朝子は鵜飼いの篝火にピカソの光を見た
朝子は鵜飼いの篝火にピカソの光を見た
伊東 住雄
1
あれから十年が経った。
朝子から会いたいというメールが届いた日曜日、その朝は激しい風雨で一ケ月程前の七月のことだったが正直僕は戸惑い動揺を抑えることが出来なかった。朝子のことは大学卒業後も決して忘れることはなかったが納得が出来ないというよりか何かメタバースの世界を見ているような感じで、何故あの時彼女は部屋を出ていったのか未だ真相は藪の中で不可解な事件だった。
その約束の日が今日だった。
「また何処かで会えるといいね 朝子」
そうメモに走り書きを残し傍らに赤いモンブランのボールペンを置いて僕の前から突如姿を消してしまったのはまだ木枯らしの吹く寒い二月だった。僕は窓辺に叩きつける滝のように流れる雨を見つめながら彼女との過ごした十年前のことを思い浮かべていた。
窓の外は朝方にしては真っ暗で今にも雷雨が来そうな空模様に変わっている。建物の傍にある街路樹の木立は風と共に大きな音を立て、放置されたペットボトルがカラカラと音を立て道路の中央を駆けていく。風雨は次第に激しくなりベランダに植えてあった鉢植えの花も倒れベランダの壁の隅に追いやられ叩きつけられている。その姿は僕自身が追い詰められ叩かれている感じで、雨は益々激しくなり予想通り次第に遠雷が聞こえ始めた。何時しか僕はレースのカーテンを閉め再びベッドに潜りこんだ。
朝子が残していった赤いモンブランのボールペンは今も僕は愛用しているが多分に意識的に残していったのだろう。余計なことは云わずどちらかというと自分に不利だとしても何も云わず、無関心といえばいいのかそれともあまり他人と係わりたくないのか分からないが僕はあの頃そんな不器用な朝子が気にいっていた。
2
学生時代僕たちは名古屋の表通りにあるかなり古ぼけた古本屋で出会ったのが最初の出会いだった。たまたま僕が欲しいと思っていた本があったので取ろうとしたら同じように手を差し出し少し手が触れて目が互いに合い笑ったのが朝子との最初の出会いだった。その本はピカソの絵画集だった。
「この画集私に譲っていただけませんか?」
「何日も僕はこの画集を探してやっと見つけたのに。今度岐阜にピカソ展があるので調べておきたい絵があるんだ」
朝子は困ったような顔をし、少し頰を膨らまして僕を見た。何とも可愛い拗ねた顔をしている朝子の顔を見て僕は「いいよ」と言って彼女に譲ることにして本屋を出た。
「待って・・・・・・」
と朝子が叫びながら走って追って来て、先ほどのお礼がしたいからといってお茶でも飲みませんかと誘われた。僕たちは近くの喫茶店に入ることにした。
店内は窓がオープンで明るい光が差し込み、壁はピンク系で塗られ開放的だ。真ん中に大きなテーブルがあってその周りに四人掛けのボックスが所狭く配列されている。一日何回転するのか知る由もなかったが随分人が入っている。店内は僕の知らないジャズが静かに流れ、あの曲は何だったのかと考えるが聞き覚えはあるのだが名前は出て来ない。二、三人のウェイトスが忙しそうに動いている。僕たちは窓際の席を確保して互いに自己紹介をした。テーブルに置かれたグラスの中の氷が太陽の光にきらりと輝いた。
よく見ると彼女は栗色のセミロングの髪でクリーム系の春らしいワンピースを着ている。白い手の爪にはピンクを主体としたネイルを輝かしテーブルの上に両手を重ねた。僕は文芸部で小説めいたことを書いているのだと云うと朝子は美術部で絵を描いているのだと笑った。彼女は比較的抽象的なピカソの絵が好きで、自分も岐阜のピカソ展に行くことを楽しみにしているので良ければ一緒に行こうかと持ち掛けられたが僕は一人で見たかったのでその誘いを断った。怪訝そうな顔をして僕を見つめる彼女は「どうして?」と先ほど古本屋で見せたような顔でなく、額に皺を寄せたような苦渋な顔をして窓際に顔を向けた。一人でじっくり見たいというと実は私もそうだと笑いながら髪を右手で掻き揚げた。
