第5話 跪(ひざまず)くプライド
朝。冷たい石の床で目を覚ました私の身体は、昨夜の記憶を呼び起こすように、芯からカッと熱を帯びていた。
顎を掴まれた感触、太ももを這い上がってきた分厚い手、そして耳元で囁かれた『もっと上手に鳴く準備をしておけ』という恐ろしい声――。
「……っ、ふざけないでよ!」
私は頭を振って、全身を駆け巡った正体不明の震えを振り払った。
(あんな奴、ただの薄汚い番犬じゃない! 私がここを出たらすぐにセドリック様に言いつけて、一番残酷な方法で処刑してやるんだから! ギロチンじゃ生温いわ、市中引き回しの上、八つ裂きの刑よ!)
心の中で高笑いして、無理やり自尊心を繋ぎ止める。
そうだ、私は王太子妃になるはずだった女。
あんな男の脅しに屈してなるものか。
しかし、私のその浅はかな決意は、カツーン、という重い足音によってあっさりとヒビを入れられた。
「……随分と険しい顔をしているな。準備はできたか?」
鉄格子の向こうに姿を現したカイルは、昨日と同じように冷ややかな、けれどどこか私の反応を楽しむような視線を向けてきた。
「な、んの準備よ! 私は――」
言い返そうとした私の目の前で、ガチャンッ、と無慈悲な音が鳴る。
カイルが平然と牢屋の鍵を開け、中へと踏み込んできたのだ。
「ひっ……!」
途端に、昨夜の絶対的な力の差がフラッシュバックする。
狭い牢屋が、彼の放つ強烈な「雄」の威圧感で満たされる。私は蛇に睨まれた蛙のように、喉がヒュッと鳴ったまま一歩も動けなくなってしまった。
「昨日言ったはずだ。マシな扱いを受けたいなら、相応の芸を見せろとな」
カイルは私の見下ろし、ぞっとするほど冷酷な声で、信じがたい命令を口にした。
「犬の真似をしろ」
「…………は?」
「聞こえなかったのか? 誇り高きお嬢様が、俺の足元で犬のように鳴いて媚びるなら、パンの他に温かいスープくらいはつけてやろうと言っているんだ」
血の気が引いた。
冗談じゃない。
私が?
この世界で一番可愛いルチア・ベルローズが、犬の真似!?
「ふ、ふざけないで! 誰がそんな――」
「やらないなら、昨日の『続き』から始めるが?」
カイルが一歩、距離を詰める。
分厚い革手袋が微かに擦れる音がしただけで、私の太ももが昨日の熱を思い出してビクンと跳ねた。
逆らえば、またあの大きな手で逃げ場なく蹂躙される。
その恐怖が、私の喉から勝手に声を引きずり出した。
「わ、わんっ!」
顔を真っ赤にして、涙目で叫ぶ。
「……ほ、ほら、鳴いたわよ! これでいいのでしょう!? さっさと食事を――」
「誰が人の言葉を喋っていいと言った?」
「え……」
底冷えするようなカイルの鋭い眼光に射抜かれ、私は息を呑んだ。
「犬なら犬らしくしろ。俺が許可するまで、二度と人の言葉を口にするな」
「そ、そんなの……っ」
「――あ?」
低く凄む声と、見下ろす冷酷な瞳。
圧倒的な暴力の気配を前に、私の口は勝手に閉ざされた。
反論しようとすればするほど、身体の奥底から込み上げる恐怖(と、それに混じる奇妙な痺れ)に支配され、声帯が震えるのだ。
(こ、こいつ~~~っ! 覚えてなさいよ! 王子の婚約者である私をこんな目に遭わせたこと、末代まで後悔させてやるんだから!!)
心の中ではありったけの呪詛を叫んでいるというのに、私の唇から漏れたのは、情けない音だった。
「……わん」
「……いいだろう。なら次は、四つん這いになれ」
「――っ!?」
耳を疑った。
泥だらけの、埃とカビに塗れたこの石の床に?
(知識としては知ってるわよ! 小説の中で、奴隷落ちした令嬢がこういう辱めを受けるシーン! でも、あれはフィクションだからいいのよ! 現実は全然興奮なんてしない、ただただ惨めで恥ずかしいだけじゃないの!!)
頭の中はパニックだ。
拒絶しようと顔を上げるが、カイルの有無を言わさぬ冷徹な視線と、一歩踏み出してきたブーツの重い音に、私の膝はガクンと折れた。
破れたドレスの裾が泥に汚れるのも構わず、私は震える両手と両膝を床についた。
かつて王太子妃候補として、誰よりも背筋を伸ばして歩いていた私が。
今、薄暗い牢屋の中で、一人の男の足元に「獣」として跪いている。
「……よくできたな。お嬢様」
カイルの大きな手が、私の頭にポン、と置かれた。
乱暴ではなく、まるで本当に飼い犬を撫でるような、ゆっくりとした手つき。
その分厚い掌の熱と重みが、私の残けのプライドをゴリゴリと削り取っていく。
「っ……ぅ……」
悔しい。
恥ずかしい。
今すぐ死んでしまいたい。
けれど、頭を撫でられるというたったそれだけの行為に、抗いがたい支配の快感が混ざっていることを、私の身体は否定できなかった。
「返事はどうした?」
頭上から降ってくる、甘さすら帯びた低い命令。
私はもう、心の中でどれだけ彼を罵倒しても、その声に逆らうことはできなかった。
「…………わん……っ」
涙を一滴床に零しながら、私はただ震える声で、彼に従属の鳴き声を捧げることしかできなかった。




