【怪談】空き家にも回覧板を回してください
松本貴文が小羽沢へ移り住んだのは、3年前の春だった。
東京の会社でITエンジニアをしているが、仕事の大半は自宅でできる。以前旅行で訪れたとき、山と田畑に囲まれた環境が気に入り、空き家バンクに出ていた古い一軒家を購入した。
築年数はかなり経っていたものの、水回りや床、傷んだ壁を直せば十分住めた。何年か空いていた家らしく、入居したころは庭も荒れていたが、少しずつ手を入れ、今ではすっかり自分の家だと思っている。
小羽沢は田舎だが、山奥に隔絶された集落ではない。車で20分ほど走れば市街地へ出られる。ただ、集落内では高齢化が進み、貴文が越してきてからも空き家は少しずつ増えていた。
移住して3年も経つと、共同清掃や草刈りに出るのも当たり前になった。近所からパソコンやスマートフォンのことで呼ばれることもあり、少なくとも自分では、もう完全なよそ者ではないと思っていた。
4月の終わり、高橋という70代の男性が、青いプラスチック製の回覧板と、膨らんだ古いファイルを持ってきた。
「今年、松本さんのところだから」
「班長ですか」
「そう。まあ、大したことはないよ」
市や地域から届いた連絡を回覧板に挟み、共同清掃や側溝掃除の日程を知らせる。必要なら参加人数をまとめる。それくらいだと高橋は説明した。
貴文の家にもこれまで回覧版が回ってきてはおり、最初の頃はしっかりと見たこともあるが、今は、共同清掃の日程など最低限必要な連絡をスマホのカメラで撮り、内容も特に確認せず、さっさとサインし、次の家に回していた。
「最初は橋場の佐々木さんに持っていけばいい。あとは順番に回って戻ってくるから」
回覧板の内側には、家を回す順番を書いた古い紙が貼られていた。
《橋場の佐々木》
《沢口の佐々木》
《上の菊池》
《井戸端の菊池》
《寺前の高橋》
同じ名字の家が多いため、昔から場所で呼び分けているらしい。
「これ、全部覚えないとまずいですか」
「住んでれば嫌でも覚えるよ」
高橋は笑いながら、分厚いファイルも机へ置いた。
何年分もの世帯表や共同作業の記録が綴じられ、余白には赤や青のボールペンで《転出》《施設》《息子さん対応》《高齢につき免除》などと書かれている。仕事柄、こういう継ぎ足しだらけの資料を見ると整理したくなったが、最初から勝手に変える必要もない。
貴文はひとまず、渡されたものをそのまま使うことにした。
*
最初の回覧板には、市の広報誌と春の地区行事のお知らせを挟んだ。
橋場の佐々木家へ持っていくと、庭先にいた主人が「ああ、今年は松本さんか」と受け取った。その後、問い合わせが来ることもなかった。
4日後の夕方、青い回覧板は何事もなかったように貴文の玄関先へ戻っていた。
思っていたより簡単な役だと思いながら中身を抜き、確認欄にひと通り印が入っていることを確かめる。ファイルへ綴じようとしたところで、ふと手が止まった。
確認済みの欄を上から数え、念のためもう一度やり直した。やはり18ではない。20を越えている。
「……多くないか」
高橋は、この集落に現在住んでいるのは18軒だと言っていた。
一覧には《沢口の佐々木》《下の菊池》《井戸端の菊池》など、まだ貴文が把握していない呼び名も多い。同姓の別世帯を自分が知らないだけなのかもしれない。
数が合わないことは気になったが、その日はファイルを閉じた。
数日後、家の前を通りかかった高橋を貴文は呼び止めた。
回覧順を見せ、《沢口の佐々木》を指すと、高橋はすぐに「ああ、沢のカーブの手前だよ」と答えた。
「やっぱり、あの家なんですね。今は空いてますよね」
「ああ」
貴文はそのまま指を《済》の印へ滑らせた。
「ここにも丸がついてるんですけど」
