くちびる
高校に入学して、私は麻那と一緒に何となく吹奏楽部に入部してしまった。特にやりたい楽器はなかったのだけれど、金管に比べ木管楽器の人数が少ないから木管にぜひぜひと先生に言われ、サックスもクラリネットも希望者が多かったため、麻那と一緒にフルートに決めた。因みに二人とも楽器は初心者だった。フルートは三年生が一人、二年生が二人しかいなかったので先輩は私たちをすごく歓迎してくれた。でもいざ始めてみたら麻耶はすぐ音が出せたのに対し、私はなかなか音が出せなかった。
部活の帰り道、私は麻耶に愚痴を吐いた。
「麻那はいいなぁー、綺麗な音が出せて。唇の形がいいもん。フルートに向いてるんだね」
「そんなことないよ。ちょっと気を抜くと息の音が混ざっちゃうし、指は動かないし。それに私は美術選択だし、楽譜読むだけで精一杯だよ。楓は音楽得意じゃん!」
確かに、私の方がピアノも習ってたし有利かもしれない。でも……
「そっか……うーん……ウチら甘かったかもね」
「何か甘い物食べたくない?」
麻耶が言った。
「うん、食べたーい!」
「行こうぜ~~」
パート練習のとき私は三年生の山崎優香先輩(別名:鬼化先輩)に怒られてばかりいた。私は音が出る前に息が先に出てしまうのでテンポがずれる。
「ほら、三上さん、また遅れてる! ちゃんとタンギングして! 音出てないよ〜」
「はい」
バタッ
動揺して譜面台を倒してしまった。
「す、すいません……」
もう、やだ! やめたい!!
そんな私に二年生の中原美紅先輩は言ってくれた。
「三上さんは唇の形が私と似てる。うん、口角が少し下がってるんだよね」
あぁ、そういえば美紅先輩と私の唇似てるかも。でも美紅先輩は全然綺麗な音が出るし……
「うーん、私は少し横に唇をずらすように吹いてる。そうすれば少し違うかも。やってみて!」
先輩は落ち込む私を慰めてくれて丁寧に色々教えてくれた。私は先輩の唇ばかり見つめてしまうようになった。先輩みたいに美しい音が出せるようになりたい……
そのうち胸の奥の方から熱いものが込み上げてきて、一日中先輩の唇が頭から離れなくなってしまった。
三時間目が終わって私は窓の外をぼんやり見ていた。
「楓、ねぇ、楓!!」
気付くと麻耶が私を呼んでいた。
「あ、何?」
「何ぼーっとしてんの? あ、いつもかぁー、てか私帰るから」
「え? なんで?」
「今日法事があるから早退するって言ったじゃん」
「あ、そうだった」
「部活頑張るんだよ」
「うん……」
「じゃあね」
「バイバイ」
放課後になってしまった。憂うつだ。部活サボりたい……。
今日はパート練習のみ。フルートは4階の空き教室を使っていた。まさかの偶然が重なって、山崎先輩と二年生の先輩が休みで、私は美紅先輩と二人きりなのだ。ヤバい、非常にヤバい。私は先輩の唇に見惚れて平常心が保てない。
二人きりでチューニングをして、練習を始めた。メトロノームの音が自分の鼓動で聞こえない。あー、もうダメー。美紅先輩……
「先輩の唇が好きです」
私は小さな声で呟いてしまった。
先輩はロングトーンの練習をしている。先輩の口角の下がった唇から絞りだす悲しい音色が私をキュンキュンさせる。
美紅先輩の唇を奪いたい……
その時、音色が止まった。
「欲しいの?」
「……先輩?」
「欲しいんでしょ」
先輩の唇の口角が少し上がっている。微笑んでいる?
「あげるよ」
私はピクリとして、そのまま固まってしまった。
「ちょっと待ってて」
先輩は制服のブレザーのポケットからマスクを取り出した。
「再生するまで10分弱かかるんだよね」
先輩は後ろを向いて口元を手で押さえている。
「はぁっ、はぁっ、あぁあーー、あぁあーーーー、うぉおおおーーーーーー」
先輩の背中が小刻みに震えている。私は何が起こっているのかわからず呆然としていた。
おもむろにマスクをした先輩が振り返った。目が潤んでいる。
「三上さん、両手を出して〜」
「え?」
「早く〜」
私は言われるがまま両手を差し出した。
「あ、違う。手のひらを上に向けて」
ぼとっ
生温かい感触が手のひらに落ちた。私は声を出すことが出来なかった。
「剥がすのあんまり得意じゃないけど、今回はきれいに剥がせたよ。まだ生きてるから~」
私の手の中で先輩の唇がモゾモゾと動いていた。
「時期におとなしくなると思うから、落とさないようにね!」
先輩の唇が、唇が、唇が!!!!!! あぁあああぁああああああああーーーーーー
私は声にならない声で叫んでいた。
「使用期限は冷蔵保存で約一週間。ふふふ、好きにしていいよ」
美紅先輩は優しく言ってくれた。
やがて唇はピンクグレーになり、私の手のひらに静かに横たわっている。
♪ ♪ ♪ ♪ ♪ ♪ ♪
うふ、唇が歌っているみたい。
私は自分の唇を美紅先輩の唇にそっと近付けた。口角の下がった二つの唇がぴちゃっと音を立ててフィットした。