「相当変わっているのね。そんなところ私によく似ている。ピカソのどこが好きなの?」
「僕は青の時代の絵が好きなのだよ。盲人や娼婦、乞食など貧民で社会の弱者として死、苦悩、絶望、貧困など社会から見捨てられた人、それは僕自身のような気がして惹きつけられる。孤独で不安な青春時代はみんな同じさ」
「そうだよね。私もそう思う一人かもしれない。特に展示されるあの青青時代の『ラ・ヴィ』の絵は友人のカサジェマスが銃で自殺をした後の絵でしょ、あの絵は複製で見たけど怖かったわ、見ました?」
「その絵は『死せるカサジェマス』というタイトルだろ。自分の頭を銃で撃った彼の絵を書くなんて想像もつかないし書けないよ。多分自分で結論を出すために、乗り越えるために書いたのではないだろうか。その点『ラ・ヴィ』は恋人のジェルメールと抱き合っている描写。右側の母子像はカサジエマスを見ながら彼は赤子を指さし項垂れている。考えさせられたのはその両者の間の二枚の絵で上の絵は抱き合っているが下の絵は恋人のジェルメールが項垂れ青の色合いが微妙に心の傷に突き刺ささり何か恐怖感に震えが止まらない」
「『自画像、海辺の母子像、盲人の食事』など有名なのが沢山あるけどあの時代青色は高貴な色でピカソが悲惨な姿を描く色ではなかったのよね。それだけに逆に効果を狙ったとも考えられるけどそれにしても迫力は凄いわね」
確かにピカソの絵は凄く、その絵の中から飛び出すような悲壮感は今の僕自身によく似ているような気がする。二十歳の時代の作品だとすればあまり年が違わない頃だ。僕はピカソの凄さというよりもそういう内面的な怖さに立ち向かう姿に驚いた。
僕は初めて朝子と言う女子大生と時間を忘れるほど話をして気が付けば凄く興味を惹かれていくのが分かった。それは考え方というか価値観というのか恐ろしく似て、世の中にこういう人もいるかと初めて思った。
それから暫くの時が経って二度目の再会をしたのは岐阜県立美術館であった。僕は実家に帰るとすぐに美術館に足を運んだ。美術館は大通りから少し入った処に広い敷地を確保し、周りは大きな木々が茂り欝蒼としているが美術館の中は広いので静かな風景を醸し出している。敷地の中はあちこちにベンチがあり石の造形や河なども取り入れた自然との調和が妙に生き生きと感じる。入場料を払って天井が高く格調高い廊下をゆっくりと歩いてピカソ展の入り口でパンフレットを貰って入場した。見たい作品はピカソの青の時代といわれる初期の作品で「ラ・ヴィ」という悲しみと憂いに満ちた静けさを持った作品だった。僕は一通り見て回り「ラ・ヴィ」の作品の前にあるベンチに腰掛けて暫く見とれていた。
1903年油彩と書かれているその絵は、貧民街の一室で唯一の動きは若い女性が爪先を立てているというただそれだけで何とも寂しい絵である。寂しい絵であるだけに多くの共感を呼ぶのだろうか。僕は先ほどからどの位の時間見ていただろうか。兎に角この絵を見たいからここに来たのだが何故か涙が出て仕方がなかった。ハンカチを出して汗を拭くように誤魔化していると肩を叩く者がいた。振返ってみるとそこに朝子が笑顔を見せながら立っていた。
「来ていたの?」
「ああ、楽しみにしていたから」
