八話 魔物の巣くう大陸へ
「ねぇ、そういえばどこからが魔物だらけの大陸なの?」
夜になり野営の準備を終えた頃、焚き火に照らされたソカがそんな疑問の声を投げ掛けてきた。俺はその言葉にふと彼女へと視線を移す。ぼぉっと火によって浮かび上がる彼女は、ちょこんと座り火元を棒で弄っている。きれいに揃えられた両足は艶かしく、何故だかその白い太ももに釘付けになっていると、ソカが再び俺を呼ぶ。
「……聞いてる?」
「あ、あぁ……」
危ない危ない。思わず燃え盛る炎に感化され、俺の中の何かも燃え上がるところだった。……困ったことに、この旅を始めてからそういう事が度々ある。それはたぶん、俺がソカを意識してしまっているからだろう。だが、それに彼女が怒ることはない。むしろ、嬉々として彼女の方から誘惑してくることの方が多々ある。その時はタイミングが良いのか悪いのか、俺はそういった気持ちにはならないし、先程みたく俺がそういう気持ちの時には彼女がそうではない。
だからこそ、まだ一線を越えることはなかった。そしてそれは恐らく、俺も彼女も意図してやっていることなのだろう。イチャつきたいけど、それ以上は怖い。故に、お互いが軽い気持ちで触れあえるようタイミングを見計らって……。考えていると何だか恥ずかしくなってくる。顔が赤くはなっていないだろうかと無意識に頬に触れて確かめ、分かるはずもないかとため息を吐く。何だか、中学生の頃のピュアな恋愛のようで、それさえもが恥ずかしさを際立たせた。
よし、別の事を考えようと顔をあげると、そこにソカの顔が間近まで迫っていた。
「うぉっ!」
思わずそんな声を出して後ろへと倒れてしまった。倒れたこともそうだが、情けない声を出した事にも恥ずかしくなって、咄嗟に腕で顔を隠してしまう。
「……なによ、傷つくわね」
そんな俺にソカが呆れ顔でポツリ。近くで休んでいるタロウが、『どうした?』と顔を上げて聞いてくる。
「いや、何でもない」
「何でもない? 何度呼んでも返事がないから心配したじゃない」
「……悪かった」
平然を装って起き上がる。心の中でエンバーザが笑いを堪えているのを感じた。エンバーザとは、精霊契約のせいか思っていること、考えていることが簡単に伝わってしまう。その事には慣れたが、やはり恥ずかしいことは恥ずかしい。……あぁ、この数秒で俺はどんだけ恥ずかしくなってんだよ。穴があったら入りたい。ついでに蓋を閉めて閉じ籠りたい。ほとぼりが冷めるまでその中でヌクヌクと過ごし、春になったらのっそりと出てくるのだ。ホント、この恥ずかしさにはクマったクマった。
などと、くだらないことを考えていると、ソカの顔が本格的に怒りへと変わってきた。
「何で無視するの?」
「いや、無視したわけじゃないんだ。少しばかり冬眠について考えていてな?」
「冬眠? 永眠の方法なら教えてあげるけど?」
言いながら、懐からナイフを取り出すソカ。それで俺が殺られることはないが、滲み出ている雰囲気が怖すぎて謝ってしまう。非は俺にあるのだ。謝っても間違いではないだろう。
「――で、何の話だっけ?」
「だから……魔物の巣くう大陸の話よ」
「そうだったな」
ゴフンゴフンと咳払いをしてから仕切り直す。確かに、そこらへんの説明は詳しくしていなかった。
「魔物ってのは魔素から生まれる存在だが、アスカレア王国とその周辺は各地にあるダンジョンによって魔素が抑えられている」
「その話は聞いたわ。未だに信じられないけど」
「だから、魔物が強くなるのは、そのダンジョンの影響を受けていない地域だ」
「ここはその地域じゃないの? 王国を出てから結構な距離を来たけど」
「この辺りは魔素がそこまで強くない。たぶん、元々そういった地域なんだろ。魔素は空気みたいなものだが、多い場所と少ない場所とがある。その場所がこの世界にはランダムに配置されていて、総体的にバランスがとれるように出来ているのかもしれない」
「ふぅん……じゃあ、私たちが向かっているのは魔素が多い場所ってことね?」
「そうだな。そこはダンジョン下層部にいるような魔物がわんさかいるに違いない。そして、そこへは……」
それから俺は遠くを眺める。暗闇のため何も見えないが、確かに存在しているであろう光景。
「確か、山があっただろう?」
「山?」
「あぁ。この平坦な荒れ地の向こうに見えていた山だ」
