないために。ミリナを助けるという理由がなければ、前進すら躊躇うほど、心が押し潰されそうだったのだ。
・ ・ ・
少し進んだ先に、森に囲まれた小さな集落があった。
人が住んでいるのか。だが時間にすれば、すでに深夜。照明器具が限られるご時世、夜ともなれば、早々に人は眠るので、明かりはひとつもない。
民家が十軒ほど。村の中央に小さな教会が見えた。馬やその他家畜の姿、気配もないから、無人になって久しい集落なのかもしれない。
まずは教会へ。セラはミリナを連れて集落の中を進む。
入り口の扉は鍵がかかっておらず、押せば開いた。
ミリナの傷を診なければ。セラは近くの長椅子に彼女を座らせると、軽鎧をはずす。矢を掴み、引き抜く!
「ぐぅっ!!」
ミリナが歯を噛み締め、激痛に耐えた。血が流れたが、セラは素早く治癒の魔法を試みる。早く元の状態に再生させて、傷口を塞ぐ。それは同時に止血にもなる。幸い、致命傷ではなく、ミリナの傷も血が止まる程度には再生した。
ふぅ、と一息つくと、セラは立ち上がった。
「喉が渇いたわね。水がないか見てくるわ」
「姫様、それなら私が――」
立ち上がろうとするミリナだが、立ちくらんだのか腰が上がらなかった。治癒魔法を受けた直後に見られる治癒酔いだ。魔法をかけられた方は、体の再生力を活性化するという作用上、体内の力や魔力も消耗する。
「休んでいなさい。すぐ戻ります」
セラも自身の軽鎧をはずす。さすがに汗をかいた。長時間の鎧をつけたままというのは、結構な負担なのだ。ただ、銀魔剣だけは何があるかわからないので携帯する。アルゲナムに伝わる聖剣は、肌身離さず持っていなくては、と思うのだ。
教会を出て、集落内を見て回る。この村に人がいるかと、念のため家々を訪ねて見たが、結局のところ誰にも会うことがなかった。
何故、誰もいないのか。魔人軍侵攻を聞きつけ逃げたのかもしれない。
井戸がないか探して歩きながらセラは思った。人がいないのは、魔人兵がやってきた時に巻き込まなくて済むと別に意味で安堵する。
しかし、困った。井戸が見当たらない。せめて月明かりがあれば、もう少し視界がよくなるのだが……。
辺りを照らす光の魔法を使おうかと思うが、我慢する。光に導かれた夜の虫の如く、魔人兵を引き寄せるつもりはない。
仕方なく教会に戻る。セラも疲れたのだ。少し休みたい。ここ二日、休憩は最小限。敵に追尾されていたから、余計に心労がたたっている。
「ミリナ――」
教会に入った時、ムッとする臭いが鼻をついた。
先ほど来た時には感じなかった新たな臭い。それに混じって濃厚な血の臭いに、思わず眉をひそめる。
「姫……様……!」
近衛の少女の声。雲が途切れ、覗いた月明かりが、教会の中に差し込む。
「!?」
セラはその青い瞳を見開いた。
ミリナが立っていた。いや、立たされていた。口や鼻、目から血が流れ、さらにその胸元から黒い突起が突き出て彼女の身体を貫いていた。
「にげ……て……」
ミリナの首が力なく曲がる。彼女の背後にいたのは、少年の上半身と、蜘蛛の身体を持つ異形の怪物。
『みぃつけたぁ~。銀髪のオヒメサマ……!』
少年、その口もとから覗くのは二本の牙。ミリナを貫いていた突起は、この化け物が持つ槍。近衛の少女の血がべったりと付いたその槍を、セラへと向ける。
『ルナル様へのお土産だ。大人しくしてくれよな!』
快活に、邪悪に、異形の怪物は笑った。
次話は、本日夜(?)更新予定です。
(時間はいつもの20時ごろになる、かな……?)
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