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ep.9 命の相場

天幕を出ると、外の光が痛いほど眩しかった。

さっきまでいた場所が、まるで別の世界のように感じる。

胸の奥がまだ熱い。息を吸うたび、焼けるような痛みが走った。


それでも立ち止まっていられない。

あの人への言葉を、嘘にしたくなかった。


そのとき、砂を蹴るような足音が近づいてきた。


「カエルムくんっ!」


見ると、ミリアが息を切らして立っていた。

小さな体を精一杯動かして走ってきたのだろう。

膝は擦りむけ、頬には涙の跡が乾かぬままだ。


「お母さん、大丈夫だった!?」


その声には、不安と希望が混じっていた。

俺はほんの一瞬だけ目を伏せる。

真実を告げることが正しいのか――分からない。


けれど、今の彼女に必要なのは“事実”じゃない。

“希望”だ。


「……大丈夫だったよ」


自分でも驚くほど穏やかな声が出た。


「少し疲れが溜まってただけだ。少し休めばまた元気になる。だから心配するな。必ず助かる。いや、助ける。」


言いながら、拳を握る。

それは誓いでもあり、祈りでもあった。


ミリアは唇を噛んで俯いたが、すぐに顔を上げて言った。


「……うん。カエルムくんを信じる! カエルムくん、いい人だもん!!!」


その言葉が胸の奥に痛いほど響いた。

俺は笑って頷く。


「ありがとう。ミリアはアマリアさんのそばにいてあげて」


「うん!」


小さく手を振るミリアの姿を背に、俺は再び走り出した。

風が頬を刺す。

涙が乾く前に、心がもう次の行き先を決めていた。



――――――――――



屋敷に戻ると、エドリックはすでに執務室で仕事をしていた。

分厚い帳簿の山。その隙間から顔を上げる。


「父上。お願いがあります」


「……何だ、カエルム」


真っ直ぐ見つめて言う。


「アマリアさんを助けたい。必要な薬をどうしても手に入れたいんです」


ペンの音が止まる。

沈黙。

長い息。


「それは、薬を手に入れてほしいということか?」


「…はい」


「……領主としては、許可できん」


「……」


「俺の持つ金は領民の血税。血のにじむような努力の金だ。

それを感情に流され個人に使うことなど出来ない。

それが“秩序”というものだ。

私はこの国の法に従っている。だから、お前の願いを“特別扱い”するわけにはいかん」


冷たい言葉。

けれどそこに怒りはなかった。

むしろ、何かを“秤”にかけているような声だった。


しばらくして、机の引き出しを開ける音がした。

一枚の紙片が差し出される。


「……だが、父としては、一人紹介できる商人がいる」

「……商人?」

「名はライアス。古い付き合いだ。薬と金に関して彼の右に出るものはこの街に居ない。

お前がどう動くか、それはお前の責任だ」


その声は領主のものではなかった。

父の声だった。


「……ありがとうございます」

深く頭を下げて、部屋を出た。



――――――――――



商業区の一角。

香辛料と鉄の匂いが混じる店先で、分厚い指輪をはめた男が帳簿を閉じた。


「……エドリックんところの坊主が、スラムの女を助けたいと? そりゃまた珍しい」


ライアスと名乗った男は、煙草を指で弾きながら笑う。


「金を稼ぎたい。薬を買うために」


「なるほどな。で、何か“秘策”でもあるのか?」


秘策。そう。俺には秘策があった。


「卵と油を混ぜた調味料を――」


「駄目だ」


「え?」


「卵は貴族の嗜好品だ。庶民は滅多に食えねぇ。

油は高い上に、夏場なら半日で腐る。

そんなもん誰が買う?」


「……」


「いいか坊主。商売ってのは、“続ける”ことだ。

 一発当てりゃいいってもんじゃねぇ」


「じゃあ、盤の上で戦略を競う遊びを――」


「庶民は食うことで精一杯だ。遊ぶ暇がねぇ」


ライアスは椅子にもたれて煙を吐いた。


「貴族ならどうだ? 買わねぇさ。

連中は“見栄”に金を使う。

盤で遊ぶより、舞踏会で笑う方が“格”がある。

お前の考えは、どっちつかずだ。

――貴族にも庶民にも届かねぇ」


言葉が喉の奥で止まった。

前の世界で“便利”だったものが、今の世界では無価値。

それが痛いほど分かった。



――――――――――



「……俺には、無理だ……」


そう呟いた瞬間、ライアスは短く笑った。


「だろうな。だが――」

彼は机の上に地図の端切れを置いた。


「一つだけ、“割に合わねぇ仕事”がある」


「……?」


「王女の病を治す薬。その材料になる花の葉を採ることだ」


「王女……でも、王族なら軍を動かせばすぐに――」


「動かねぇよ」


ライアスの笑みが消える。


「軍を動かすには金がかかる。兵も食うし、民も動く。

そんな価値があるのは、“次の王”になる奴だけだ。

王女ってのはな、飾りだ。

“産まれが女”ってだけで、救う価値が薄れる」


「そんな……」


「商人としても、王族に貸しを作るのは悪くねぇが、

“姫”に貸しても見返りがねぇ。

だから誰もやりたがらねぇ。――それが現実だ」


ライアスは煙を吐き、淡々と続けた。


「あの花は北の泥炭地の奥に咲く。

霧が濃い日にゃ、前に立つ仲間の顔も見えねぇ。

花粉を吸ったら最後、喉が固まって息ができなくなる。

風向きが変われば一瞬で地獄だ。

葉だけ摘めりゃ薬になるが…それが出来るやつは

――もう生きちゃいねぇ」


俺は息を飲んだ。

ライアスは続けてこう告げた。


「あの花の葉は死を覚悟したヤツが採取して、それを他の奴に死ぬ気で渡す。それを繰り返してやっと安全なところまで運ぶ代物なんだ。

つまり、王女には悪いが幾人もの人の命をかけてやるほど王女の命は重くねぇってこった」


ライアスは自嘲気味に笑った。

人の心と商人の心が混在しているのだろう。

痛々しい笑い方だった。


「その花は"白葬花(はくそうか)"って呼ばれてんだ。

見た目は綺麗なもんだぜ。霧の中で光る白い花弁。

けどな、近づいたやつは皆、花より先に土になる。

命を救う葉が死を撒く花についてるなんざ皮肉なもんだよなぁ」


「……分かりました」


ライアスはしばらく黙って俺を見つめ、

やがて口の端をわずかに上げた。


「馬鹿な坊主だ。諦めねぇってか。

けど、いい目をしてる。

商売も戦も、覚悟のある奴が一番“儲ける”。」


帳簿の裏紙に雑な地図を描くと、それを差し出した。

手の中の紙は薄く震えた。

恐怖でも迷いでもない。


――これが、俺の“取引”だ。



――――――――――



夜の帳が降りる。

遠く、スラムの方角に月が昇っていた。

天幕の向こう、あの花瓶の水はもう温くなっているだろうか。


それでも俺は歩き出す。

“逃げない”と決めた足で。

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