第2話 有頂天からの転落
夜会の会場は、今日も私、ルチアのために輝いていた。
シャンデリアの煌めきも、楽団が奏でるワルツも、すべては私の引き立て役にすぎない。
「ルチア様、今宵も月より美しい……」
「僕と一曲、踊っていただけませんか?」
群がる男たちを、私は扇子の隙間から流し目で品定めする。
(あーあ、どいつもこいつも私のことをさり気なくエッチな目で見ちゃって。隠しているつもりなんでしょうけど、丸わかりなのよね。これだから男は――まっ、夜のおかずにするくらいは許してあげるわ)
「ふふ、ごめんなさい。少し風に当たりたい気分なの」
そう言って小首をかしげれば、男たちは残念そうに、けれど恍惚とした表情で道を開ける。
簡単すぎるわ。
この国は私の箱庭で、男たちは私の魅力に抗えない哀れな下僕。
そう信じて疑わなかった。
その時だった。
「ルチア嬢……少し、よろしいですか」
声をかけてきたのは、私が最近「攻略」したばかりのベリル子爵だった。
彼の目はどこか充血し、呼吸が少し荒い。
けれど私は、それを「私への抑えきれない情熱」だと解釈した。
(あら、もう限界かしら? きっとまた、高価なプレゼントを用意しているのね。……まあ、昼間のサファイアのお礼くらいは聞いてあげてもいいわ。あわよくば、跪いて愛の告白でもしてくれるかしら?)
私は余裕たっぷりの笑みを浮かべ、彼の手を取った。
「ええ、いいわよ。静かなところでお話ししましょう?」
ベリルに連れられ、人気のない庭園の奥、鬱蒼と茂る植え込みの影へと足を踏み入れる。
ダンスホールの光が届かない、湿った土の匂いが立ち込める場所。
そこで突然、腕を強く引かれた。
「きゃっ!?」
世界が反転した。
背中に走る鈍い痛み。私は冷たく濡れた地面に押し倒されていた。
(な、何を……!? 私のドレスが汚れたら、貴方の家が潰れるくらいの賠償金を請求するわよ!?)
「な、何をなさいますの!? 私のドレスが……」
「黙れ!!」
耳元で怒鳴られ、私は思考が凍りついた。
ベリルの顔が目の前にある。昼間の、あの気弱で頬を染めていた彼ではない。
瞳孔が開いたその目は、獲物を狙う獣のように濁っていた。酒と、脂汗の不快な臭いが鼻をつく。
「お前……俺を笑っていただろう」
「え……?」
「あの時、俺が必死に口説いている間、お前の目は俺を見ていなかった! 俺を値踏みして、心の中で嘲笑っていたんだ!」
(……! 何言ってるのよ、コイツ? でも大丈夫、男なんて単純なんだから。これまでの経験上、か弱く縋ればすぐに毒気を抜かれるはずだわ)
私は震える手で彼の上着の袖を掴み、涙をいっぱいに溜めた瞳で見上げた。
必死の『上目遣い・改』。
「こ、怖い……ベリル様、痛いですぅ……。そんな怖い顔しないで、優しくして……?」
「ふざけるなッ!!!」
バチンッ!
乾いた音が響き、頬に熱い痺れが走った。
えっ、殴られた?
――私が?
理解が追いつかない。頬の痛みより、私の「武器」が全く通用しなかった事実が、背筋を氷のように冷たくした。
「そ、そんな……いや……!」
ベリルの荒い手が、私のドレスの胸元にかかる。
布が裂ける音。剥き出しの肌に触れる夜風と、彼の熱く湿った指の感触。
初めて感じる、「男」という生き物の圧倒的な暴力と、生々しい肉の質量。
(嘘……本には、もっとロマンチックな駆け引きの後に……って書いてあったのに。やだ、この人、本気なの? 本当に私を汚すつもりなの……!?)