僕はそう言って笑顔を見せた。僕たちはもう一回りしてそして近くのオシャレな洋菓子店の二階にある喫茶店に入った。此処はピアノを弾いて客を和ませてくれる珍しい店だった。朝子はコーヒーとケーキを注文していたが僕はアメリカンだけで充分だった。それから小一時間ほどピカソやあのラ・ヴィの作品について語り合った。朝子はあの貧困生活の中でピカソが指さしているのは年配の女性ではなくきっと子供なのだと言って譲らない。足元の影がなんとなく気になり指先が未来を指しているのではないかと考えたりしたがピカソの青の色彩がやはり全体的に物悲しくさせてくる。子供の未来を光にして女性が抱いているのだろうという勝手な結論をお互いが出して声を出して二人は笑った。それにしてもその間にある二枚の絵はどう解釈すればいいのだろうか。上部の絵は彼女と抱き合う喜びの絵、下段はカサジェマスを失った悲壮で、それは性的不能ともいわれている姿だ。
それから僕たちが一緒に住むのに時間はかからなかった。
十年前のあの朝
「怖いわ」
朝子はベッドの中でそう呟き、大きな閃光が暗い部屋の中を突き刺すたび声を出して僕にしがみつき毛布を被り僕に裸身を寄せてきた。僕はぼんやりと部屋に稲妻の閃光がするたびに朝子の肩を抱きながらフランスに留学したいといっていたことを不意に思い出した。
「フランスはどうする?」
「スポンサーになってくれる?」
朝子はそんなことを言って顔を毛布から突き出して笑い、何時しか僕たちは雷雨の中で眠りについた。
僕はベッドの中で何故かあの時の情景を思い浮かべ朝子の温もりを思い出している。そんな状況の中であの日朝子は家を出て行ったことが僕には理由は分からなかった。何か事件に巻き込まれたのかもしれない、警察に相談しようかとも思ったがメモを書いているのだから最初から計画的なことだったのだろうと思い留まった。それにしても朝子が部屋を出たことは非常に不自然で僕には納得のいくものではなく社会人となっても僕は朝子のことを調べようと思い続けていた。朝子が家を出てから学校の美術部の連中や隣の部屋のグリーンクラブの後輩連中と話をしてみた。朝子には果穂という仲の良い友達がいて、いつも一緒で僕たちの部屋にも何度か遊びに来た仲だった。しかし、その果穂は結婚して家庭に納まっている。仕方なく美術部の部屋に行くと知り合いの後輩が見えて朝子が家を出た理由は知らないと話した。その日部活動は休みで誰とも朝子とは会ってはいなかったようだ。果穂にも相談はなく気がつけば部室にも顔を出さない状況でみんなは卒業旅行などで盛り上がっていたりしていたが朝子の話は誰も知らないと互いに顔を見合わせ語った。ただ隣の部室のグリーンクラブの友人があの日卒業演奏の練習を終えて一人で仕事の整理をしていたがかなり大きな物音がしたということが分かった。物が当たる様な音や泣き叫ぶ様な声が確かにしたような気がしたと話してくれたが、その事実が朝子自身のものであるとの確証は何一つなかった。
グリーンクラブの友人は高校の後輩だった。彼は曽我部と言ってクラブの部長をしている。僕は曽我部とグリーンクラブの部室で暫く話をしたが、部室は雑然とし何枚かの楽譜が無造作にテーブルの上に置かれている。壁には演奏のポスターがあちこちに押しピンで貼られ、隣の美術部の話声は微かに漏れて来る程度で気になるほどではなかった。
「先輩、僕が話すことはおぼろげ乍らであって事実と違うかもしれません。それでよければ僕が感じたことや見たことをお話しますが、ただそれが朝子さんだという自信はありません・・・・・・」
僕は曽我部が話すことは朝子のことではないかもしれないが気になることがあれば何でもいいから教えて欲しいと頼むと曽我部はゆっくり話し始めた。
