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二年間数えてあげた婚約者が、最初のダンスを幼馴染と踊るそうです。ですから今夜は、数えません

掲載日:2026/11/04

「最初のダンスをウルリケに譲ってやってくれないか」


 婚約披露の夜会が始まる、ほんの十五分前のことだった。


 フォーゲル伯爵家の大広間には二百人の客が集まり、楽団が最後の調弦をしていた。控えの間の鏡の前で、わたくしは自分で縫った銀灰色のドレスの裾を直していた。肩の布は今朝になってようやく縫い終えたものだ。


 今夜の夜会の段取りも、ほとんどわたくしが決めた。舞踏の順番、休憩の間合い、楽団が入る時刻。伯爵夫人は「あなたに任せれば安心ね」と笑って、いつものように、それ以上は何もおっしゃらなかった。


「ウルリケ様、ですか」


 ウルリケ・ランデックはディルクの幼馴染で、男爵家のお嬢様だ。今夜が社交界での初めての舞踏会になる。


「彼女、足が震えているんだ。初めての夜会で最初の一曲を壁際で見ているなんて、かわいそうだろう。僕が最初に踊ってやれば、皆が彼女に注目して、その後は誘いが絶えない」


「最初の一曲は、婚約したお二人が踊る決まりです」


「分かっている。だから頼んでいるんだ」


 扉の陰から、桃色のドレスの裾が覗いた。ウルリケだった。胸の前で両手を握りしめ、ほとんど聞き取れない声で言った。


「あの、ユーディット様。私は壁際で構いませんの。ディルクが勝手に」


「遠慮するなって言ってるだろう。君は初めてなんだから」


 ディルクは彼女の肩を叩いた。ウルリケは困ったように唇を結んだ。


 ディルクは両手を合わせた。この仕草を、わたくしは二年の間に何百回見ただろう。


「君なら分かってくれるだろう? 僕たちはこの先、何十年だって踊れる。今夜の一曲くらい、彼女に譲っても」


 君なら分かってくれる。


 二年前の初めての稽古の日にも、彼はそう言った。


 ディルク・フォーゲルは、笑うと誰もが許したくなる人だ。伯爵家の嫡男で、背が高く、礼儀も正しい。ただ踊りだけは壊滅的だった。右足と左足が互いに譲り合って、いつまでも前に出ない。


 わたくしは宮廷舞踏師範の娘で、人に踊りを教えて暮らしている。伯爵夫人に頼まれて二年間、毎週ディルクの稽古に通った。通ううちに、いつの間にか婚約者になっていた。


 分かってくれるだろう、と彼は何度も言った。稽古に遅れたとき。父の誕生日の席を欠いたとき。彼の母君の茶会で、わたくしが二時間、他の客の相手を一人でしたとき。わたくしはそのたびに「ええ」と答えた。分かっているふりはわたくしの得意な稽古のひとつになっていた。


「承知しました」


 わたくしは裾から手を離した。


「最初の一曲は、ウルリケ様とお踊りください」


「ありがとう! 君ならそう言ってくれると思った」


 ディルクの顔がぱっと明るくなった。扉に手をかけた彼に、わたくしは続けた。


「ただ、ひとつだけ。今夜は、数えません」


「数える?」


「ご自身で数えてくださいませ」


 彼は不思議そうに首をかしげ、それから笑った。


「数えなくたって、もう踊れるよ。二年も君に習ったんだ」


 扉が閉まった。


 鏡の中のわたくしは、思ったより静かな顔をしていた。


  ◇


 楽団の席は大広間の奥の一段高い壇の上にあった。


 わたくしが壇の下に立つと、指揮棒を持った男が振り返った。宮廷楽団の指揮者、エルヴィン・ザイデル。三十三歳。黒い燕尾服の襟に、譜面の紙片が一枚、栞のように挟まっている。


「ヴィンクラー嬢。最初のワルツは、あなたのご指示を待つようにと、伯爵夫人から伺っています」


「今夜は、フォーゲル様とランデック嬢が踊ります」


 エルヴィンの指揮棒が空中でぴたりと止まった。


「そうですか」


 それだけ言って、彼は譜面台に目を落とした。何を言うべきか考えている顔だった。わたくしは少し頭を下げた。


「速さは、いつもどおりでお願いします」


「いつもどおり、というのは、あなたの数え方の速さですね」


 顔を上げた。


「二年前の春の舞踏会から、あなたは毎回、フォーゲル様の半拍前に唇で数えていた」


 エルヴィンは楽譜の端を指で撫でた。


「彼の足があなたの唇に乗って、ようやく床を滑るのを、私は指揮台から見ていた。ワルツの速さは、本当はあなたの口が決めていました。私は後ろから、それに合わせていただけです」


