第3話 不遜な番犬との出会い
冷たく硬い石畳の感触で目が覚めた。
視界に入るのは、埃の舞う高い天井と、申し訳程度の藁が敷かれた粗末な寝台。
「……最悪。本当に最悪だわ」
泥にまみれたピンクのドレスは引き裂かれ、自慢のプラチナブロンドも絡まってボロボロ……。昨夜の悪夢のような出来事を思い出し、胸の奥がギュッと縮みそうになる。
けれど、私はルチア・ベルローズよ。
ただで起き上がるはずがない。
差し入れられた朝食は、石のように硬いパンと、妙に生臭い水だけ。
一口かじって吐き出しそうになったけれど、私はすぐに唇を吊り上げた。
(……いいわ。絶望して泣き喚くなんて私らしくない。要は、この塔の男たちを私の虜にしてしまえばいいのよ。所詮は卑しい兵士だもの。私が少し色っぽく微笑んで見せれば、ふかふかのベッドも、温かいスープも、すぐに持ってこさせる自信があるわ!)
そう。
格子の向こう側の男なんて、檻の中の猛獣を眺めるようなもの。
私は安全な場所から、餌をぶら下げて操ってやればいいだけなのだ。
カツーン、カツーン。
重々しい足音が響き、鉄格子の向こうに一人の兵士が姿を現した。
私はハッとして息を呑む。
現れたのは、見上げるほど体格の良い男だった。
兵士の安物の鎧を着ているが、そこから覗く首筋や腕の筋肉は、昨日私を襲ったベリルとは比べ物にならないほど「雄」としての圧を放っている。
兜の奥から覗く瞳は、深い闇のように冷徹で――
私の美貌を前にしても微塵も揺るがない。
「……おい、生きてるか」
地を這うような低い声。
私はわざとらしく震えて見せ、格子のそばまで這い寄った。
「……あ、あの……。あまりに寒くて、喉も渇いてしまって……」
潤ませた瞳で彼を見上げる。
これぞ、男を骨抜きにする『儚げな令嬢・絶望編』だ。
男は無言で私を見下ろしている。
……いいわ、食いついた。
私は確信し、格子の隙間から細い指先を伸ばした。彼の無骨な脛当てに触れるか触れないかの距離で、しどけなく腰を落とす。
「ねえ、兵士さん。あなた、お名前は?」
「……カイル」
「そう、カイル――私をここから出してとは言わないわ。でも、もう少し……人らしい扱いをしてくださらない? もっといい食事を運んできてくれたら、貴方に『素敵なご褒美』をあげてもいいわよ……?」
私は艶然と微笑み、彼を挑発するように、破れたスカートの裾に手をかけた。
ゆっくりと、白く滑らかな太ももが露わになるまで捲り上げていく。
(……ふふ、格子の向こうなんだから、手を出せるわけないわ。ちょっと期待させるだけで、この男、身銭を切って豪華な食事を持ってくるに決まってるんだから! これなら、童貞の兵士様には夜のおかずとして十分すぎる刺激よね?)
私は得意満面で、羞恥心を押し殺して彼を見つめ返した。
さあ、鼻の下を伸ばして、私の機嫌を取りなさい。
けれど。
「…………なんだ、その程度か」
その男――
カイルの声は、熱を帯びるどころか、零下まで冷え切っていた。
「なっ……」
「交渉をしたいなら、さっさと全部見せろ。それともなんだ、その汚い脚を見せれば満足だとでも思ったのか?」
彼は鼻で笑うと、私をまるで市場で品定めされる家畜か、見世物小屋の動物を見るような目で見つめた。
「価値があると思うなら、早くしろ。出来が良いなら、パンにバターくらいは塗ってやる。お前が売れるものは、もうそれしかないんだろう?」
圧倒的な屈辱が、頭の先から冷や水を浴びせられたように私を襲った。
けれど、そのまま黙り込むなんて、ルチア・ベルローズの名が廃るわ!
私は燃えるように熱い頬を隠しもせず、ガバッとスカートを乱暴に下ろすと、格子を掴んで彼を睨みつけた。
「べ、別に、本気で誘惑したわけじゃないわよ! 貴方みたいな童貞臭い朴念仁がどんな顔をするか、ちょっとからかってみたくなっただけなんだから!」
私の精一杯の虚勢に、カイルはわずかに眉を動かした。
「……ほう」
「残念ね! 気が変わったわ。これ以上は、あんたなんかに絶対に見せてやらないんだから! せいぜい今夜、さっきの私の脚でも思い出しながら、悶々と眠れなくなるがいいわ!」
ふんっ、と鼻を鳴らしてそっぽを向く。心臓は壊れそうなほどバクバク鳴っているけれど、負けたままで終わるなんて死んでも嫌だ。
「……フン。まだ吠える元気があるのか」
カイルは、先ほどまでの冷淡な無関心さとは違い、どこか面白そうに、獲物を観察するような目でこちらを見つめた。
「無様に抵抗する前に、自分の置かれた状況をよく考えるんだな。お前を救えるのは、この俺だけ――」
「……っ!」
「次は、もう少しマシなものを見せてみろ。……『ご褒美』に値するだけのものをな」
重い足音が遠ざかっていく。
私は冷たい床に膝をつき、ガタガタと震える手で自分を抱きしめた。
(なによ……なによあの男! むかつく! むかつくわ! 私を……このルチア・ベルローズを、あんな風に扱うなんて!)
悔しくて、恥ずかしくて、視界が滲む。
けれど、彼が去り際に残したあの低い声が、耳の奥にこびりついて離れない。
今まで受けてきたどの賞賛よりも、あの冷たい「要求」の方が、身体の芯を熱くさせていることに、私はまだ気づきたくなかった。
(絶対に……絶対にあいつを跪かせてやるんだから……!)
闇の中で、私は屈辱に震えながらも、その瞳にはまだ折れない光を宿していた。