高橋は紙を受け取り、しばらくそこを見ていた。
「この順番、触ってないよな」
「もらったままです」
「じゃあ、そのままでいい」
紙を返され、貴文は思わずもう一度《沢口の佐々木》を見た。
「誰も住んでないんですよね」
「分かってるよ」
高橋はそれだけ言って歩き出した。
誰が《済》をつけたのかという話にはならなかった。質問を避けられたというより、その先を話すこと自体に意味がないと思われているようだった。
沢口の佐々木は、貴文の家から歩いて10分ほどだった。
わざわざ調べに行くほどのことでもないと思っていたが、翌日の昼休み、散歩のついでに沢沿いの道まで足を延ばした。
古い平屋で、道路側の雨戸はすべて閉じられている。庭には枯れ草が腰の高さまで残り、郵便受けには茶色い錆が浮いていた。
どう見ても空き家だった。
戻ろうとしたとき、家の側面に古いガラス戸があることに気づいた。一枚だけ雨戸がなく、汚れたガラス越しに室内がわずかに見える。
暗い廊下か土間の奥に、白っぽいものが立っていた。
目を凝らすと、小さな石地蔵だった。
高さは子どもの膝ほどしかない。古い家の中に地蔵が置かれていることも妙だったが、それ以上に貴文の目を引いたのは向きだった。
道路にも玄関にも背を向け、家の奥を見ている。
誰かが拝むために置いたものなら、どうしてこちらを向いていないのだろう。
家の中にある何かから目を離さないため、そこへ置かれている。
そんな考えが浮かんだ途端、暗い室内を覗いていることが急に嫌になり、貴文は急ぐように道路へ戻った。
その日の夕方、高橋と顔を合わせた。
「沢口の家、中に地蔵ありますよね。小さいやつ」
高橋は歩きながら聞いていたが、その一言で足を止めた。
「見たのか」
「横のガラス戸からです。中には入ってません」
高橋は沢口の方角を見るでもなく、少し黙った。
「あれ、昔からあるんですか」
「俺が子どものころには、もうあったよ」
それ以上の説明はなかった。
貴文も、なぜ家の中にあるのかまでは尋ねなかった。回覧表のことと同じで、問い詰めれば答えが出てくる種類の話ではないらしい。
*
2回目の回覧板が戻ったとき、貴文は最初から空き家の名前を確認した。
《沢口の佐々木 済》
《井戸端の菊池 済》
《奥の小野寺 済》
前回と同じだった。
回覧の途中にある数軒へ、それとなく経路を尋ねてみた。橋場の佐々木は次の下の菊池へ直接渡し、下の菊池も受け取ったあと次へ回しただけだという。
誰も沢口の空き家へ持っていっていない。
それでも紙には確認済みの印がある。
橋場の佐々木は、貴文が回覧表を見ながら考え込んでいるのを見ると事情を察したらしく、「高橋さんがそのままでいいって言ったなら、それでいいと思うよ」とだけ言った。
貴文には理解できなかったが、少なくとも自分だけが異常に気づいているわけではないらしかった。
*
7月、市から災害時の連絡体制を更新するため、各班の現住世帯と緊急連絡先を確認してほしいという依頼が来た。
貴文は、ちょうどいい機会だと思った。
古いファイルを一枚ずつ確認すると、現在人が暮らしているのは18世帯。別に11戸の空き家があり、建物として残っている家は合わせて29戸だった。
市へ提出するのは、現在実際に住んでいる世帯の情報である。空き家まで含める理由はない。
Excelで18世帯分の住所、氏名、電話番号、緊急連絡先を整理し、そのまま市へ提出した。
作業を終えて古いファイルを見ると、今度は班内資料の乱雑さが余計に目についた。せっかく現在の世帯を洗い出したのだから、回覧順も整理してしまった方がいい。