「お気付きでしたの」


「指揮台からは、床がすべて見えますから」


 彼は壇の手すりに指を置いた。


「あなたの数え方は、メトロノームで言えば楽譜の指定より少しゆっくりです。フォーゲル様の足が追いつける、ぎりぎりの速さだった」


「ご存じなのですね」


「ご存じというより、ずっと合わせてきたのです。あなたが一晩中、他の誰かの速さで踊るのを見ていましたから」


 彼は穏やかな目でこちらを見た。責める色も、憐れむ色もなかった。


「今夜は数えないのですね」


「はい」


「分かりました。それでは、いつもの速さで始めます。フォーゲル様が追いつけるかどうかは、私の関知するところではありません」


「楽団の方が、そのようなことをおっしゃって良いのですか」


「指揮者は、床の上で起きることに責任を持ちません。鳴らす音にだけ、責任を持ちます」


 わたくしは小さく笑った。笑ったのは、二日ぶりだった。


 壇を離れて広間の端に戻ると、柱の向こうからディルクの声が聞こえた。数人の若い貴族に囲まれて、グラスを掲げている。


「いや、助かっているよ。何しろ僕は昔から、気の回らないほうでね。ユーディットがいてくれると、全部うまくいくんだ」


「頼りになる奥方になりそうだな」


「ああ。世話の焼ける夫で申し訳ないくらいだ」


 笑い声が起きた。悪意はどこにもなかった。誰も、わたくしが聞いているとは思っていない。


 柱の陰で、わたくしは扇を握りしめた。


 世話の焼ける夫。


 わたくしは世話をしていたのだ。二年間ずっと。妻になる前から。


「ユーディット」


 隣に、いつの間にか父が立っていた。宮廷舞踏師範を四十年務めた人で、背筋だけが今も、舞台の上の人のようにまっすぐだ。


「お前が数えるのをやめたら、あの子は踊れんぞ」


「存じております」


「恥をかくのは、お前の婚約者だ」


「はい」


「傷つくのは、お前のほうかもしれん」


「傷つくのは、二年前に済ませました」


 父は何も言わず、わたくしの肩に軽く手を置いた。大きくて乾いた手だった。幼いころ、この手の上に立って、初めてワルツを覚えた。


  ◇


 二年前の春の、最初の稽古を思い出す。


 王立舞踏学院の稽古場は、窓から午後の光が斜めに差し込み、床の埃が金色に舞っていた。ディルクは壁の鏡の前に立ち、真剣な顔で最初の一歩を出した。右足が前に出て、左足が出遅れて、わたくしの靴の爪先を踏んだ。


「あっ、ごめん」


「大丈夫です。もう一度」


 三十回目の踏み込みで、わたくしは方法を変えた。


 男性が女性を導くには、まず自分の体重がどこにあるかを知らなければならない。けれど、ディルクは、自分の体重がどこへ移っているかを感じ取るのが驚くほど苦手だった。


 だから、わたくしが前もって教えることにした。


 半拍前に、唇で数える。いち、に、さん。声は出さない。ただ口の形だけで、彼の足が出る一瞬前に。


 彼はそれを目で追った。そして、足が動いた。


「動いた! 動いたよ、ユーディット!」


 ディルクは子供のように声を上げた。それから、わたくしの両手を握って、本当に嬉しそうに言った。


「君が数えてくれると、足が動くんだ。君がいないと、どうしていいか分からないよ」


 あの日のわたくしは、それを愛の言葉だと思った。


 それから二年、ワルツもポルカもメヌエットも、わたくしは彼の半拍前に唇を動かし続けた。仮面舞踏会でも、宮廷の新年の夜会でも。踊りが終わるたび、彼は「今日もうまく踊れた」と笑った。


