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ep.6 赦しと帰還

「私はね。昔、"お花の街"にいたの。

飾りみたいに色を纏って、笑顔を仕事にする場所。

たくさんの人の寂しさに触れて、たくさんの嘘と、ほんの少しの本当を見た」


その声音は柔らかいのに、どこか遠くを見ていた。


「ミリアはそこで出会った“ほんの少しの本当”の結晶。

だから、うまく生きられなくても、うまく笑えなくても、あの子が笑ってくれるなら、それでいいって思えた」


アマリアは軽く咳をした。

喉の奥に砂を噛んだみたいな音。

胸元の薄布の下で、骨ばった肋が小さく上下する。


「体はね、もう長くはもたないの。

こう見えて、薬も医者も試したわ。

でも必要な薬は高いし、手に入れるには人の縁も、お金も、運もいる」


淡々とした告白。泣き言ではない。事実の羅列。

それでもひとつだけ、声がかすかに震えた。


「怖いのは、痛みでも、死ぬことでもないの。

置いていくことよ。……あの子を、一人にすること」


その一言が、胸の奥に重く落ちる。

置いていく――前の世界でも、誰かを置いていった。

そして今、ここでも。


アマリアはまぶたを伏せ、ふっと笑う。


「人の顔を見るのは、少しだけ得意なの。

生き方や、選んできた言葉が、目の奥に残るからね」


真っ直ぐに見据えられて、思わず視線を逸らした。

見透かされるような。そんな気配。


「あなた、誰かから逃げている顔をしてるわ」


心臓が、ひとつ跳ねた。


「どうしようもなく傷ついた人が、信じたいものから目をそらすときの顔。……そういう顔、よく見たの。

お金で抱かれても、心までは触れられない人達の顔をね」


返す言葉が出ない。喉の奥でいくつも言い訳が生まれては、音になる前に砂のように崩れた。

前の世界で、俺は“話すこと”から逃げた。

今の世界で、俺は“触れること”から逃げた。


「でもね、逃げた先で誰かに出会えたなら、それは“罰”じゃなくて“救い”なのよ」


アマリアは言葉を置くように続けた。


「あなたが逃げたその先に、まだ手を伸ばしてくれる人がいるなら――今度は、あなたから戻っていきなさい」


“今度は”。

その二文字が胸の内側で反響する。

過去の俺と、今の俺。どちらにも届く言葉だった。


「……俺は」


ようやく搾り出した声は、驚くほど小さかった。


「一度、逃げました。大切なものから」


アマリアは、うん、と短く頷く。責めもしない、赦しもしない、ただの了承。


「なら、二度は逃げないこと。

人はね、逃げて、迷って、それでも戻ってくるの。

生きているうちは、何度でも」


天幕の外で、小さな足音と水音が近づく。

ミリアが布をくぐり、水を満たした花瓶を置くとそこに野花を添えた。

野花が、ぐっと首を上げる。


「ほら、お水あげたら元気になった!」


ミリアが笑った。

目は少し赤くなっていたけど、それでも笑っていた。

俺はその笑顔に、思わず息を吸い込む。

肺がひどく冷えていたことに、そのとき初めて気づいた。



――――――――――



その日の夕刻、スラムの入口が騒がしくなった。

鎧の音。馬のいななき。

守衛の声に続いて、聞き慣れた。

けれど今は遠ざけていた名が呼ばれる。


「カエルム!」


エドリック。

続けて、震える声で。


「カエルムくん…!」


イゾルデ。

胸の奥のどこかが、ぎゅっと掴まれる。

逃げる足は、もう動かなかった。


二人は駆け寄ってきて、そこで足を止めた。

俺と、俺の傍らに立つミリアと、その後ろの天幕を見て。

顔を曇らせる。

それでも、イゾルデが最初に歩み出た。

迷いの線が残ったまま、それでも。


「…ごめんなさい」


声は掠れていた。あの日の“ヒッ”という息の残響を、震えの底に抱えたまま。


「手を伸ばしてあげられなくて。怖くて、分からなくて。ごめんなさい」


エドリックも口を開く。


「何を言えばいいのか分からず

……逃げたのは私だ。父でありながら」


逃げたのは、俺だけじゃなかった。

たぶん――みんな、少しずつ逃げて、少しずつ迷って、ここに来た。


「……俺も、逃げました」


やっと言えた。


「怖かった。分からなかった。だから、ちゃんと話したい。俺――」


言葉が続く前に、イゾルデが抱きしめた。

細い腕なのに、骨が悲鳴をあげるほど強く。

痛い――けれど、不思議と、体の奥がほどけていく。


体は凄く痛むのに、なぜだかとても心地いい。

やわらかい温かさの中に、"母"はいた。


エドリックの大きな手が、そっと俺の背に添えられた。

言葉よりも確かに、そこに“父”がいた。


「……ただいま」


喉の奥で潰れた声は、思ったよりずっと幼かった。


「……おかえり」


返ってきた声は、思ったよりずっと優しかった。


ミリアが、少し離れた場所でにこにこと俺たちを見ている。

アマリアは天幕の影から目を細め、静かに頭を下げた。

その仕草は、よかったわね。とも、まだ始まったばかりよ。とも取れる、どちらにも届く祈りだった。



――――――――――



屋敷へ戻る道すがら、俺は振り返って天幕を見た。

布越しの薄明かり。

花瓶の水を吸って、野花はしゃんと立っているだろうか。


「父上」


言葉が自分でも意外なほど素直に出た。


「お願いがあります。……いつか、あの人に必要な薬を手に入れたい」


エドリックは逡巡し、正面から俺を見た。

領主の目だった。


「個人にだけ特別を与えれば、必ず誰かの不公平になる。私は私の責を外れられない。……だが」


わずかに視線が和らぐ。

父の目だった。


「正しい願いを、正しい方法で叶える道はあるはずだよ。探しなさい。」


「うん」


短く答えた声に、迷いは少しずつ薄れていく。


“二度は逃げない”。

アマリアの言葉が、歩幅を支える。



――――――――――



部屋に戻ると、イゾルデはまた俺を抱きしめた。

さっきほど強くはない、けれど、長く。

骨は軋まないのに、胸のど真ん中がじん、と熱を帯びる。


痛みは、もう痛みだけではなかった。

ここに戻っていいという合図に、少し似ていた。


窓の外で、夜が深まる。

遠くで犬が吠え、守衛の交代を告げる靴音が石畳を渡っていく。


“逃げた先で出会えたなら、それは救い”。

アマリアの声が、まだ耳の奥で湯気のようにあたたかい。


俺は息を吸う。

肺の底まで空気が入る。

明日のことを考える。

何から始めるべきか、まだ分からない。けれど――


「俺は、生きる」


ぽつりと零した独り言は、誰にも聞こえないはずだった。

なのに、扉の向こうで足音が止まり、エドリックの低い咳払いがひとつ。

イゾルデが、くすりと笑った。




やけに綺麗な月が、また昇っている。

嫌がらせみたいだ、と思っていた光が、今夜は少しだけ、部屋をやさしく照らしていた。

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