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うにまる短編集 ホワイト

第三記録係の台帳 ──「無能」と追い出された彼女が六年間つけ続けた数字が、侯爵家を破滅させました

作者: 謝命うに丸
掲載日:2026/02/27

 王宮監査局の監査官セドリック・ハルトは、生涯で数えきれないほどの書庫を見てきた。

 埃まみれのものも。湿気で頁が貼りついたものも。鼠に食われて原形をとどめないものも。

 だが、これほど完璧に整理された書庫を見たのは、初めてだった。


          ◇ ◇ ◇


 事の発端は、グレイン侯爵の着服疑惑だ。物資の横領。数字の改ざん。六年にわたって王国の財を私物化していた疑いがある、と。

 セドリックが調査を命じられたのは、三日前のことだった。


 今、向かっているのは、主計文書局の第三記録資料室、第六十七番書庫。

 数字の不正を暴くなら、まず一次記録を当たる。それが鉄則だ。だが、この局に積み上げられた記録の山は、もはや物理的な迷宮と化していた。

 今日中に、あと二十の書庫を回らなければならない。


「……なんだ、これは」


 書庫の扉を開けた瞬間、セドリックは思わず声を漏らした。

 棚が、呼吸している。

 そう錯覚するほど、整然としていた。背表紙の高さが揃っている。年代順に、種別ごとに、色の異なる紐で括られた台帳が並んでいる。棚の端には小さな木札が下がっていて、そこに几帳面な文字で分類が記されていた。


収支台帳・第一種(王室直轄)/第三四六年〜第三五二年

物資搬出入記録(王宮東棟)/月次・年次別

人件費台帳・補佐官以下/照合用控え付き


 そして棚の一番端。他よりも少し目立つ場所に、一冊だけ異なる色の台帳があった。

 表紙に、こう書いてある。


引き継ぎ書 第三記録係 タナカ・リエ


 セドリックは思わず表紙を読み返した。

 リエという家名はこの辺りでは聞いたことがない。タナカという名前も珍しい。この国の言葉ではないのかもしれない。東の大陸の民族か、あるいはもっと遠い場所か——妙な名前だ、とセドリックは思った。


 そして次の瞬間、それよりずっと奇妙なことに気づいた。

 この引き継ぎ書が、やけに、厚い。


          ◇ ◇ ◇


 セドリックは引き継ぎ書を手に取った。

 重い。

 頁を開くと、まず目次が現れた。

 目次が、ある。

 引き継ぎ書に目次があるなど、セドリックは見たことも聞いたこともなかった。


第一章 台帳の分類体系について

第二章 索引の読み方

第三章 照合作業の手順

第四章 定期確認が必要な項目一覧

第五章 備考および申し送り事項


 几帳面を通り越している。

 セドリックは苦笑しながら第四章を開いた。


定期確認が必要な項目一覧


 そこには、淡々とした文字で、項目が並んでいた。


・物資搬出入記録と収支台帳の月次照合(差異が生じた場合は別紙参照)

・別紙一覧:第三四八年より現在まで、照合時に確認された差異の記録


 セドリックの手が止まった。

 別紙、と書いてある。

 引き継ぎ書の後ろに、薄い紙が何枚も挟まっていた。

 一枚目を広げる。

 表の上に、こう書かれていた。


物資搬出入記録と収支台帳の差異一覧 第三四八年度 作成者:タナカ・リエ 確認者:なし


 確認者なし。

 セドリックはその五文字を、しばらく見つめた。

 誰にも頼まれていない。誰にも確認されていない。それでもこの女は、ずっと記録し続けていた。

 数字を追う。

 第三四八年度。差異の合計は、金貨八十三枚分。備考欄には小さな字でこう書かれていた。


※誤差の範囲内とは言い難い。翌年度も同様の傾向が続くようであれば、精査が必要と思われる。


 翌年度の別紙を見る。

 差異の合計は、金貨百二十七枚分。

 その翌年。

 金貨二百十四枚。

 その翌年。

 金貨三百九十一枚。

 セドリックは別紙を床に並べ始めた。


 第三四八年から第三五三年まで、六年分。毎年、倍近くに膨らんでいく数字。備考欄の文字は毎年同じ筆跡で、毎年同じように淡々と事実だけを記している。感情がない。怒りも、告発の意図も、一切ない。


 ただ、数字がある。

 合計すると。

 金貨一千四百八十二枚。

 セドリックは立ち上がり、改めて書庫を見渡した。

 この女は知っていた。

 ずっと知っていた。でも告発しなかった。できなかったのか、しなかったのか。

 引き継ぎ書に戻る。最後の頁、第五章の備考欄。


後任の方へ。

この書庫の台帳は、整合性を保つために独自の索引を設けています。索引なしに台帳を参照しようとすると、正確な数字を引き出すことが困難になります。必ず第二章の索引説明をお読みください。

また、別紙一覧については、私の在任中に処理が完了しなかった事項です。引き続き精査をお願いします。

以上です。お疲れ様でした。


※上司より着任時に「お前は記録だけしていればいい。余計なことに口を出すな」と指示を受けている。よって別紙の差異については報告の機会を何度か求めたが、「不要だ」と却下された。記録した。以上。


