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ep.14 白墨と影

ライアスが応接室の奥にある棚から何かを取り出すと、

重い音を立てて俺とミリアへ手渡してきた。


「ほら、石版と白墨だ。これでお前らのテストを行う」


渡されたそれは、前世で教室の隅にあった黒板とチョークに似ていた。

冷たく、ざらついて、触れた指の温度を奪う。


「……懐かしい…」


胸の奥に、かつての“日常の匂い”がわずかに蘇る。

ほんの一瞬のことだ。

すぐに石版の冷たさがそれを凍らせた。


「カエルムくん!見てこれ!書いたのが消えるよ!!!」


ミリアは石版の表面を擦ったり白墨を走らせたりして、

太陽みたいに弾んだ声をあげていた。


その笑い声はあまりにも眩しくて、

つい数時間前の泣き顔が嘘のようだった。


「…はぁ、これだから子どもは嫌いなんだ…。

いいか?俺がお前らに問題を出すから、その答えをそこに書き込め。わかったな?」


ライアスの声には呆れを装った優しさが混じっていた。


なるほど。

前世で言えばフリップボードのような役割の物だ。

だが、手に持った瞬間に俺はひとつの疑問を抱いた。


「その用途なら…重い石版よりも紙の方が扱いやすいのでは?」


「はぁ!?紙は高級品だぞ!?子どもの落書きに使わせてたまるか!

俺だって重要な契約の時以外は使わねぇ!!!

石版と白墨で十分だ!!!」


言葉は荒いが、文化の根がそこにあった。

“紙が当たり前”だった世界の感覚が、

音もなく胸の底へ沈んでいく。


ライアスはため息をつきながら、問題を出した。


「最初は簡単だ。17足す9」


ミリアは石版を見つめたまま固まる。

黒い板の上に白い数字。

その意味は、彼女の世界には存在していなかったのだ。


「……じゅ……じゅう……なな……?