共同清掃についても、空き家が受け持っていた場所までなくなるわけではない。古い分担表と地図を見比べながら、その区域を近隣の現住世帯へ振り分け直した。
《沢口の佐々木》
《井戸端の菊池》
《奥の小野寺》
新しい資料には、もうその名前はなかった。
古い資料を捨てたわけではない。念のためファイルごと残してある。それでも貴文には、ようやく実態に合った形になったように思えた。
*
異変に最初に気づいたのは、高橋だった。
次の共同清掃の日程表を渡した夕方、高橋が貴文の家へ戻ってきた。手には新しい回覧順が握られている。
「これ、松本さんが作ったのか」
「はい。今住んでる18軒だけに整理しました」
高橋の目が表の上を走り、《沢口の佐々木》があった辺りで止まった。
「空いてる家、全部外したんだな」
市から現住世帯の確認依頼が来ていたこと、班内の資料もついでに整理したことを説明すると、高橋はすぐには返事をしなかった。
「元のファイルは?」
「残してあります」
その一言を聞いて、わずかに表情が緩んだ。
ところが、その日のうちに話は集落内へ回ったらしい。翌朝、橋場の佐々木から「あれ、沢口も井戸端も全部外したのか」と確認され、貴文が頷くと、佐々木は困ったような顔をして口を閉じた。
夕方、高橋がもう一度やって来た。
「なんで先に言わなかった」
それまでより明らかに強い声だった。
「市から今住んでる世帯を出せって言われたんですよ。誰も住んでない家を残す方がおかしいでしょう」
高橋は反論しなかった。
「市の話じゃないんだよ」
「だったら回覧の方は何なんですか」
少し間を置いて、高橋は首を振った。
「正しいとか、そういう話じゃない」
結局、それ以上は言わずに帰った。
*
その数日後、沢口の佐々木の前を通った。
道路からガラス戸を覗くつもりはなかった。それでも白い地蔵が目に入り、貴文は足を止めた。
前に見たときより、ガラス戸に近い気がする。
写真を撮っていたわけではない。暗い家の中では距離の感覚も曖昧になる。
そう思いながら見ていると、床の違いに気づいた。
室内には薄く埃が積もり、その上に落ち葉の欠片や小さな虫の死骸が見える。地蔵の周囲だけ、床の色が少し濃かった。
埃が薄いように見えた。
貴文はガラスへ近づかなかった。
地蔵は今も、家の奥を向いていた。
*
秋の共同清掃は、9月最初の日曜日だった。
朝7時に集会所前へ集合し、道路脇の草刈りや側溝の泥上げをする。
今回は空き家の分も含め、担当区間を18世帯へ再配分している。沢沿いの道は、橋場の佐々木と貴文たち数人でまとめて作業する予定だった。
よく晴れた朝だった。
全員がそろったところで数人ずつに分かれ、沢沿いの道へ向かう。
途中で佐々木が足を止めた。
「ここ、もうやったの誰だ?」
道路脇の草が刈られていた。
前の日に済ませた古い跡ではない。刈ったばかりの草はまだ青く、足で踏むと強い青臭さが上がった。切り口にも湿り気が残っている。
道路の反対側にある側溝も泥上げが済んでいた。
黒い泥が路肩へ盛られ、その表面からまだ水が滲んでいる。側溝を流れる水には濁りが残り、底の砂がゆっくり動いていた。
ついさっき誰かが作業したようにしか見えない。
「昨日はまだ草あったぞ」
佐々木が言った。
集会所からここまで来る道はほぼ一本で、途中で誰ともすれ違っていない。草刈り機の音を聞いた者もいなかった。
貴文は新しい分担表を開いた。
ここから先も、自分たちの担当になっている。
ところが刈られた草は、道の途中で不自然なほどきれいに途切れていた。古い石積みの角を境に、それより手前は作業済みなのに、その先には朝露を載せた草が残っている。
その石積みには見覚えがあった。
分担を作り直したとき、古い資料で境界を確認している。
そこまでが《沢口の佐々木》だった。