「あれは二月の寒い夜でした。時間は夜の八時頃だったかな。お腹が空いたので学校の購買部は締まっているのでコンビニに行って夜食を買ってきました。その時美術部の部室の前で三人の男が立ち話をしていましたが余り見たことのない人達でした。僕は気にせず部室の鍵を開けて一人で演奏会の楽譜の準備の仕事をしていたのです。そうしたら突然女性が大きな声を出して泣き叫んでいるのが分かりました。物が壁に当たったようなドスンという鈍い大きな音が何度かしました。美術部は普段はおとなしく静かで僕たちの音楽の音が迷惑を掛けていることを知っているのでいつも恐縮していたのですがその日は何故かドタバタした音が暫く続きました。何か大きな怒声と甲高い奇声のような声が聞こえてきたのです。僕は少し気になって部室を出て美術部の部屋を覗いてみました。そうすると廊下に一人の男が立っていました。何もないから覗かないでくれ、と両手で制して拒否するのです。僕は正直怖かったですが部室を見ると電気は消えていましたが、帰ることもできず再び部室に戻ったのです」
そこまで曽我部が話をしてペットボトルのウーロン茶を一口飲んだ。彼の話はまだ壁に無造作に押しピンで留めてあるポスターを見ながら思い起こすように話を続けた。
「僕が部室に戻ってから三十分位でしょうか、凡そなので明確ではありませんが女性の大きな叫び声が聞こえ、そのあとまた物を投げつけるような激しい音がして静かになったのです。時間はもう帰ろうと思っていましたので夜の九時頃だったと思います。そして帰る時に部室を覗いたのですがもう部屋の電気は消され何も見えませんでした」
曽我部は知っていることはそれだけだと言ったが、気になることを最後に言った。
「僕が部室を覗いて帰ろうとした時、廊下を小走りに走る女性が二人見えました。確かにあの後姿は女性だと思います。コートを被り赤いマフラーをして走る姿はこのことと関係があるのかどうかはわかりませんが確かに女性だったと思います。ただその女性らしき人が朝子さんだといい切る自信はないです」
曽我部は一通り話をしてくれた。咄嗟に二人の女性は朝子と果穂ではないのだろうかと思った。赤いマフラーは何時もしていた朝子のものに違いはない。だが曽我部がいうように確証は何もない。曽我部に礼を言って部屋のドアを押した時その背中越しに曽我部が言った。
「先輩は朝子さんのことが本当に好きだったのですね」
僕は黙って笑った。
3
僕は果穂が一番状況を知っていると思い彼女を訪ねた。美術部の同僚だった果穂は武田と学生結婚をして卒業後は家庭に納まっていた。二人で岐阜市の武田の結婚式に参列したが実家が開業医ということもあって政界や経済界の名士たちが名を連ねていた。主賓の挨拶が延々と続き少々うんざりしたが田舎ではこの主賓の挨拶の人数が結婚式の格を表すのだそうだ。元々中部地方の冠婚葬祭は派手であったが特にこういった行事は地方の有名な名士の交流の場になっている。僕たちはそういった人のグループとは離れ友人たちと気楽に話ができる席であったので楽しく過ごすことができた。果穂はかなり学校でも美人で人気があり大學祭の美人コンテストに推薦されたりもした。一方武田は僕とたまたま高校が一緒であったが校内でばったり会って少々驚いたが初めて同じ大学を受験したのだと知った程度だった。
曽我部と別れてから数日後僕は果穂と学校の坂の下の喫茶店で会った。果穂はキャンバスを入れたトートバックを相変わらず肩に掛けて店に入ってきた。結婚しても大学の美術部に出入りし絵を描き続けているようだ。僕は右手を軽く挙げ果穂を迎えた。
朝子と果穂は同じ学年で同じ美術部という間柄で非常に仲が良かったし、勿論僕たちの部屋にも何度も顔を出したり武田と共に来て一緒に酒を飲んだりする仲だった。だから僕たちは何も遠慮をすることはなく本音で話せた。
「まだ朝子から連絡はないの?」
「うん、携帯も電源が切られているしメールもブロックされている」
「あの日何があったのだろう。私も何度も電話をしてみたけど全く通じなかったわ。自宅の電話番号も知っていたので掛けてみたけど母親だろうと思うが知らないと言っていた」
僕は曽我部から聞いた話を一通りした。果穂は少し怪訝そうな顔をして
「多分それは朝子とは違うと思う。仮に朝子なら私に言うはずだしあの日私と会う約束をしていたのだから・・・・・・」