 彼は誰が数えているのかを、一度も考えなかった。


 去年の秋、王宮の舞踏会でのことだ。


 ディルクは宰相夫人に踊りを申し込まれ、珍しく青ざめた顔でわたくしを振り返った。わたくしは扇の陰で、いち、に、さん、と唇を動かした。彼の足は無事に床を滑った。


 踊り終えた後、宰相夫人は笑顔で彼を褒めた。


「お見事でしたわ、フォーゲル様。まるで羽のよう」


「いえ、努力の賜物です。毎日、稽古を重ねましたから」


 ディルクは誇らしげに胸を張った。その後ろで、わたくしは何も言わずに頭を下げていた。伯爵夫人が耳元で囁いた。


「ユーディットさんのおかげね」


「いいえ。ディルク様のご努力です」


 わたくしはそう答えた。そう答えるのが、いつものことだった。


  ◇


 やがて、楽団がワルツの最初の和音を鳴らした。


 大広間の中央に、ディルクとウルリケが進み出た。ウルリケは淡い桃色のドレスに身を包み、肩に白い花飾りをつけていた。緊張で頬が赤い。ディルクは堂々と手を差し出した。


 わたくしは壁際の長椅子に座って、扇を膝に置いた。


 中央へ進みながら、ディルクが一度だけこちらを振り返った。人差し指を口に当てて、片目をつむってみせる。今夜は見ていてくれ、とでも言いたいのだろう。


 わたくしは頷いた。見ていることにした。


 エルヴィンの指揮棒が上がり、下りた。弦の最初の一小節が空気を撫でる。


 ディルクが足を出した。


 その右足はウルリケの左足と同じ場所に着地した。


「あっ」


 二人の声が重なった。ウルリケは自己流の踊り手だった。誰かに導かれる前に自分で動いてしまい、半拍先を走る。ディルクの足は彼女の動きを追うことも自分の動きを決めることもできなかった。


 彼の視線が広間の隅をさまよった。


 わたくしの唇を探している。


 唇が勝手に動きかけた。二年分の癖が体の中に染みついている。いち、に、さん。声になる前に、わたくしは奥歯を噛んだ。


 今ここで数えれば、彼は踊れる。誰も何も気付かないまま、いつものように賞賛されるだろう。


 けれど、数えなかった。


 わたくしは扇を開いて、口元をそっと隠した。


「ユーディット」


 二小節目で、ディルクが小さな声で呼んだ。


「ユーディット、数えてくれ」


 音楽は止まらなかった。エルヴィンはあの人らしく少しも速度を変えずに楽団を引いていた。二百人の客が固唾を飲んで見守っている。


 壁際の婦人たちが囁く声が、扇の陰から漏れてきた。


「あら。ユーディット様は、今夜は踊らないの?」


「あんなに息の合った方々でしたのに」


「息が合っていたのは、どちらだったのかしらね」


 四小節目で、二人は完全に絡まった。ウルリケのドレスの裾がディルクの靴に引っかかり、彼女は後ろに倒れかけた。誰かが悲鳴を上げた。ディルクが慌てて抱き止めたが、その拍子に今度は自分が尻餅をついた。


 大広間が静まり返った。


 それでもワルツは続いていた。十六小節目に入ると、他の客が踊りの輪に加わる習わしだ。誰かが気を利かせて、中央から離れた場所で踊り始めた。ひとり、またひとりと輪が広がり、床の真ん中で座り込んだ二人の周りを、礼装の客たちが滑っていく。