そうして思い浮かべるとある記憶。それは、何百年も前のテプト・セッテンにはない記憶。
……たしか、あの時は巨大な山を越えてきたのだ。
『間違いないだろう。確かにエノールはあの山を越えてきた』
その考えに、エンバーザも同意してきた。
「俺たちが向かうのは、その山の向こうだ。恐らく、アスカレア王国にいる者たちは誰一人として行ったことのない地。そして、遠い昔にエノールがやって来た地」
「そこが……魔物の巣くう大陸」
「そうだ」
ソカの言葉に、強く頷いてやる。タロウがここからでも分かる武者震いをした。
『早く、強き魔物と戦ってみたいものだ。この辺りの魔物は歯応えが無さすぎる』
カチカチと顎を鳴らすタロウに俺は苦笑するしかない。タロウはヘルハウンドだが、普通の魔物ではなく自我を持つ上位の魔物だ。加えて、俺と契約を交わしている為に精霊の影響を受け、さらに強くなってしまった稀有な存在だ。もはや彼の敵はこの辺りにはいない。対等に渡り合えるのは、それこそ山を越えた先の魔物たちだけだろう。
「そんなに強くなって、私は大丈夫なのかな?」
ふと、ソカがそんな言葉を呟いた。
ソカは冒険者として長年活動していただけあって、戦闘にはそれなりの心得を持っている。だが、強いかと問われればそうではない。ランクで言えばBランク。そのランクも、ダンジョンによって魔素が薄くなってしまったアスカレア王国内での位置付けだ。
「精霊契約は?」
そう聞いた俺の言葉に、ソカは力なく首を振る。
「全然。今では声も聞こえない」
「……そうか」
ソカの装備している剣は、オーガのガントレット同様、俺が彼女に与えたものだ。その剣の名前は詐偽。業火と同じく、精霊の宿る剣である。最初に作った時は、俺と契約を交わす目的で剣に宿ったらしいのだが、今ではソカと仮契約を交わしている。
だから、ソカがエセクトと精霊契約を交わせば彼女の力は何倍にも跳ね上がるに違いない。その代わりとして、通常の魔法が使えなくなってしまうのだが、それを天秤にかけても精霊魔法は強力だ。
だが、彼女の話を聞くにエセクトは沈黙しているらしい。
お前から話しかけられないのか?
そんなことをエンバーザに問いかけてみる。
『……無理だ』
エンバーザは、そう言っただけだった。きっと精霊にもいろいろとあるのだろう。エンバーザが必要に喋らないのもきっとそのせい。それを、俺が無理やり問いただすことはない。
「まぁ、安心しろよ。俺が守ってやるから」
それは紛れもない本音。だからこそ、俺はソカを連れてきたのだ。それにソカは、穏やかに笑ってこくりと頷く。
「頼りにしてる」
「任せておけ」
言葉の数は少ないが、それだけで十分伝わったように思えた。
きっとそれは、俺が彼女を理解し、彼女もまた俺を理解しているから。その事が堪らなく幸福に思える。
もしもこの先にどんな苦難が待ち構えていようとも、この気持ちさえあれば乗り越えていける。そう確信できる。
もちろん、それを手にするのは簡単なことではなかった。まるで、長い時間をかけて読み終えるような物語がそこにはあったのだ。
……だからだろう。もはやお互いの気持ちを知り得るのに、言葉をあまり必要としない。もしもその先の気持ちを知るには、言葉以上の何かが必要なのだろう。
その何かを、俺とソカは知っている。だが、二人とも素知らぬフリをしている。そして、それこそが俺とソカには心地よく感じられていた。だから、敢えて素知らぬフリをしているのだ。
その何かが必要になるのは何時のことだろうか……。
不意に、タロウが欠伸をした。
「私、もう寝るね」
それに眠気を誘われたのか、ソカも小さく欠伸をしてから焚き火の向こうで布にくるまり横になった。その姿をじっと見つめ、それからハッと我に返る。
……いかんいかん。
『……大変だな』
エンバーザの言葉に再び恥ずかしさを覚えるが、もう開き直ることにする。何故ならこういったことは、この先何度もあるのだろうから。
「俺も寝るか」
独り呟いて横になる。だが、変な事を考えてしまったせいか、妙に頭が冴えて眠ることが出来ない。
もしかしたら、この旅で最大の苦難は、これかもしれないな……。そんなことを考えながら無理やり目を瞑った。
パチパチと静かに燃える焚き火の音だけが、ずっと耳の奥で反芻していた。