「会う約束?」
「あの日は日曜日で部活が休みだったので二人で買い物に行こうって言っていたの」
僕はそんな話は初めて知った。あの事件があった日はバイトから帰ると普段通り朝子は部屋にいた。
「えっ?部屋に居たの?」
事件のあった日は何事も無く普通の生活を送っていた。確かに元気がなかったといえばそうかもしれないが全くそんな事件があったことは信じられない。僕は曽我部の話は朝子のこととは違うのではないだろうかと瞬間思った。
しかし、それから暫くして朝子は家を出て行った。
ベッドから起き上がった僕はコーヒーを飲みながら壁に掲げている一枚の油絵を眺めた。それは朝子が描いた絵で真っ赤な薔薇の花だ。花瓶に無造作に活けられた数本の薔薇の花があったが真っ赤に咲いたその薔薇の花の一輪が花瓶から何故かテーブルに落ちている。一般的にはきちんと花瓶にまとめるのだが何故かその薔薇の絵は一つだけ落下している様子を描いている。そのことを朝子に尋ねると
「花って咲いている時は綺麗だけど綺麗ばかりではないでしょ?花が散って雨風に叩かれひょっとして誰かに踏み潰されるかもしれない。だから私は変わっているかもしれないけどそういうところをこの絵の中に描き込んでみたかった。綺麗な花の裏側をえぐる様なそんな絵にしたかったのよ。人間だって心は表の表情ともう一つ心の内面に潜むもう一人の心があるでしょ。そんな裏腹な心理を描いてみたかったの」
あの時朝子はそんなことを確かに言った。その考え方は非常に納得いく二面性ではあるがそのことと現実を相殺することには多少の矛盾を感じた。それは朝子自身が一番よく知っているのではないだろうかとコーヒーを飲みながらそんな会話を思い浮かべた。
部屋はあの日のままである。僕は無精というわけではないが余り朝子のものには手を付けてはいない。洋服や本や机はいつか帰って来るのではないかと思いそのままにしていた。僕は改めて朝子のメールを読み直してみた。
2021・07・31
TO:篠田圭太郎様
件名:朝子です
圭太郎様
ご無沙汰致しています。朝子です。突然のメールで驚かれたと思いますがお許し下さい。あれから十年になりますがお元気でしょうか。私は実家に帰り高校で美術の教師をしています。黙って家を出たからさぞ私のことを恨んでいるでしょうね。それだけのことをしたのですからどんな仕打ちをされても文句をいうことは出来ませんがどうしてもお会いしたいのです。あの時私が家を出なくてはいけなかったことを話してあなたに分かってもらいたい、事実を事実として受け止めてもらいたいと勝手なことを日々考えていました。それはあの日以来どうにも気持ちを抑えることができなくなってしまいました。それは先日あなたが実家に真っ赤な三十三本の薔薇の花束を誕生日に送って頂いてから余計我慢が出来なくなったのです。誠に我儘なお願いですが宜しければ来月の中旬頃にお会いしたいのですが如何でしょうか。ご都合のいい日お返事頂ければ幸いです。
朝子
2021・08・01
Re:
件名:ご無沙汰しています
朝子様
お元気ですか?随分心配してあなたを探しましたが所在は分かりませんでしたがご実家に帰っていることは解りました。それでご実家にも二度ばかりお邪魔いたしましたが運悪く会うことはできませんでした。あの日から何故?という気持ちともう諦めた方がいいという心の中のもう一人の自分が葛藤をしていることが悲しく気が付けば十年が経っていました。僕はあなたが家を出たことが納得できず学校や友人とも話をして詮索しましたが結局のところ明確な答えは出てきませんでした。そんなことで僕の方こそ早く会いたいと思います。八月の中旬前でしたら時間は取れると思います。また詳細は後日ご連絡いたします。
圭太郎