 ウルリケは真っ赤な顔で、ディルクを睨んだ。


「ディルク。あなた、踊れるって言ったじゃない! どうして全然、導いてくれないの?」


「いや、僕は、いつもは」


「いつもは、誰が導いていたの?」


 ディルクは口を開けたまま、答えなかった。ウルリケは口を押さえて走り去った。


 ディルクは立ち上がり、よろめきながらわたくしの前まで来た。額に汗が浮かび、前髪が乱れている。


「どうして数えてくれなかったんだ」


「今夜は数えません、と申し上げました」


「そんな、君は分かってくれていると思っていたのに」


 彼の声が裏返った。


「頼む、ユーディット。今からでもいい。みんなが見ている。君なら分かってくれるだろう」


 わたくしは扇を閉じた。


「ディルク様」


「ああ」


「分かっていたのは、わたくしだけでした」


 彼は目を見開いた。


「あなたは二年の間、わたくしに分かってほしいことがあるかどうかを、一度もお尋ねになりませんでした」


 左の薬指から、婚約の指輪を外した。母が選んでくれた、小さな青い石の指輪だった。


 それを、彼の汗ばんだ手のひらに載せた。


「どうぞ、お返しします」


 ディルクは指輪を見つめたまま、しばらく動かなかった。


「僕は、何をすればよかったんだろう」


 それは本当に、答えを求めている声だった。ずるさも計算もない。この人は最後まで、悪い人ではなかった。


「次にお踊りになる方に、お尋ねください」


「何を」


「どんな速さで踊りたいか。どこに手を置いてほしいか。何をしてほしくて、何をしてほしくないか」


 ディルクは口を開き、それから閉じた。


「……そんなこと、考えたこともなかった」


「ええ。存じております」


  ◇


 その後の騒ぎは、わたくしが説明するまでもない。


 伯爵夫人はわたくしの袖を掴んだ。


「ユーディットさん、お願い。今夜だけでいいの。ディルクに、いつものように」


「奥様。わたくしは二年の間に、ディルク様に必要なことをすべて申し上げました。足の出し方も、体重の移し方も」


「それなら、もう一度」


「足を運ぶのは、ご本人の足でございます」


 夫人の指が袖から離れた。


 伯爵夫人は顔色を失い、伯爵は二百人の客に向かって何か言い訳をしようとして、途中で言葉が出なくなった。ウルリケの母君は娘を探して廊下を駆け回った。わたくしの父は壁際で、静かに頭を抱えていた。


 それでも夜会は続いた。楽団は止まらず、客は踊り続けた。


 ただ、誰も最初のダンスを、もう話題にしなかった。


 真夜中を過ぎるころには、客は帰り支度を始めていた。侍女が裾を持ち上げて待つ中、わたくしは玄関で父を待っていた。


 背後から、静かな足音が近づいた。


「少し、よろしいですか」


 エルヴィンだった。指揮棒を手に持ったまま、燕尾服の襟にはまだ紙片が挟まっていた。


「楽団は帰しました。大広間に、燭台がいくつか残っています」


 彼は一度だけ、言葉を探すように間を置いた。


「一曲だけ、お付き合い願えませんか」


「あなたは、踊れるのですか」


「指揮者は、全員の足の運びを知っています。ただ、踊る相手がいませんでした」


「ずっと、言いたかったことがあります」


 彼は私の手を取る前に、そう言った。


「あなたは二年間、毎回の舞踏会で、一度も楽しそうに踊っていませんでした。いつも誰かの足を見ていた。私は指揮台から、あなたの顔を見ていました」


「楽しそうに、見えていたでしょう」


「笑ってはいました。けれど数えているときのあなたの目は、仕事をしている人の目でした」


 わたくしは返す言葉を失った。


 父に目配せをすると、父は静かにうなずいた。


  ◇


 大広間は昼間のように広かった。


 客の去った床に、燭台の灯りが長く伸びている。楽団の椅子が片付けられ、壇の上に譜面台がひとつだけ残っていた。


 エルヴィンはわたくしの前に立ち、片手を差し出した。


「ひとつだけ、お尋ねします」


「どうぞ」


「速さは、どうしますか」


 わたくしは目を見開いた。


 二年間、誰もそんなことを訊かなかった。わたくしは常に、他の人の速さに合わせる側にいた。


「私は、あなたに分かってくれとは言いません。教えてください。どのくらいの速さで、踊りたいですか」


 喉の奥が熱くなった。


「……ゆっくり、始めてください。最初の四小節は、とても」


「理由を伺っても?」


「子どものころ、父の手の上で揺られていた速さがあります。わたくしが一番好きな速さです。それより、少しだけゆっくり」


 口にしてから気付いた。この話を誰かにしたのは、生まれて初めてだった。


「覚えました」


 エルヴィンは真面目な顔で頷いた。


「はい」


「それから、少しずつ速く。わたくしの足が慣れたら」


「はい。承知しました」


 彼は私の手を取り、腰に軽く添えた。それから、小さく息を吸った。


 唇が動くのが見えた。


 いち、に、さん。


 声は出していない。口の形だけだ。わたくしの足が出る、ほんの半拍前に。


 ゆっくりした速さはやがて少しずつ速くなる。曲のない広間に靴音だけが響いた。燭台の炎が回るたびに長い影を引いて、天井の梁の上を滑っていく。


 彼の歩幅はわたくしの歩幅より半歩だけ短かった。わたくしの足に合わせて、彼が自分の歩幅を縮めているのだと、すぐに気付いた。二年間わたくしがディルクにしていたことと同じだ。ただ彼は、それをわたくしに悟らせないようにしていた。


 足が勝手に動いた。


 思考よりも先に、体が床を滑り出した。次の一歩へ、そのまた次へ。わたくしの足が追いつくたびに、彼の唇はまた半歩分だけ先を行く。


 数えてもらうというのは、こんなに足が軽いものだったのだ。


最後までお読みいただき、ありがとうございました。

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