第7話 汚された美
最悪だ。
本当に、最悪の気分だった。
冷たい石の床に座り込む私のプラチナブロンドは、昨日与えられた食事のソースがこびりついて固まり、淡いピンクだったはずのドレスは泥と埃で見る影もない。
(いくらなんでも限度があるわ。こんな姿、誰にも見せられない……っ)
誇り高きベルローズ子爵家の令嬢たるもの、常に完璧に美しくあるべきだ。
たとえこんな牢獄に閉じ込められていようと、清潔さだけは保たなければ。
そう思い詰めていた時、ガチャン、と重い鉄格子の鍵が開く音がした。
現れたのはカイルだった。
その手には、なみなみと冷たい水を張った木桶と、粗末な布が握られている。
(水……! これで顔と髪だけでも洗えるわ!)
私は本能的に身を乗り出し、彼の手から桶を奪い取ろうとした。
「貸して! 自分で洗うわ!」
だが、私の手は空を切り、カイルは桶を高く持ち上げて私を見下ろした。
その瞳には、熱も、哀れみも、一切の感情が抜け落ちている。
「……犬が、自分で身体を洗えるか?」
「え……?」
「飼い主に大人しく洗われていろ」
氷のように冷たい宣告。その言葉に、私が「令嬢として自分で身を綺麗にする」という最後の言い分は完全に封じられてしまった。
「な、何を馬鹿なことを……っ、いやっ!」
カイルは私の抗議など耳に入っていないかのように、無造作に私の頭を掴んだ。
分厚く硬い掌が、私の頭皮をがっしりとホールドする。
逃げようともがくが、圧倒的な「雄」の骨格と筋力を前にしては、小鳥が暴れている程度の抵抗にしかならない。
「動くな」
低い声とともに、冷たい水を含んだ布が私の髪と頭皮をゴシゴシと擦り始めた。
乱暴で、けれど汚れを確実に落としていく事務的な手つき。
至近距離にカイルの身体がある。微かに漂う革と鉄の匂い、そして彼自身の汗が混じった、むせ返るような強烈な男の匂いが鼻腔を支配する。
(ちょっと、この手つき……! 乱暴に洗わないでよ。でも、なんで……? こんなに心臓がうるさくなるなんて……。これじゃ、まるで私の方が洗われるのを待っていたみたいじゃないの!)
頭を洗われているだけだというのに、彼の太い指先が頭皮をマッサージするように動くたび、背筋にゾクゾクとした電流が走る。
知識としては知っている。「嫌よ嫌よも好きのうち」なんて、三流の恋愛小説の展開だ。私は絶対にこんな男に屈したりしない。
なのに、現実はどうだ。
顔の汚れを拭い去られた後、カイルの手は迷いなく私のドレスの裾へと伸びた。
「……っ、そこは自分で!」
悲鳴に近い声で叫び、私は最後に残ったプライドを総動員して彼を睨みつけた。
「これ以上触ったら、ただじゃおかないわよ! 言ったでしょ、私はセドリック王子の婚約者なのよ。殿下に告げ口をすれば、あなたなんて……!」
「黙れと言ったはずだ」
私の虚勢など、巨大な岩にぶつかるさざ波にも等しかった。
カイルは表情一つ変えず、泥に汚れたドレスの裾を無惨に捲り上げた。
「ひっ……!」
容赦なく露出させられた、私の白く柔らかな太もも。
そこに、冷たい水を含んだ布が押し当てられる。ヒヤリとした感覚に身をよじった直後、布越しではない、カイルの直接の「厚く硬い掌」が私の肌に触れた。
冷たい水と、火傷しそうなほど熱い男の掌。
その極端なコントラストが、私の身体の芯をひどく疼かせた。
「あ……っ、ぁ……」
ビクン、と大きく肩が跳ねる。
心の中ではありったけの言葉で彼を罵倒しているのに、カイルのザラついた指先が泥を拭い去るように太ももを撫で上げるたび、触れられた場所からドロドロと力が抜け落ちていく。
(嘘、なんで……なんでこんなに、熱いの……っ)
見下ろしてくるカイルの顔には、微塵の欲情もなかった。
彼はただ、泥まみれになった自分の所有物を、事務的に「洗浄」しているだけ。
その事実が、たまらなく惨めだった。私だけが、こんなにも息を乱し、彼の手に触れられることで身体を熱くしてしまっている。
彼にとって、私は誘惑する価値すらない、ただの「犬」なのだという圧倒的な現実。
やがて、カイルはゆっくりと立ち上がった。
私の脚から熱い掌が離れ、途端に夜の冷気が濡れた肌を撫でる。
「……少しはマシになったな」
床に布を放り投げ、カイルは冷たく私を見下ろした。
「だが、中(内面)はまだ汚れたままだ」
「……っ」
意味深な言葉を残し、彼は再び重い扉の向こうへと消えていった。
鍵がかけられる音が、やけに虚しく牢獄に響く。
一人残された私は、濡れた髪からポタポタと水滴を落としながら、力なく床にうずくまった。
綺麗になったはずなのに。
カイルに触れられた太ももや頭皮が、今もなお火傷したように熱を持ち、ジンジンと脈打っている。
(こんなの、絶対におかしいわ……)
絶望的なまでの屈辱。
それなのに、私は明日もまた、あの無機質で熱い手が私に触れてくることを――
心のどこかで、期待してしまっているのだった。