確かに家を出たのには何か理由があったのは事実だった。しかし、何故今頃なのだろうか。朝子が家を出てから僕はあちこち聞き込みをしたり友達を探したりして随分駆けずり回ったが決定的なことは結局何も分からなかった。
僕は二度朝子の実家を訪ねている。最初は別れてから二年後、そして十年後の二回だった。その事実を重く受け止めたのかどうかは理解できないが朝子から意を決するように会いたいといってきたが会うことに僕の迷いは何もない。
もう外は雨が止み明るくなってきたのでレースのカーテンを開けた。ベランダで倒れた鉢植えの植物を起こして窓を閉めたが、部屋は雨上がり特有のむっとした蒸し暑さを感じ、その空気の気怠さがエアコンのスイッチを入れさせた。コーヒーを飲み終え机に座ってぼんやりと新聞に目を移したが心は落ち着かずやはり朝子とのことばかり次々と映画の場面を見ているように思い起こされた。
4
朝子が家を出てから二年目のことだった。僕は住宅メーカーに就職をしていたが休暇をとって朝子の実家に向かった。朝早く岐阜駅でJRに乗って名古屋まで行き名古屋から新幹線で岡山まで行った。そこで瀬戸大橋を渡って予讃線に乗って朝子の実家まで行くのだが瀬戸大橋は鉄橋の柱は見えるが真下の海は見る事は出来なかった。何か川を渡っている感じで遠くの穏やかな瀬戸内の波は駆り立てる心を癒してくれた。予讃線に乗り換え新居浜駅について一度下車。そして彼女の実家は次の無人駅になっている中萩駅というところで時間的には余りかからずにすぐに着いた。ホームを降りると誰も下車するものはなく僕だけがホームに取り残された。
朝子からこの中萩駅のことは聞いていた。今は寂れているが昔は夏休みには毎日ラジオ体操があったし駅の広場はみんなで遊ぶ広場だった。その広場や駅の構内を囲むように萩の木が覆うっていた。きっと秋には綺麗な花を咲かすのだろう。そういう朝子は高校時代汽車で通学していたが随分色々な思い出があるようで僕に話をしてくれたからすぐに分かった。駅前にしては普通商店街があるのだがこの駅は昔から商店街は何故かなかったそうだ。僕はそんな朝子の言葉を思い出しながら駅前の大きな鳥居を左に曲がった。鳥居は西日本で最高峰1982メートルの高さを誇る石鎚山があってその霊山の入り口と言うことで建てられたようだ。
朝子の家はすぐに分かった。車が充分に通るには少しきつい感じがしたが、凡そ十分も歩けば彼女の家だった。家の周りは木々が茂りその外側がブロック塀で囲われていた。周りに家はなく田畑の真ん中にポツンと建っている。建物は西日本特有の入母屋造りで八尾建てと言うものだった。八つの棟の尾を伸ばし下に石垣を作るとお城になってしまう。重厚な瓦が凄い。僕は朝子が育ったその家の建物を暫く佇んで見ていた。
「こんにちは」
声を掛けたが玄関は閉まっているし何度か呼んだが声はない。仕方がなく裏口に回って声を掛けてみたが誰も見えなかった。
農家風の身支度をした通りすがりの近所の女性が言った。
「お昼間はいませんよ。宜しければお伝えしますけど・・・・・・」
親切に声を掛けていただいたが丁重にお断りして僕は名刺に来たことを書いてポストに入れておいた。多分に気がつくはずだと願ってまた中萩駅まで戻った。駅には高校生が学校から帰って来たのか駅前に並べている自転車に乗って一斉に動き出した。その中に制服を着た朝子の姿を垣間見たような気がした。以前アルバムを見せてもらった朝子の女子高生の写真を見た記憶が不意に蘇ってきた。僕は停車している汽車に飛び乗り新居浜駅前で一泊して夜にでも会いたいと思ったが仕事の関係もあるし来ることを知らせてもいないのだから今日は帰ろうと考えた。連絡することは簡単なことだったが拒否されることが怖かった。駅前での朝子の心象風景を思い浮かべながら列車の最後尾に乗って汽笛とともに走り出すと駅はどんどん遠くなり余りにも寂しく映った。中萩駅を出てすぐ右手に朝子の家が見えて来る。僕は去りゆく風景に朝子とは別れたのだと自分を納得させるように呟いた。