          ◇ ◇ ◇


 お疲れ様でした。

 誰に言っているのか。

 後任か。自分自身か。それとも——


 セドリックは引き継ぎ書をそっと閉じた。

 この女が去ったのは五ヶ月前だと、局の同僚から聞いていた。上司に「君の仕事は不要だ」と言われ、その日のうちに辞表を出したと。抵抗もなく、泣きもせず、翌朝には荷物をまとめて出ていったと。


 誰も引き止めなかった。

 誰も、この引き継ぎ書を読まなかった。

 ——五ヶ月間、誰も。


          ◇ ◇ ◇


  グレイン侯爵は今、王都の留置所にいる。横領の主犯として。総額は監査の結果、金貨一千四百八十二枚だった。六年間、王国の物資を自分の懐に流し続けた。


 上司も同様だ。不正を知っていたかどうかすら怪しい。部下が何度報告を求めても「不要だ」と追い返した。面倒だったのだろう。数字を読む気もなく、台帳を開く気もなく、ただ波風を立てたくなかっただけの男が、六年間この書庫の上に座っていた。そして邪魔になったと感じた部下の係を、何も考えずに廃止した。


 証拠は、すべてこの書庫にあった。

 タナカが、六年かけて積み上げた数字の中に。


          ◇ ◇ ◇


 彼女の行方を探るのに、三日かかった。

 王都から馬で半日。小さな町の、さらに小さな役所。

 セドリックが戸口から中を覗くと、一人の女が机に向かっていた。

 年齢は三十代半ばといったところか。地味な色の仕事着。髪を後ろで束ねている。

 台帳を、書いていた。

 セドリックは声をかけた。


「タナカ・リエさんですか」

 イントネーションが合っているかどうか、自信がなかった。

 女は顔を上げた。

 驚いた様子はなかった。訝しむ様子もなかった。ただ静かに、セドリックを見た。


「そうですが」

「王宮監査局のセドリック・ハルトです。あなたの残した台帳を拝見しました」


 一瞬の間。


「……そうですか」


 礼も言わない。「役に立ちましたか」とも聞かない。ただ短く答えて、また台帳に視線を落とす。

 セドリックは続けた。


「あなたの記録が、すべての証拠になりました。グレイン侯爵と元上司、先日付で拘束されています。横領分の大半は王国の財務に戻ります。それと——」


 少し間を置いた。


「主計文書局の台帳管理は、現在、機能不全に陥っています。一つの数字を照合するのに十倍の時間がかかり、それでも計算が合わない。条約の原本一枚探し出すのに、局員総出で三日を費やす有様だ。……なぜだと思いますか?」


 彼女は台帳から目を上げなかった。


「それはお気の毒に」

「お気の毒に、で済む話じゃないんですが」

「引き継ぎ書は、置いてきました」

「……誰も、理解できなかったんです。五ヶ月間、あの完璧な手引書を、ただの小難しい紙束だと思い込んで放置していた」


 そこで初めて、彼女がペンを止めた。

 顔は上げない。ただ、わずかに間があった。


「……それは」


 短い沈黙。


「自業自得では」


 セドリックは笑った。思わず、声に出して。

 タナカ・リエが少し驚いたように顔を上げる。おそらく、笑われるとは思っていなかったのだろう。


「おっしゃる通りです」とセドリックは言った。「まったくもって、自業自得です」

 それから、改めて一礼した。深く。


「此度の件、王国を代表して礼を申し上げます。あなたの記録がなければ、不正は今も続いていた。あなたが積み上げた六年分の数字が、この国を正しい方向に戻しました」


 タナカ・リエはしばらく、セドリックを見ていた。

 何かを言いかけて、やめた。

 それから静かに、視線を台帳に戻した。


「……記録するのが、仕事でしたので」


 それだけだった。

 感謝も、達成感も、勝ち誇りも、何もない。

 ただ事実だけを述べる声だった。


「……戻ってきていただくことは、できませんか」


 彼女は答えなかった。

 セドリックは踵を返す。

 戸口を出る直前、ふと振り返った。

 タナカ・リエという名前。


 どこから来たのか。どこの言葉なのか。なぜこの国にいるのか。

 聞けばよかったかもしれない。

 でも背後ではもう、ペンの音が再び始まっていた。

 淡々と、静かに、誰に頼まれるでもなく。


 田中理恵は今日も、台帳を作っている。


 世界がどれほど揺らごうとも、彼女が記す数字だけは、決して揺るがない。

最後までお読みいただき、ありがとうございます。

作家として歩み始めたばかりの未熟な身ではありますが、一つひとつの作品を大切に綴っていければと思っています。

もしよろしければ、画面下の「☆☆☆☆☆」から、本作への率直な感想を届けていただけないでしょうか?

星の数は、皆様が感じたままの評価で構いません。

一つひとつの反応が、私が物語を書き進める上での道標になります。

ご縁をいただけて嬉しいです。

皆様の応援をお待ちしております(* .ˬ.)"

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