閑話 硝子の少年
僕が物心ついた頃から、廊下には音がなかった。
音の代わりに敷かれていたのは、「正しさ」という名の薄氷だ。
背筋の角度、足幅、開ける扉の高さ。
家庭教師は俺を木駒のように動かし、父は「それが家を背負う姿だ」と頷いた。
母は笑ったが、その笑みはたびたび形を整えられた。
僕は泣き方を忘れ、代わりに礼を覚えた。
甘え方を捨て、代わりに沈黙を覚えた。
それで誰も悲しまないなら――そう思っていた。
そんな毎日の途中で、あいつが生まれた。
産声はなかった。
赤子が泣かない。それだけのことなのに、喉の奥がざらりとした。
産室の奥、あいつは虚空を見ていた。
目を開いているのに、まだ世界に触れていないような顔で。
――何を見下ろしている。
――何を諦めている。
――何を、絶望している。
理由もなく腹が熱くなり、伸ばした指先に力が入った。
握った小さな手は、氷みたいに冷たかった。
すぐに離したが、遅かったらしい。
あの日を境に、僕はあいつと会うことを禁じられた。
母は常にあいつのそばにいて、父は「今は任せておけ」と言った。
任せておけ。だと。
僕は、任されるために氷を歩いてきたはずなのに。
僕はさらに勉強した。
文字、数字、地図、歴史。
口調も正した。僕は私と名乗るようになった。
廊下の氷が割れないように、ひたすら歩幅を合わせ続けた。
そうして迎えた、あの日。
末の弟の五歳の誕生日。
母が大扉を押し開け、「この子がカエルムくんです」と言い放った。
僕は一度だけ視線を向け、すぐに戻した。
あいつがまるで"この世の絶望を全て背負っている"というような顔をしていたから。
虫唾が走る。
ふと見るとセラフィスは犬歯を見せて笑っていた。
…こいつもこいつで訳が分からん。
食事を始めると、カエルムが口を開いた。
「兄上たちと三人だけで遊びたいのですが」
胸の奥の氷がわずかに鳴った。
あいつの目の奥に燃える黒が何かを告げているような気がして。
――怖かった。
「私は午後から勉強があるので辞退します」
理性で抑え、正義で形を作った。
だが、最後まで父に聞き入れてもらえることはなかった。
正しい言葉ではなく、正しくない願いが通る。
何故だ。
僕はずっと氷の上を踏み外さずに歩いてきたのに。
席を立ち、階段のところで振り返ったとき、カエルムが手を伸ばした。
「まぁほら、そんなこと言わないでさ!」
「僕に触るな!」
反射だった。
払った手は空を切り、カエルムは階段を落ちた。
骨が軋む音。
世界が一度だけ白く瞬く。
やってしまったと思った。
どれほど憎かろうと、怖かろうと、弟なのだ。
愛すべき対象を愛さなかった。
僕は、正しくなかった。
そう思った。
しかし、
――あいつは何事もなかったように起き上がった。
理解では触れられない場所に、あいつはいた。
――――――――――
その夜、僕は弟の部屋に忍んだ。
月光が床を斜めに裂いていた。
カエルムは目を開けていた。
「……起きていたのか」
声が震えた。氷が鳴るみたいに。
僕はナイフを胸に向けた。
「今すぐ自害しろ」
冷たい言葉を選んだ。理由を与えないために。
「死ぬことは、出来ない」
小さな声なのに、胸の奥で反響した。
「神からの――祝福でね」
祝福という響きが、妙に腹に障った。
「……忌々しい」
言葉より先に、奥歯がきしんだ。
「……なぜ、何も言い返さない!」
「……お前が、そう言いたくなる気持ちは分かるからだよ」
五歳の目ではなかった。
私より長く冬を歩いてきた者の目だった。
分かるな。
分かるな。
僕たちは違う。
「やはり、お前は化け物だ」
出てきた声が、自分のものではないみたいだった。
ドアを出る時、あいつは少し暗い顔をしていた。
「すまなかった」
そんな言葉を吐こうとしたのは"僕"だった。
それを"私"が喉で殺した。
翌日、カエルムが姿を消した。
窓の外の血痕を見た瞬間、胸が砕けた。
しかし、それと同時に安心した自分もいた。
これで、良かったんだ。
化け物は家から居なくなった。これで良い。そうだろう?
「ルシエルくん!?カエルムくんが…」
「母上、良かったではありませんか。"化け物"自ら居なくなっ…」
瞬間、頬が熱くなった。
生まれて初めて、母の平手を受けた。
「ルシエル…!あの子は、"私の子"です」
母は泣いていた。
僕の言葉で泣かせてしまった。
胸の奥が、ひび割れていた。
「……申し訳…ございません…」
その瞬間、氷の下に押し込めたものが溢れ、涙になった。
イゾルデは動揺したように手を伸ばし、ぎこちなく僕を抱きしめてくれた。
謝ろう。
弟に謝ろう。
弟が帰ってきたら、正しく向き合おう。
翌朝、食卓。
カエルムは静かに言った。
「俺は……前の世界で一度死んでいます」
ナイフを落とした。音が鋭く跳ねた。
前の世界。
前の…"家族"
その言葉が耳に入った時、僕の何かは完全に砕け散った。
あの時の僕の痛みは――!
あの時の母の涙は――!
あの時の僕の誓いは――!
一体、なんだったと言うんだ!!!!
「そんな得体の知れないものが――弟のわけがない!」
叫んだ声が震えていた。
みっともなくても止まらなかった。
「もう私の前に現れるな!!!」
扉を閉めた。
軽い音だったのに、胸に深く沈んだ。
廊下の突き当たりで立ち止まり、壁に額を預けた。
冷たい。
冷たさは嘘をつかない。
拳を開くと、薄い噛み跡が残っていた。
僕は正しいのか。
間違っているのか。
どちらでも良くて、どちらでも良くない。
カエルムはそのうちまた笑うのだろう。
世界の痛みを全部背負ったみたいな、あの笑顔で。
"分かるよ"
と言うのだろう。
分かるな。
分かるわけがない。
お前に僕の気持ちなど、母の気持ちなど…!!!
気付くと窓を殴っていた。
硝子片が拳に刺さり、血が落ちる。
割れた硝子は鋭くなる。
触れるものを傷つける。
――"私"は、硝子だ。




