第001話 目覚めた朝
目が覚めた。
見慣れた天井だった。木の梁が規則正しく並び、白い漆喰が朝日を柔らかく反射している。この部屋を知っている。18歳の時、王都ティリアスで借りた安宿の一室だ。
体を起こす。軽い。
驚くほど軽かった。肩も、腰も、膝も、何も痛くない。前世で積み重ねた傷の痛みが、すべて消えている。
手を見る。傷跡がない。
右手の甲にあった火傷の痕も、左手首の深い裂傷跡も、何もかもが消えていた。指を曲げる。関節が滑らかに動く。この感覚を忘れていた。
ベッドから降りて、窓際の小さな鏡の前に立つ。
そこに映ったのは、若い女の顔だった。黒い髪は肩まで伸び、無造作に跳ねている。肌は傷一つなく、瞳には疲れた色がない。
自分だ。18歳の、ユイ・セイラス。
笑みが漏れる。それから、胸の奥が熱くなった。
本当に戻ってきたのだ。
記憶は鮮明だった。38歳までの人生が、すべて頭の中にある。冒険者として歩んだ20年。出会った仲間たち。失った友。犯した過ち。そして、あの戦い。
「倒せぬ存在」の一体を討ち果たした日。
世界中から称賛された。英雄と呼ばれた。だが、それが終わりではなかった。次の存在が現れ、今度は勝てなかった。
そこで記憶が途切れている。
気づけば、この部屋にいた。18歳の肉体で、20年分の記憶を抱えたまま。
壁に掛けられた暦を見る。日付を確認して、息を呑んだ。
前世で冒険者登録をした日の、3日前だった。
つまり、まだ何も始まっていない。すべてが、これからだ。
胸が高鳴る。今度こそ、途中で諦めない。今度こそ、正しい選択をする。今度こそ。
窓を開ける。
外から、街の喧騒が流れ込んできた。露店の呼び声、馬車の車輪が石畳を叩く音、子供たちの笑い声。前世では気にも留めなかった日常の音だ。
だが、今は違う。
すべてが情報に見える。あの露店の主人は、半年後に魔物の襲撃で店を失う。あの馬車の御者は、来月には病で倒れる。あの子供たちの一人は、数年後に優秀な魔法使いとして名を馳せる。
知っている。すべて、知っている。
だからこそ、変えられる。
ユイは深く息を吸い込んだ。それから、ゆっくりと吐き出す。
体は18歳でも、中身は経験を積んだ冒険者だ。この利点を活かさない手はない。ただし、焦ってはいけない。前世で学んだ最大の教訓がある。
力だけでは、何も守れない。
今度は違う道を歩む。仲間を集める。組織を築く。情報を得る。そして、「倒せぬ存在」の真実に辿り着く。
窓の外を見つめながら、ユイは静かに呟いた。
「始めよう」
そう言って、彼女は部屋を出た。廊下に出ると、宿の主人とすれ違う。
「おや、ユイさん。おはようございます」
「おはようございます」
主人は優しい笑顔を向けてくる。前世では、この人の名前すら覚えていなかった。だが、今は違う。この人は5年後、息子を魔物に奪われる。
それも、変えなければならない未来の一つだ。
階段を降りて、宿の食堂に入る。簡素な朝食を取りながら、ユイは今日の予定を頭の中で整理した。
まずは街を歩く。前世の記憶と現在の状況を照合する。変化がないか、確認する必要がある。
それから、冒険者ギルドへ向かう。登録はまだだが、様子を見ておきたい。誰がいるか、どんな依頼が出ているか。前世との違いを把握しておく。
そして、図書館だ。「倒せぬ存在」に関する文献を探す。前世では気づかなかった情報があるかもしれない。
やることは山ほどある。だが、急ぎすぎてはいけない。一つずつ、確実に。
食事を終え、宿を出る。
朝の王都ティリアスは活気に満ちていた。市場では商人たちが声を張り上げ、通りには人々が行き交う。巨大な王城が遠くに見え、その周囲には騎士団の施設や学院が立ち並ぶ。
ユイは通りを歩きながら、すべてを目に焼き付けた。
この街で、すべてが始まる。今度こそ、正しく。今度こそ、最後まで。
空を見上げる。青く澄んだ空が広がっていた。
前世では見落としていた景色が、今はこんなにも鮮やかに見える。
ユイは小さく笑って、歩き出した。
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