一話 転移したローブ野郎【ローブ野郎】
そこは深い霧に包まれた草原だった。いや、草原だと思っているだけで本当は近くに木々や湖があるのかもしれない。ただ、それが分からぬほどに霧は深かった。
そして、そんな景色の中に残されたかのようにポツンと立ち尽くす者が一人。
「……はて、ここはどこ?」
彼はローブを目深に被り、顔の表情は口元しかわからない。その口はポカンと半開きになっていて、間違って虫が入ってしまいそうだった。
そんな彼は、数分前までの事を思い出してみる。
――――たしか。
彼はその日、とある魔術式の実験を行っていた。その魔術とは死霊魔術。彼は誰かを生き返らせようとしていたのである。
しかし、その世界には未だかつて死霊魔術といったものは存在していなかった。死者の概念すら解き明かされていなかった。
故に、彼が先陣を切ってそれを行おうとしたのである。彼も意識しないままに。
彼は、死者の存在を別の世界にて立証しようと試みる。
それは、一つの言葉がキッカケだった。
――――実は、俺は異世界からきた人間なんです。
その言葉を言われた当時、彼はそれを笑って否定した。異世界があるなど信じられなかったからだった。
だが、彼はそれを病的に信じるようになる。
もしも本当に異世界があるのだとしたら、それは死後の世界なのではないだろうか? だとしたら、転移魔術を使い死者を呼び戻せるのではないだろうか?
それは小さな考えだった。しかし、考えれば考えるほどにその考えは肥大化していく。彼が、それを思うだけに留めることが出来なくなるまでには、そんなに時間を必要とはしなかった。
「一つやってみますか……クックックッ」
彼には魔術の知識あった。くわえて【空間魔法】は彼が長年研究してきたものでもあった。さらに、そういった特殊な魔術式の実例が、偶然にも彼の近くには存在していた。
彼から見れば、それは運命にも似た何かに用意された必然であるように見えた。
だから、躊躇なくその魔術を実行に移す。
近くにあった実例の魔術式とは【召喚魔術】だった。その仕組みを利用し、どうにかして死者を異世界から逆召喚しようとしたのである。
結果、彼は魔術には成功する。死者ではなく、自分が向こうに逆召喚される形で。
「……どうやら、術式を少し間違えてしまったようですね」
彼は慌てることなく状況を理解した。
「……仕方ないですね。このままテプトさんを捜すことにしましょう」
テプト・セッテンとは、彼が召喚しようとした人物。彼は、自分が死後の世界に来てしまったということよりも、その人物に近づけたという方に重きをおいたため、慌てることがなかったのだ。
もしかしたら、自分が帰る時の事を考えられていないだけかもしれないが。
なにはともあれ、彼は歩き出す。
その直後、背後の頭上を何か大きな影がゆっくりと通りすぎていった。それに彼は気づかない。それは幸運だったかもしれない。なぜなら彼の性格上、何かと思い近づいて行ったかもしれないからだ。
それは魔物だった。きっと、彼が瞬殺にも近い速度で殺られてしまう程の魔物。そして、この辺りにはそういった魔物しかいない。
ここは現実。彼の考える死後の世界などではない。
「それにしても……私がここにいると分かれば、テプトさん驚くのでしょうね……クックックッ」
彼がそれに気づくのはいつになるのか。それは神のみぞ知るところだろう。
「おや?」
そんな彼の目の前に魔物が現れる。
「ふむ。……死後の世界にもスライムはいるようですね」
それはスライム。液状の体を草の上で器用に跳ねていた。
「さっそく捕まえて調べてみますか」
さも、当然のようにスライムに近づく。スライムはそれに気づいて一際大きく跳ねた。
「こら、待つのです!」
スライムは逃げ、それを彼は追った。スライムのスピードは遅く、ローブのせいで動きにくそうな彼でもついて行くことの出来る速度だった。
――――ポヨンポヨンポヨンポヨン。
スライムは、霧の中でも方向が分かるのか、真っ直ぐに何処かを目指して跳ねていく。途中、急な方向転換をしたりもするが、スライムは迷うことなく進んだ。