「やめて! 誰か、誰かぁーーッ!!」
なりふり構わず、喉が裂けそうなほど叫んだ。
その時、眩しい光が私達を照らし出した。
「そこまでだ!!」
カッ、カッ、カッ、とわざとらしい足音が近づいてくる。
逆光の中に立っていたのは、私の婚約者――
セドリックだった。
そしてその腕には、地味で目立たない男爵令嬢、クロエがしがみついている。
(あ、セドリック……! 相変わらず平凡な顔だけど、助けに来てくれたのね!?)
「セドリック様! 助けて! この男が乱暴を……!」
私は泥だらけの手を伸ばし、婚約者に救いを求めた。
当然、彼は私を助け起こし、ベリルを処罰してくれるはずだ。だって彼は、私の「所有物」の中でも最高位の権力者なのだから。
しかし、セドリックは私を見下ろし――
芝居がかった動作で大袈裟に嘆いてみせた。
「あぁ……! なんて嘆かわしい! まさか我が婚約者が、夜会の裏で男を連れ込み、情事に耽っていたとは!」
「は……?」
(……情事? どこをどう見たら、この惨状が「楽しんでいる」ように見えるわけ? この王子、頭の悪さがついに限界突破したの?)
「ち、違います! 私は無理やり……!」
「嘘よ、ルチア様」
セドリックの腕の中で、クロエがさめざめと泣き真似を始めた。
その口元だけが、私を見てニヤリと歪んでいる。
「私、見ちゃったんです。ルチア様がベリル様に『あっちで二人きりになりましょう』って、色目を使って誘っているところを……。セドリック様という素晴らしい婚約者がいらっしゃるのに、なんてはしたない……」
「ああ、なんということだ。このボクの純真な心を傷つけるとは。ルチア、お前は――なんてふしだらな女なんだ!」
セドリックは自分の世界に酔いしれていた。
「裏切られた悲劇の王子」という役に没頭し、私の惨状など目に入っていない。その凡庸な顔立ちが、今はとてつもなく醜悪に見えた。
ベリルが慌てて私から離れ、跪く。
「で、殿下! 私は誘惑されたのです! 彼女があまりにしつこく誘うもので、つい魔が差して……!」
「嘘よ! ベリル、あなた何を……!」
「黙れ、汚らわしい!」
セドリックが私を睨みつける。その目にあるのは、愛でも心配でもなく、ただの軽蔑と、自分より下の存在を見る優越感だった。
「ルチア・ベルローズ。王家の顔に泥を塗った罪は重い。婚約を破棄した上で国外追放だ!! ……と、言いたいところだが、僕は慈悲深い。それは勘弁してやる」
彼はニタリと笑った。
「お前のような不潔な女でも、僕の所有物であることに変わりはないからな。……連れて行け! 頭が冷えるまで、『北の塔』で反省させるがいい!」
「え……嫌、嫌よ! セドリック様、お願い、聞いて!!」
衛兵たちが私の腕を乱暴に掴み、引きずり起こす。
泥と枯れ草にまみれたドレス。裸足の足が砂利で傷つく。
(離して! 私はルチアよ! 世界で一番可愛い私が、なんでこんな目に……!)
泣き叫ぶ私の声は、夜会の音楽にかき消されていく。
視界の端で、セドリックとクロエが寄り添い、そしてベリルまでもが安堵の表情で私を見送っているのが見えた。
誰も、私を見ていない。
誰も、私を助けない。
用意されていたのは、窓のない黒塗りの馬車だった。
まるでゴミのように中へ放り込まれる。
「――おままごとは終わりだ、お嬢ちゃん」
御者の冷たい声とともに、扉が閉ざされた。
闇の中で、私は初めて知った。
世界は私のためにあるのではない。私はただ、今まで運が良かっただけの、無力な獲物だったのだと。
(嘘よ……私の、私の完璧な人生が……こんなの、認めないんだから……っ!)
馬車が揺れるたび、惨めな涙が頬を伝った。