……え……なに……?」


白墨を握る指が小刻みに震えている。

字を覚える以前に、数えるという行為が彼女にはまだ抽象的なのだろう。


俺は白墨を走らせた。


「26」


石版に白い数字が刻まれた瞬間、

ライアスの目がわずかに細くなる。


「……やっぱり速ぇな。計算だけは飛び抜けてやがる」


ミリアは俺の石版をちらっと見て、

ぽつりと言葉を落とした。


「……すごい……

……でも……なんで……?」


感情の輪郭が揺れていた。

尊敬と戸惑いがせめぎ合うようだった。


ライアスは次に木札を取り出した。


「次は字だ。坊主も嬢ちゃんも同じ初歩からいくぞ」


ミリアは木札を受け取ると、

書かれた“記号”を理解できず目を丸くした。


「……これ……なに……?」


「字だよ。読めねぇか?」


「……うん……」


即答。

拒絶でも怯えでもなく、――“空白”。

知識の土台そのものがないという意味だった。


俺も木札を見つめ、固まる。


「……全然、読めない……」


形は見える。

意味も“文字であること”も理解している。

だが、脳の引き出しに対応する箱が存在しない。


ライアスは鼻で笑った。


「だろうよ。坊主の知識は異世界の知識だ。

計算はできても文化も言語も違うんだから読めるわけねぇ。

嬢ちゃんに関しては文字を刻むって概念の存在しない世界で育ってきたんだ。無理はねぇだろ」


口ぶりからして、ライアスにとっては想定内だったのだろう。


ミリアがそっと俺の顔を見た。


その目は、

嫉妬、尊敬、焦り、羨望、そして――恐れ。

透明な感情が幾層にも重なり、

光に当たると虹色に歪む水滴みたいに揺れていた。


「……が、がんばる……!」


それでもミリアは笑おうとした。

震えた笑顔は、光を追いかける影のように儚かった。


彼女は震えた手で白墨を掴み、字を書こうとした。

しかし、白墨を石版へ近づけた瞬間、

震える指に耐えきれず、白墨が逃げるように石版へ落ちた。


「……かけない……」


ミリアは唇を噛み、

悔しさを飲み込むように俯いた。


ライアスは腕を組んで言う。


「こんなもんだろ。

坊主は知識だけが異常で、

嬢ちゃんは白紙からの伸びしろがある。

……ま、どっちも手間はかかるがな」


悔しさに滲むミリアの目が、石版の黒に吸い込まれる。


ライアスは続けた。


「いいか。今日から毎朝、読み書きと計算の稽古だ。

坊主は帳簿付け。嬢ちゃんは雑務と字の練習だ」


ミリアは小さくうなずいたが、

目は石版から離れない。


「……かけるようになりたい……

……カエルムくんみたいに……」


光のように小さな声だった。

胸の奥でひどく冷たい痛みがした。


ライアスは言う。


「心配すんな。時間はかかるが、やればできる。

坊主に勝てるかは知らんがな」


その最後のひと言。

白い刃のように刺さったのだろう。

ミリアの肩がびくりと震えた。


――その震えは、

ほんの小さな「置いていかれたくない」という感情だった。


だが、

――その影は、まだ誰にも知られていなかった。



――――――――――



その翌日、ミリアは必死に石版へ向き合った。


白墨を握る指は不器用で、すぐに折れる。

線は曲がる。

同じ字を何度書いても同じ形にならない。


「……なんで……なんで……」


小さく泣きそうな声が漏れた。


俺も文字の形を覚えようと必死だったが、前世の知識が邪魔をする。

似たような音なのに形が違う。

線の数が違う。

意味が違う。


頭でわかっても、手がついてこない。


「……俺も、むずかしい」


そう言うと、ミリアは少しだけ救われた顔をしたが——

その表情の奥には、もう別の感情が芽生えていた。

ミリアの胸に広がるのは、"届かない手"を自覚した者だけが抱く、静かな悔しさだった。


ライアスは二人の様子を見てため息をつく。


「坊主は覚えだけは速ぇ。嬢ちゃんは手が動かねぇタイプだな」


そのひと言が決定打だった。

ミリアの顔から色が消える。


「……わたし……にがて……?」


「苦手ってほどじゃねぇが、坊主とは比べんな。あれは別物だ」


ミリアの喉が小さく震えた。


——置いていかれたくない。

——でも、置いていかれる。

——わたしだけ。


その感情が、胸にじわじわと広がっていく。


その日、ミリアは笑わなかった。

白墨の粉だけが、彼女の指先に残っていた。


その白は、

昨日までは"希望の色"だったのに、

今日はただの"敗北の跡"に見えた。



──────────



翌朝。

窓から差し込む光は薄く、まだ夜の名残を抱いていた。


その静けさを破るように、

応接室の方から足音が近づく。


「坊主!!大変だ!!!」


扉が乱暴に開く。


「嬢ちゃんが、ミリアがいねぇ!!!」


心臓がひとつ強く跳ねた。


「……え?」


「どこ探してもいねぇ!寝台にも、裏庭にも、厨房にもいねぇ!!!」


ライアスの声は焦りと怒りと、

そして言葉にならない不安で濁っていた。


胸の奥が、

氷の指で掴まれたみたいに冷たくなる。


ミリアが――いない?


どうして。


どこへ。


なぜ。


なぜこんな早朝に。


思考が空転する中、

ひとつだけ、鋭く刺さる予感があった。


ミリアが逃げたのだ。


そう思った瞬間、胸の奥で何かが音もなく崩れ落ちた。


挫折。

焦り。

置いていかれる恐怖。

羨望。

嫉妬。


小さな絶望達は波紋を呼び、いつか大きな波になる。

そしてその波はいつか人を狂わせることを、俺は誰よりも"知っていた"。


「ミリアを…探してきます!!!」


「頼んだ!俺は街中を探す!

あの黒髪だ、目立つはずだ!」


街はライアスに任せればいい。

彼は商人だ。

情報の流れは知り尽くしている。


なら、俺が行くべき場所はひとつ。



俺の足は迷わず、

ミリアが最初に生きていた"闇"へ向かった。


太陽みたいな笑顔の似合うあの子が、

ひとりで戻ったはずの場所へ。

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