ep.15 弱さと優しさ
――焦燥
俺は走り続けた。
今度は、今度こそ間に合うために。
太陽のような笑顔を、取り戻すために。
日は昇っているというのに、肌に刺さる風は氷に触れたように冷たい。
寂れた背景が視界の端を流れていく。
息が上がり、視界がぼやける。
でも、それでも。
――もう二度と失いたくはなかった。
ミリアの生まれ育った家。
改めて見ても家と呼ぶにはいささか陳腐なそれは、相変わらずの様子で鎮座していた。
「ミリア――!!!」
「しー!起きちゃうでしょ!!!」
カビた布の匂い。湿った土壁。
冷えた空気の中で、3人の子どもたちと目が合った。
3人をよく見ると、アマリアさんを運んでくれた子どもたちのようだった。
そして、そのうちのひとりの膝の上で幸せそうに眠るミリアがいた。
俺の胸の中で何かがほどける音を聞いた気がした。
あぁ、生きてる。
安堵が押し寄せた瞬間、膝が崩れ落ちた。
「あれ?お前、ミリアと一緒にいた商人見習い!」
「……」
ミリアを膝枕している世話焼きそうな子。
口の悪い子。
そして、寡黙にじっと俺を睨んでいる子。
年齢は…俺やミリアと変わらないようにも見えるし、もっと幼いようにも見えた。
痩せこけすぎていて、判断がつかない。
「えっと…どういう状況か説明してくれないか?」
「ミリアちゃん。夜遅くにここに来て文字の勉強を手伝って欲しいってみんなに頼んでたんだよ」
「俺ら、夜は大体起きてったからよ。付き合ってやったんだ」
「……」
ミリアが…勉強を…?
逃げたんではなくて…?
「ミリアちゃんが、私が頑張らないとカエルムくんを支えてあげられないって…さっきまで起きてたの」
すやすやと眠るミリアを見た。
足元には石版とかなりすり減った白墨。
そして指先は真っ白に染まっていた。
それだけで、彼女がどれほど努力したのかが目に見えてわかった。
罪悪感が喉を締め付けた。
――俺は、どれほどの重さをこの小さな肩に乗せていたのだろう。
「カエルムってやつも馬鹿だよな!
ミリアがこんなになるまで追い込まれてるのに気がつかねぇって!」
「……リベリア。多分この人がカエルム…」
「え゛…」
リベリアと呼ばれた子は絵に書いたような失敗したという顔で俺を凝視した。
刃に刺されたようにズキリと痛む。
守ると誓ったはずなのにこの体たらく。
震える手を必死に抑えながら、俺は自己紹介をした。
「カエルム…です。一応、商人見習いです」
周囲が気まずい空気に包まれた。
皆、何か言いたげに口を噤んでいる。
それでも、余計なことを言わないだけの自制があった。
そんな時、ひとりが口を開いた。
「……あ、あの。私はルクシアって言う……言います?」
たどたどしい敬語を使ったのは、顔の半分を長い髪で隠した少女。
それでも、声には不思議な落ち着きがある。きっと、この子がみんなの“交渉役”なのだろう。
ルクシアが言葉を発したのを皮切りに、リベリアと呼ばれていた子も口を開いた。
「俺はリベリアだ!……その、さっきはわりぃな……」
表情がころころ変わるリベリアは、一番“子どもらしい”。
乱雑に切られた髪。元気で粗野だが、空気を読まないわけではない。
寡黙に睨んでいる子の頭を軽く叩きながら、「自己紹介ぐらいしろ!」と促している。
「……アスペル」
小さく名乗ったその少年は、終始俺を睨んでいた。
何か気に障ることをしたか、と記憶を探ったが思い当たらない。
……スラムを生き抜くための警戒心だと、自分に言い聞かせた。
皆が自己紹介を終わったあと、俺の中にある疑問が浮かんだ。
「そういえば……君たち、自分の生活があるはずなのに。一晩中ミリアに付き合ってくれていたのか?」
