ep.10 霧と代価
――深夜。
世界が深い眠りにつく頃。
ライアスさんとの邂逅から2日後。
アマリアさんの命は長くとも1週間だと言うのに、俺はそのうち3日間を準備に費やしてしまった。
「……馬鹿だな、俺は」
呟きは薄闇に沈む。
眠る気になれず、ただただ時間が痛かった。
手元には縄と布、火打石。
ライアスにもらった地図を何度も開いては閉じた。
線は線のままで、道にはならない。
地図の端が、指先の汗でしっとりと濡れている。
「これで足りるわけないだろ……」
誰に言うでもなく、息のように吐いた。
焦りは、眠気よりずっと重い。
間に合う保証なんて、どこにもないのに。
それでも、やらなきゃいけない。
やらなければ、きっと“後悔”という名の呪いが残る。
耳障りな程カチカチと時を刻む時計の音が、今は酷く遠くの方にあるように錯覚した。
この時間ならば、エドリックやイゾルデには見つからない。
そう思うと何故か胸が傷んだ。
自分が危険を犯す度、あの2人が傷つくのは分かっていた。
けれど、どうしても自分でやり遂げなければならないと思った。
誰もいない廊下。
胸を灼くような悔恨を胸の中に遺し、俺はひっそりと屋敷を後にした。
――――――――――
霧が濃い。
月明かりも届かぬ濃い霧は、まるで出立をためらわせているようだった。
門の前には、一台の馬車。
御者の男が煙草をくわえ、馬の背をぽんぽんと叩いていた。
俺の姿を見ると、眉をひそめて呟く。
「……おい坊主、お前、まだ10歳にもなってねぇだろ?」
「…やらなきゃいけないことがあるんです」
俺は短く言った。
御者は煙を吐き出して、苦笑した。
「ったく、ライアスの旦那もえげつねぇ真似するようになったな……。
まさか、子どもまで使うとはな」
「……使う?」
「10にも満たない子どもなんてこの国じゃ…いや、気にすんな。知らねぇ方がいい話だ」
その言葉の意味はわからなかった。
けれど、妙に胸が冷えた。
御者は手綱を引き、馬車がゆっくりと動き出した。
街並みが遠ざかる。
屋根も、明かりも、やがて霧に溶けていく。
「お前、帰ってこれると思ってんのか?」
「分かりません。でも、行かなきゃいけないんです」
「……そうか。
せめて、死ぬなよ」
御者の声は静かだった。
優しさというより、諦めに近かった。
窓から覗く外の光景はとても新鮮なものだった。
こんな時でなければゆっくりと景色を楽しみたいと思うほどに街道付近の景色は美しかった。
しかし、今はその景色でさえ、とても煩わしいものだった。
車輪の音が遠くへ吸い込まれていく。
霧の中、世界が眠っているように静かだ。
自分の鼓動だけが、生きている証みたいだった。
「……せめて、間に合え」
小さくそう呟く。
けれど、祈りの形にはならなかった。
どれほど時間が経ったのか分からない。
永遠のように長い長い旅路を経て、やがて馬車が止まった。
御者は振り返らずに言う。
「ここから先は……もう、道じゃねぇ」
霧の奥には、世界の終わりのような静けさがあった。
そこから先は生き物の気配がまるでしなかった。
まるで、世界から断絶されている。そんな感覚がした。
「ま、坊主。もし戻れたら、明け方もう一度この道を通りな。昼までは待っててやるよ」
そう言って、煙草の火を霧に消した。
その背中が、次第に霞んでいく。
やがて音が途絶え、完全な静寂が訪れた。
――俺一人だ。
「……行くか」
そうつぶやくと、俺は霧の中へと消えた。
濃い霧、不安定な足元。
足を踏み出す。
ぐじゅ、と嫌な音。
泥が靴を飲み込む。
もう一歩、さらに沈む。
「くそ……」
足を抜こうと力を入れた瞬間、ぬるりと滑って尻餅をついた。
泥が冷たくて、皮膚が切れるようだ。
笑うしかなかった。
「……死なない体でも、動けなくなったら終わりか」
誰も聞いていないのに、口が勝手に動く。
黙っていたら、本当に自分が“消えていく”気がした。
霧や泥に蝕まれ、どんどんと体温が下がっていく。
動かす足は鉛のように鈍く、手は震え始めた。
それでも俺はただ真っ直ぐに歩き続けた。
足がもつれ、腰が砕けそうになる。
それでも止まれなかった。
理性よりも、なにかもっと深い衝動が身体を押し出していた。
「………絶対に、助ける…。あの子を、1人にさせないために…!」
俺の中には彼女の笑顔があった。
生きろと命じるようなあの暖かさが、冷えた体を温めてくれている。
そんな気がした。
白い帳が、より深く降りてきた。
呼吸が重い。
泥の底から、何かが泡を立てている。
まるで、この地そのものが生きているみたいだ。
――風が吹いた。
一瞬、霧が裂けた。
その向こうで、白い光が揺れていた。
「……見つけた」
あれが、白葬花。
命を奪い、命を救う花。
息を殺して近づく。
布で手を覆い、そっと葉に触れる。
感触は薄い。冷たい。
けれど確かに、そこに“生”があった。
少し引いた瞬間――風が変わった。
霧が渦を巻き、空気がざわめく。
白い粉が宙に舞い上がった。
「っ、マズい――」
反射的に顔を伏せたが、遅かった。
花粉が肺に流れ込む。
喉が焼け、視界が白く弾けた。
息ができない。
音が遠のく。
世界が消える。
――死んだ。
温度も痛みもない。
ただ、静寂。
何も考えられない。
死とは、こんなにも“穏やか”なのかと思った。
次の瞬間。
心臓が叩きつけるように跳ねた。
空気が逆流し、喉が裂ける。
肺が焼け、体が震える。
「……っは……っ、ぁ……」
泥を吐き、空気を吸う。
冷たさと痛みが、いっぺんに押し寄せてくる。
静かな死がこんなにも気持ち悪いものだとは思わなかった。
「……俺じゃなきゃ、死んでたな」
乾いた笑いが喉の奥で弾ける。
死から蘇ったというより、壊れた歯車が無理やり回り出したような感覚。
世界の音が、一枚薄い膜の向こうにある。
「……せめて、これだけでも」
布に包んだ葉を懐にしまう。
指先が震えている。
寒さでも恐怖でもない。
その理由を考えることさえ、今はどうでもよかった。
空が、少しだけ明るくなっていた。
霧の中で白葬花が静かに揺れている。
まるで、何もなかったかのように。
御者の声が、ふと脳裏に蘇る。
――せめて、死ぬなよ。
「……すみません、嘘つきました」
小さく呟いて、笑った。
泥を踏むたび、冷たい音が鳴る。
夜が終わる。
霧が少しずつ薄れていく。
急いで帰らなければならない。
俺は来た道を真っ直ぐと戻る。
幸いな事に視界は開け、光を辿る形で出口を目指すことが出来た。
暖かな光を全身に浴びながら進んだ先に、朝日が昇っていた。
――4日目の朝だった。




