ep.8 灰と陽光
暖かな日差しがそっと世界を目覚めへと誘う頃。
俺はスラム街へ向かって歩いていた。
スラム街の住民は貴族には関わらない。
それを前回の訪問で理解した俺は、とびきりの衣服で身を包んだ。
今日の俺にとっては、これが鎧だ。
それに、非礼を詫びねばならない。
仕方なかったとはいえ、俺はあの日"嘘"をついた。
今度こそ、正しく名乗りたい。
――ラシエル家の息子として。
…とは言っても、アマリアさんには俺の下手な嘘など見抜かれているだろうが。
スラム街へ近づくにつれて空気は淀み、石畳の隙間からは下水の匂いが立ち上がっていた。
どこかで焼け焦げた布の匂いがする。
陽光に照らされたはずの街角が、なぜか灰色に見えた。
「お願い!探している人がいるの!!!」
スラム街の外縁部――
大衆向けの屋台が立ち並ぶ通りで、どこからか聞き覚えのある声が聞こえた。
「この辺にカエルムって子のお店ない!?」
「お嬢ちゃん。俺ァ知らねえって言ってんだろ?商売の邪魔だ。買う気がねぇなら失せな!」
「そんなこと言わずに!知り合いとかに声を掛けて…」
大柄な屋台の店主に必死に訴える少女。ミリアだった。
衣服は昨日見た物よりもボロボロで、走り回って転んだようだった。
生々しい痛みが感じられるその服で、それでも通行人に声をかけていた。
青筋を浮かべる店主が不憫だったが、今はそれよりもミリアの身が心配だ。
俺はミリアの元へと急いだ。
「ミリア?俺を探しているみたいだけど、どうしたんだ?」
振り返ったミリアが俺を見ると、目に大粒の涙を浮かべた。
何か――昔同じ光景を見た気がする。
そう思うのと同時に、胸の中がざらりとした。
嫌な予感が、言葉より先に形を持った。
「アマリアさんに…何があったんだ!ミリア…!!!」
思わず、ミリアの肩を強く掴んだ。
ミリアの低いうめき声を聞いてパッと手を離した。
「あ、ごめん…」
「ううん、心配してくれてるって事だもん。大丈夫。」
ミリアは軽く自分の肩をさすると息を吐いた。
「お願い…。お母さんを…助けて…」
ミリアの弱々しい響きは初めて聞いた。
俺はその言葉を聞いた瞬間、スラムへと走った。
ミリアは"助けて"と言った。
ならアマリアさんは"とりあえず無事"ということだ。
しかし、危ない状況であることに変わりは無いだろう。
「助けて」
――その言葉だけが、脳の奥で反響していた。
俺の足は人生の中でいちばん早く動いた。
けれど、心だけはそれよりも早く動いていた。
追いつきたいのは時間じゃない――
後悔だ。
上質な絹で出来た衣服が風を一身に受ける。
こんなもの今の俺には鎧にすらならないのに。
「えぇい!なんでこんな時にこんな服着てきたんだっ!!!」
俺は今朝の自分を呪った。
だが、衣服のおかげかスラムの住人には止められずに無事、ミリアの家へと辿り着くことができた。
「アマリアさん!!!」
痛む胸を抑えながら叫んだ。
この痛みが人生初の疾走の後の痛みなのか、別の何かなのかは判断がつかなかった。
天幕を勢いよく開くと、奥にはアマリアさんが横たわっていた。
中は湿った布の匂いと、鉄のような血の匂いがわずかに混ざりあっている。
壁際に飾られた花瓶からは、陽の届かぬ枯れかけた野花が顔を覗かせていた。
つい昨日摘んできたばかりだと言うのに、まるで何かを暗示しているかのようなその花から目を逸らした。
「…カエルム…くん?」
「アマリアさんっ!大丈夫ですか!?」
「………あの子と会ったのね?」
少しだけ、口角が緩んだ。
「私は無事よ。安心して」
アマリアはまるで自分はなんの問題もないとばかりに話した。
しかし、俺にはそれが、気丈に振る舞う人の痛々しい仕草に見えた。
「…アマリアさん。本当は何かあったんじゃないですか?」
「………」
「アマリアさん!」
「……はぁ…話さないと納得しないのね。
子どもにする話ではないのだけど、あなたと話をしていると時折大人と話していると錯覚してしまうわ」
内心、びくりとした。
やはりこの人には何もかも見透かされているのだろう。
アマリアは言葉を探すように一度、息を整えた。
そして、淡々と。けれど優しく告げた。
「………血をね。吐いたのよ。今朝早くだったかしら?
ミリアがそれを見ちゃって、カエルムくんを探してくる〜って飛び出して行ってしまったの」
「………それで、あと、あと何日くらいなんですか…」
声は、震えていた。
聞きたくない。知りたくない。
でも、聞かなければならない。そんな気がした。
「そうね、あともって1週間くらいかしら?ふふっ、思ったより結構長生き出来ちゃった」
アマリアの声は震えてはいなかった。
まるで自分の死を受け入れているかのように。
「……なぜ…」
「なぜ?」
「…なぜあなたはそんなに顔で笑えるんですか…」
声が震えていた。
怒りでも、悲しみでもない。恐怖だ。
自分の大切な人が、どこか遠くへ行ってしまう恐怖だった。
「…ミリアを置いていくことは辛いし悲しいわ。
でも、もう怖くは無いの。あの子にも、ちゃんとこうやって心配してくれる人がいるって"わかった"から」
――なにをわかったつもりになっているんだ。
残された遺族がどんな気持ちなのか、それを知っている俺だから分かる。
1度死んで、壊れた家族を"見てきた"俺だからわかる。
この人は――何もわかっていない。
「……あなた…なんて顔して…」
「アマリアさん!俺が、俺が絶対に助けます!!!
だから、諦めないでください。逃げないでください。生きることから!必ず!必ず。救ってみせますから…」
心からの叫びだった。
生きることを教えてくれた人が、生きることを諦めることが許せなくて。
怒りで震えて、震えて、震えて。泣いた。
叫びは熱を持って、空気を震わせていた。
それでも返事が来るまでの数秒が、永遠にも感じられた。
「………わかった。期待して待ってる」
アマリアさんが笑った。
張り付けたような笑顔で。
きっとこの人も、かつては太陽のように笑っていた。
その光が、また世界を明るく照らせるように。
そう、強く願った。