新しい表から名前を消し、担当区域も統合したはずなのに、現場だけは以前の分担のまま残っている。
「高橋さん」
呼ぶと、高橋はすでに境界を見ていた。
顔から血の気が引いている。
高橋は口数少なく「今日はこっちはやるな」と貴文たちを石積みの先へ移した。
貴文たちはそこから草を刈り始めた。
30分ほどして、飲み物を取りに戻った貴文は、また足を止めた。
さっきまで、刈られた草は石積みのところで終わっていた。
今は、その先まで何本か倒れている。
ほんの1、2メートル。
草刈り機を入れたような跡ではなく、同じ方向へ押し倒されたように見えた。
後ろから来た高橋も同じ場所を見た。
次の瞬間、貴文の腕を強く掴んだ。
「松本さん。今日はもう、そこ見るな」
その手には、思った以上の力が入っていた。
沢沿いの作業を終え、別の場所へ移る途中、貴文は井戸端の菊池が昔受け持っていた側溝にも目を留めた。
そこも、すでに泥が上げられていた。
路肩に積まれた黒い泥はまだ濡れている。新しい分担では別の世帯が受け持つ場所だったが、作業されている範囲は古い資料の《井戸端の菊池》の区間できっちり止まっていた。
一方、奥の小野寺が受け持っていた場所には、手をつけた跡がなかった。
貴文は古いファイルの余白にあった文字を思い出した。
《高齢につき免除》
その場で誰かに話そうとは思わなかった。
*
清掃が終わった日の夕方、高橋が貴文宅を訪ねてきた。
「元のファイル、出してくれ」
貴文が持ってくると、高橋は中身を確かめ、古い回覧順を取り出した。
「市に出したものまで直せっていうなら無理ですよ」
「市のはいい。こっちだけ戻してくれ」
理由を聞いても、高橋は答えなかった。
朝の石積みの前で見た顔を思い出し、貴文もそれ以上問い詰めるのをやめた。
「明日やります」
高橋は古い紙から目を上げた。
「すぐにやってくれ」
冗談を言っている顔ではなかった。
*
高橋が帰ったあとも、外はまだ薄明るかった。
明日の午前中には元へ戻す。そう考えながら庭へ出ると、自宅の軒下に立て掛けてあった古い板が外れかけているのが目についた。
雨樋から落ちる水が長年当たり、下の木材が傷んでいる。今直しておこうと思ったのは、半分は気を紛らわせたかったからだった。
工具を持ち出し、古い板を外す。
奥にいくつか石があった。
基礎を補強するためのものだと思い、一つを手前へ引き出した。
土を払ったところで、手が止まった。
丸い頭に、閉じかけた目、小さな鼻と口が彫られている。
地蔵の頭部だった。
首から下はない。
自然に欠けたというより、首の部分だけを落としたように断面が妙に平らだった。
貴文はしゃがんだまま、それを両手で持っていた。
軒下の暗がりを覗く。
少し奥に、胴体らしい石が横倒しになっている。そのさらに奥にも、丸みを帯びた石が土から半分だけ出ていた。
貴文は手を伸ばさなかった。
沢口の佐々木に置かれていた地蔵が頭に浮かんだ。あれは壊れておらず、家の奥を向いていた。
手にした頭部を元の場所へ戻そうとして、貴文は初めて、最初にどちらを向いていたのか自信がないことに気づいた。
家の外ではなかった気がする。
それだけを頼りに顔を基礎側へ向け、板を元へ戻した。
*
音で目が覚めた。
時計を見ると、午前2時17分だった。
しばらく何の音なのか分からなかった。
庭の方から、
ザッ、ザッ…
と一定の間隔で聞こえてくる。
草刈り機ではない。もっと遅く、鎌か何かで草を切っているような間隔だった。
貴文は布団の中で耳を澄ませた。
ザッ…
少し間が空く。
ザッ…
最初は寝室の窓の近くから聞こえていたが、やがて少し離れ、家の横へ移っていく。誰かが庭を回りながら作業しているとしか思えない。