スラムでは一分一秒だって惜しいはずだ。
起きてる間に稼がなければその日生き残る事すら危うい。
だが、返ってきた言葉は意外なものだった。
「俺ら……アマリアさんに助けてもらったことがあんだよ。だから、アマリアさんとミリアには力を貸してぇ…」
「アマリアさんがまだ元気だった頃ね〜。
私たちがお仕事もできない年齢のとき、ご飯を分けてくれたり、話し方を教えてくれたり!」
「……ミリア、ちっちゃくて……かわいかった」
「……君ら、一体何歳なんだ?」
当然の疑問だった。
背格好はほぼ変わらないというのに、どうしてミリアの幼さを語れるのか。
それが気になった。
「えっと、私は9歳。リベリアとアスペルは7歳だったかな?」
「おい!俺をガキと一緒にすんな!俺は8歳だ!!」
――思わず、言葉を失った。
その言葉には、スラムの過酷さが滲み出ていた。
そこまで発育が遅れるということは、食べていないということだろう。
本当に生きるか死ぬかのギリギリ瀬戸際なのだと、想像に難くなかった。
笑っているはずなのに、胸が締め付けられた。
しかし、ミリアはこの子達と比べて比較的まともそうに見えた。
「……ミリアは、どうやって食べ物を……?」
ルクシアは、少し照れたように笑った。
「ミリアちゃんとアマリアさんのご飯は……私たちが、ちょっとずつ分けてたんです」
「別に“配ってた”わけじゃねぇぞ!
仕事の分け前を……ほんの少し上乗せしてたんだ!」
「……アマリアさんに恩返ししたいって、リベリアが」
「なっ……!それは誰にも言うなって言っただろ!」
「ミリアちゃんには言うな、って言ってた気がするな〜?」
くすくす笑うルクシア。
得意げなアスペル。
顔を真っ赤に染めるリベリア。
自分だってひもじいはずなのに。
痩せこけて、常に空腹で、いつ死んでもおかしくない極限の状態なのに。
それでも、ただ恩を返すために──。
その事実が、胸の奥にじん、と温かい光を灯した。
少し騒がしかったのか、ミリアがまぶたを重そうに目を開く。
俺と目が合うとビクリと身体を震わせて、背を伸ばした。
「あの…えっと…ごめんなさい!」
ミリアが俺に勢いよく頭を下げた。
子どもたちがミリアに頭を上げるように説得するも、聞き入れる気はないようだ。
しかし、その手は震えていた。
黙っていなくなった事、店の物を勝手に持ち出した事、心配かけさせた事。
ミリアには無数に投げかける言葉がある。
だが、俺の中ではもう、言うことは決まっていた。
「…ミリア」
ミリアは恐怖を必死に抑えるようにぎゅっと手を握った。
どのような言葉も受け入れる。そんな覚悟が感じられた。
「ただの、バカだな」
ミリアの頭がゆっくりと上がった。
目尻には涙が溜まり、顔は少し赤くなっていた。
しかし、そんな態度とは裏腹にミリアは混乱しているようだった。
何を言われているのかさっぱり分からない。そんな顔だ。
俺はそんなミリアなど気にせず口を開いた。
「迷惑をかけたくないから一人で悩んで行動して、それで一周まわって迷惑をかけるバカ。
…俺と同じだよ」
「…カエルムくんと…?」
「そうだ。ここに来てからずっと言いたかった。
俺の見ている世界はミリアにしか見えない。
こんなバカ。他にいてたまるかよ」
あの時の仕返し。
ずっと言いたかった。ずっと伝えたかったやり返し。
「…お前は焦らなくていいんだ。
俺と同じ"普通の人"だから」
「…うん。うん!」
わかったか。ミリア。
あの時俺は、お前の"暴言"のせいで泣きそうになったんだよ。
太陽のように笑う少女には、
ちゃんと届いていた。




