第8話 泥に咲く華の凋落
カツン、カツン。
石造りの廊下に足音が響いた瞬間、私の身体はビクンと反射的に強張った。
(来た……!)
心臓が早鐘を打ち、喉がカラカラに渇く。
あの無機質で、恐ろしくて、けれど触れられた場所が火傷するように熱くなる番犬が来たのだ。昨日洗われた髪や太ももが、彼の大きな掌の記憶を呼び起こしてジンジンと疼く。
私は這うようにして鉄格子に近づき、息を詰めてその姿が現れるのを待った。
だが――。
「……随分と惨めな姿になったね、ルチア」
格子の向こうに立っていたのは、見知らぬ無表情な兵士と、私が今最も会いたくなかった――
いや、心の底ではまだ「私を助け出してくれる」と縋っていた相手だった。
「セドリック様……! それに、クロエ……!」
私の婚約者である第一王子セドリックと、その腕にこれ見よがしにしなだれかかっている勝ち誇った顔の男爵令嬢。
私は泥と水でシミだらけになったドレスを恥じながらも、必死に鉄格子に縋りついた。
「セドリック様! お願いです、ここから出してください! あの夜の事は誤解なんです! 私は何も……!」
「気安く僕の名を呼ぶな、汚らわしい」
冷酷な声とともに、鉄格子から伸ばした私の手は、まるで這い寄る虫でも見るような目でパシッと払いのけられた。
「あ……」
「君が他の男に尻尾を振っていたのは、クロエがしっかり見ているんだ。言い逃れができるとでも思っているのかい?」
セドリックはそう言うと、わざとらしくクロエの細い腰をグッと引き寄せた。
そしてあろうことか、閉じ込められた私の目の前で、クロエの耳元に顔を寄せ、チュッ、と下品な音を立ててその耳たぶを食んだのだ。
「ああっ、セドリック様……っ。ルチア様が見ていらっしゃいますわ」
「構うものか。僕の愛しいクロエ……君の純真さに比べたら、あの女の何と醜いことか」
(ちょっと待って……私の前でいちゃつくなんて、どの恋愛小説にもなかった展開よ! 浮気した男が戻ってくる黄金ルートはどこへ行ったの!? こんな薄情な男に、私は人生を賭けていたの……!?)
目の前で繰り広げられる、三流芝居のような愛の囁き合い。
私のための「最高のトロフィー」だったはずの男が、私より遥かに格下の、地味で取り柄もない女に鼻の下を伸ばし、蕩けた顔で発情している。
圧倒的な「女としての敗北感」。
そして、自分の所有物だった男が他人のものになるのを檻の中から見せつけられるという、屈辱に混じるドロドロとした謎の興奮。
知識として知っていた「裏切り」のシーンとは全く違う。
そこにあるのはロマンチックな悲恋などではなく、ただただ生々しく、滑稽で、吐き気がするほどの現実だった。
あのカイルの、有無を言わさぬ圧倒的な「雄」としての暴力的な熱とは違う。
目の前にいるセドリックの姿は、ひたすらに小市民的で、卑屈で、冷たく不快だった。生理的な嫌悪感で胃の腑がせり上がる。
「でも安心していいよ、ルチア」
セドリックはクロエの首筋に顔を埋めたまま、ねっとりとした視線を私に向けた。
「しっかりと反省して、僕の足元で許しを乞うなら……お前の事もまた、隅に置いて可愛がってやらないでもないからね」
「……っ、気持ち悪い……!」
「なんだと!?」
私が思わず漏らした本音に、セドリックは顔を真っ赤にして激昂した。
その時、クロエが「くすくす」とわざとらしい笑い声を上げた。
「まあまあ、セドリック様。お腹が空いて気が立っていらっしゃるのよ。それにしても……あら、ルチア様。そのドレス、もうボロボロで臭いもひどいですわね。王都の華が聞いて呆れますわ」
勝ち誇ったクロエの視線が、私の惨めな姿を上から下まで舐め回す。
「そうだね。高貴なドレスは、今の君にはもう似合わない」
セドリックは傍らに控えていた兵士から布の塊を受け取ると、鉄格子の隙間から無造作にそれを投げ入れた。
バサッ。
床に落ちたのは、平民の罪人が着るような、ゴワゴワとした生成りの麻の服だった。
「慈悲を与えよう。その雑巾のような服がお似合いだ。着替えて、自分の身の程を知るんだな」
「……っ!」
「行くよ、クロエ。こんなカビ臭い場所に長居すると、君まで汚れてしまう」
「ええ、セドリック様」
二人は私の絶望をスパイスにして笑い合いながら、足音を遠ざけていった。
***
静まり返った牢獄。
誰もいなくなった空間で、私は床に落ちた麻の服を震える手で拾い上げた。
擦り切れ、色を失ったその粗末な布は、私が「ベルローズ子爵令嬢ルチア」から、「名もなき囚人」へと完全に叩き落とされたことを宣告していた。
「あ……あぁ……っ」
ドレスと一緒に、私の最後のプライドがボロボロと崩れ落ちていく。
セドリックへの未練など、もう欠片も残っていなかった。あるのは、あの薄情で醜悪な男と女への、真っ黒な殺意と底なしの絶望だけ。
(私……私、どうなっちゃうの……?)
ゴワゴワの服を胸に抱きしめながら、私は暗闇の中で一人震えた。
惨めで、寒くて、恐ろしい。
その時、私の脳裏を過ったのは――私を「犬」と呼び、泥だらけの脚を洗い、圧倒的な力で私を支配したあの大きな掌だった。
(早く……早く、あの番犬に戻ってきてほしい……っ)
自分を嬲る看守の熱と匂いを、無意識のうちに「救い」として求めてしまっている自分。
それに気づいた瞬間、私はついに声を出して、ボロボロと泣き崩れることしかできなかった。