「クックックッ……そんなことでは、私の魔の手からは逃れられませんよ?」
その方向転換は、先にいる強い魔物を避けるための事だと彼は気づきもしない。
――――ポヨンポヨンポヨンポヨン。
やがて、どこまでも続くかに思われた霧の向こうに、大きな岩肌が現れる。そして、スライムが向かう先には、人が一人入れるくらいの穴があった。そこにスライムは入っていく。そして、彼も躊躇することなくスライムを追って穴の中に入った。不用心にも程があったが、それを彼に伝える者はいない。
穴の中は暗かった。しかし、岩肌は淡く発光していて真の暗闇というわけではない。
「クックックッ……追い詰めましたよ?」
否。追い詰められたのは彼の方だった。スライムの背後から、彼の背後から、どこに隠れていたのか、わらわらとスライムたちが現れたからだ。
「なっ!」
そのスライムの数に彼は驚いた。
そして。
「ここは楽園ですかっ!」
……何故か歓喜した。
「まさか、こんな所で大量の実験材料に会えるとはっ!……クックックッ」
彼は研究者だった。そして、魔術や魔法、魔のつくものをこよなく愛していた。故に、魔物ですら彼にとっては愛すべき対象だった。
「なるほど……恥ずかしくて、この暗がりに逃げ込んだというわけですか」
その曲がった愛は、彼を盛大な勘違いへと導いていく。
「……クックックッ。怖がらなくて良いのですよ? 私の胸に! さぁ!」
スライムは、魔物の中では最弱を誇る存在だった。故に、強さとは異なる部分が異様に発達していた。
ポヨン……ポヨンポヨンポヨンポヨン!
だから、彼の歪な雰囲気に気づき、スライムたちは穴の奥深くへと逃げ出していく。
「待て待てぇーい! クークックックッ!」
それを笑顔で追いかける。
「つーかまえたっ!」
一体のスライムが掴まる。スライムは、彼の不気味な雰囲気に体をプルプルと震わせ、人に例えるなら汗にも似た分泌液を滲ませる。
「クックックッ……すでに濡れ濡れじゃありませんか。大丈夫ですよ。……優しく扱ってあげますから」
彼の口元から涎が滴った。それがスライムの上に降り注ぎ、スライムはさらに恐怖する。その恐怖は、スライムたちが今まで味わったことのない種類のものだった。例えるならば、まるで貞操を奪われるかのような恐怖……。
「クックックッ……一度、最弱と呼ばれるスライムを最強にする実験をしてみたかったのですよ」
彼はそんなことを呟きながらスライムを持ち上げる。
スライムは周りに助けを求める。だが、他のスライムは見向きもせずに穴の奥深くへと逃げていった。そして、スライムは諦めてしまう。
「ようやく素直になりましたか……クックックッ。見たところ、この洞窟には魔力を含んだ鉱石も多いようですし、お楽しみはこれからですよ?」
……プルプルプルプル。
彼はここに来た目的『テプト・セッテンを見つける』ということを忘れて、その辺に落ちていた石で何かを夢中で描いていく。それは、彼の頭を埋め尽くすスライム強化実験の始まりに他ならない。彼は典型的な研究者である。故に、研究のこととなると他の事を忘れてしまう事が多々……多々あった。
テプト・セッテンは、そんな彼の事を『ローブ野郎』と勝手に呼んでいた。
そのローブ野郎は、迷うことなく自分の欲求に従っていく。
その欲求が彼を、また、ここにひっそりと暮らしていたスライムたちの運命を大きく変えていくことになろうとは、スライムたちも、ローブ野郎本人でさえも知らない。
「クックックッ……今、強くしてあげますからね?」
プルプルプルプルプルプル。
洞窟内にローブ野郎の笑い声が響き渡る。その声に、他のスライムたちはただただ、怯えるしかなかった。
「クークックックッ!!」
――――実は、俺は異世界からきた人間なんです。
テプト・セッテンがローブ野郎を励ますために明かした冗談のような真実。
前作『ギルドは本日も平和なり』 第一章 四十三話 結果と評価 参照
前作同様、繋がっている所はあとがきにて掲載していきます。
掲載条件としては、作者のさじ加減による所が大きいです。