貴文はカーテンを指一本分だけ開けた。
月明かりの薄い庭には、誰もいない。
それでも、
ザッ…
音だけは続いている。
視線を動かしている間にも、草が何本か揺れた。風はなかった。
貴文はカーテンを閉めた。
やがて草を切る音が止むと、今度は道路側から、硬いものが水の中を掻く音がした。
ガリッ…
少し間を置いて、
ガリッ…
見ないつもりだったが、確かめずにはいられなかった。
別の窓から側溝を覗く。
誰もいない。
水だけが濁っていた。
暗い流れの中で泥が舞い、その横の路肩には黒い塊がある。しばらく見ていると、濡れた泥の端が崩れ、下から押し出されたように山がわずかに高くなった。
貴文は窓から離れた。
何がそこにいるのかは見えない。見えないまま、仕事だけが進んでいた。
どのくらい経ったのか分からない。
外の音が完全に止んでからも、貴文は居間で電気をつけたまま座っていた。
そのとき、すぐ近くで、また音がした。
庭ではなく、昼間地蔵の頭を戻した軒下からだった。
数秒後、
コッ…
硬い石が木へ軽く当たり、そのあと立て掛けた板の裏側を何かがゆっくり擦った。
ギギ……
貴文は玄関を見たが、外へ確かめに行く気にはならなかった。
擦る音がもう一度したあと、しばらく静かになった。
終わったのかと思ったころ、今度は床の下で、また鳴った。最初は軒下から少し離れた位置だった。
さっきより近い。
速くはないが、音がするたびに少しずつ距離が縮まってくる。次の音は、貴文が座っている場所のほとんど真下から
「コン…コン…コン!コン!コン!コン!」
と激しく叩く聞こえた。
貴文は耳をふさぐ…
なにが起きているのか、理解ができない。理解したくない。なにに対してか分からないが、ひたすら心の中で謝った。
「ごめんなさい」
「許してください」
「もうしません」
「すぐに直します」
しばらくして、何も聞こえなくなった…しかし、下まで何かが来たという感覚はずっと残り続けている。
まだ…いるのか…?
貴文は朝まで電気を消せなかった。
*
明るくなってから外へ出た。
庭の草が一部だけ刈られている。
側溝からは泥が上げられ、昨夜見た黒い山が路肩に残っていた。
貴文は古いファイルを持ち出し、昔の共同作業分担を確認した。
昨夜作業されていた場所は、この家が以前受け持っていた区間と重なっている。
さらに記録を遡る。
前の所有者が転居してから、貴文が購入するまで、この家は数年間空いていた。それなのに、その期間の共同清掃記録には、ときどき《済》がついている。
3年前の欄まで来ると、余白に《松本さん入居》と書かれていた。
そこから先の日付には見覚えがある。貴文自身が参加した清掃や草刈りだった。
ファイルを閉じた。
昨日までなら、もっと調べたかもしれない。
今は、知りたいとは思わなかった。
その日の午前中、貴文は18世帯版の回覧順を外した。
共同清掃の分担も、古い家名が残る形へ戻した。
市へ提出した現住世帯の資料には手をつけなかった。行政上、この集落に暮らしているのは18世帯で間違いない。
ただ、班の中だけは元へ戻した。
軒下の板も開けたが、地蔵の頭部には触れなかった。板の隙間から位置だけを確認して、すぐに閉じた。
その夜、草を刈る音はしなかった。
翌日も、その次の日も聞こえなかった。
共同清掃の記録には相変わらず空き家の名前が残り、誰もいない家が昔受け持っていた場所は、ときどき誰も来ていないうちに済んでいた。
異常がなくなったわけではない。ただ、それ以上こちらへ出てこなくなった。
貴文には、それで十分だった。
*
冬を越した翌年3月、沢口の佐々木が取り壊されることになった。
屋根が傷み、雪の重みで一部が沈み始めたため、所有者である親族が解体を決めたという。
話を聞いた瞬間、貴文の方が不安になった。
名前を一覧から消しただけで、あれだけのことが起きた。家そのものを壊して、本当に大丈夫なのか。
高橋に会ったとき、思わず尋ねた。
「沢口、本当に壊すんですか」
「ああ。もう危ないからな」
「いや、家の傷みじゃなくて……壊しても大丈夫なんですか」
高橋は何を聞かれているのか分かったらしい。それでも驚かなかった。
「沢口なら、もういいよ」
貴文はその言葉に引っかかった。
「もう?」
高橋は答えなかった。
その後、橋場の佐々木に解体の話を聞いても、「今ならいいんじゃないか」と落ち着いていた。別の高齢者も「ちょうどよかった」と言う。
なぜ高橋たちには「もういい」と分かるのか、貴文にはまったく理解できなかった。聞いても誰も説明しない。そのことの方が、解体そのものより不気味だった。
解体工事が始まった。
貴文は何か起きるのではないかと思っていたが、工事は何事もなく進んだ。
それがかえって不気味に感じた。。
2日目の夕方、買い物帰りに沢口の前を通った。
家は半分ほどなくなっていた。
屋根も壁も剥がされ、これまで隠れていた室内が道路から丸見えになっている。
重機の脇に、あの石地蔵が立っていた。
周囲の床も壁も壊されているのに、そこだけ取り残されたように残っている。
作業員が意識して避けているのか、たまたま最後になっただけなのかは分からなかった。
少し離れたところで高橋が工事を眺めていた。
地蔵が見えているはずなのに、特に何も言わない。
貴文はその横顔を見て、声をかけるのをやめた。
翌日には家は完全になくなり、地蔵も見当たらなかった。
*
4月、新年度最初の回覧板が戻ってきた。
確認欄には、《井戸端の菊池》《奥の小野寺》《田端の藤原》など、今も誰も住んでいない家の名前が残っていた。
《沢口の佐々木》だけがない。
代わりに別の家が増えているわけでもなかった。
貴文は、その名前があった場所をしばらく見て、回覧板を閉じた。
貴文はあの日の夜以来、引っ越しを考えた。
在宅勤務なのだから、小羽沢に住み続ける必要はない。家を売り、別の町へ移ることもできる。
不動産サイトを開き、いくつか物件を眺めた日もあった。
それでも具体的に動くところまではいかなかった。
この家も、貴文が来る前には空き家だった。そのころの共同作業記録にも《済》が残っている。
軒下には、首を落とされた地蔵がある。
自分が出ていけば、この家はもう一度空き家になる。あの夜のものがそのときどうなるのか、貴文には分からなかった。
引っ越せば確かめられる。
だが、確かめた結果…なにが起きる?
引っ越した自分は大丈夫なのか?
貴文は何度も考えを巡らせ、考えれば考えるほど考えたくなくなり、毎回、不動産サイトを閉じるのであった。
*
その春で、班長の任期が終わった。
次に担当するのは、昔から小羽沢に住む小野寺という60代の男性だった。
「これが回覧順で、共同清掃の分担も中に入ってます」
小野寺はファイルを開き、何枚かめくった。
「うん。これでいい」
小野寺は古いファイルを抱え、帰り際にふと笑った。
「長くいると、直さなくなるんだよ」
以前なら、その意味を聞いたかもしれない。
今は聞かなかった。
数日後、小野寺から回覧板が届いた。
沢口の佐々木だけは、もうなかった。
貴文は《松本》の欄に日付を書き、丸をつけた。
以前なら、その下まで目を通し、空き家がいくつ残っているのか数えただろう。今はもう確認しないし、軒下の板もあれから一度も開けていない。
夜は静かだった。
それで十分だった。
貴文は回覧板を閉じ、次の家へ持っていった。