帰って僕は早速果穂と会った。果穂は伊勢志摩にある五ヶ所湾の高台に位置する別荘に住んでいた。武田の父親の保養センターだといっていたが殆ど家族で利用しているとのことだ。果穂はこの別荘から風景を眺めながらベランダにイーゼルスタンドを立てて絵を描くのが日課だった。ベランダから見える五ヶ所湾は穏やかな海で緑の島々が生き生きとして見える。湾の中の港には船舶が整列し海の中にはエンジン音をふかしながら一隻の船が水平線に向かって沖に出て行こうとしていた。湾の入り口辺りは太陽の光に輝き、爽やかな潮風が頬を撫で何とも言えないいい気持ちになった。
「どうして折角行ったのだから会えるまで向こうにいればよかったのに。あんなに仲が良かった二人だったのに。亮といつも話していたの。あんな二人みたいな家庭にしようねって」
僕は苦笑いをしながら仕事の都合でどうしても帰らないといけなかったのだと話した。果穂はコーヒーを入れてベランダに持って来てくれた。春先の柔らかな陽光と潮風に心が癒され久しぶりの談笑の時間を過ごした。この別荘には一度朝子も一緒に来たことがある。
あの時僕たち四人はこの伊勢志摩の五ヶ所湾に泊めてある武田のクルーザーに乗って沖に出た。そのクルーザーでの出来事だった。その日はお天気も良く波も穏やかでかなりみんなテンションが高かった。しかし、釣った魚を料理し食事を終えた頃、武田が酔った勢いに任せて果穂に絵を描くのは才能がないから辞めた方がいいと言い出した。当然果穂は烈火の如く感情を露わにして怒りを武田にぶつけた。
「なんで私が絵を辞めなくちゃいけないのよ。自分の好きなことにはお金を平気で使って親からは馬鹿にされて・・・・・・。そんなことで私の時間を縛って束縛しないでよ」
果穂は本気で怒りだした。僕と朝子は二人のやり取りを黙って聞いていたが武田が急に立ち上がり簡単に作った食卓テーブルをひっくり返し思い切り果穂の顔を叩いた。
「止めて!」
朝子は大声を出した。僕は武田が更に果穂を叩こうとする右手を抱えて止めさせようと後ろから抱えた。そうすると今度は武田の怒りの矛先は朝子に向かってきた。
「俺たちの問題だから二人には関係ないだろ。黙っていてくれよ」
「海の真ん中で喧嘩することも無いじゃないか。果穂ちゃんだって好きで描いているのだからそれはそれでいいじゃないか」
「そうよ、暴力を振るうなんて最低よ」
「何!」
朝子の言葉に武田はおぼつか無い足取りで朝子を殴ろうとした。彼は酔いも手伝ってかふらふらした状態で倒れ込むように殴り掛かり足蹴りをした。その足を防ぐために僕は咄嗟に朝子の前に体を寄せて彼女を庇った。二人は取っ組み合いになり海に凭れるようにそのままデッキの外に放り出された。船はその衝撃で大きく左右に揺れ朝子と果穂はデッキに捕まり助けを求めた。僕と武田は絡み合ったまま海中に落ち海の中でも手足をばたつかせ暴れたが、何か馬鹿馬鹿しくなり彼を足で蹴って突き放し船に戻った。
「武田君が上がってこない」
朝子の言葉に僕は驚いた。果穂は殴られた頬に手を当て海面を見ている。
「彼あまり泳ぎ得意でないのよ。それに飲んでいるし・・・・・・」
ぽつりと果穂は言った。僕は再度海に飛び込み溺れそうになった武田を抱え船に引き上げた。そして運よくたまたま様子を見ていた武田の知り合いの仲間が駆けつけてくれ岸まで船を運転してくれたのだった。武田はその場で病院に運ばれることになり、果穂はこんなことになって申し訳ないと謝りその場で別れた。
そんな気まずさもあってかその後二人からの音信は一時途絶えていた。それが突然結婚の招待状が届いたから正直朝子も驚いたが、その間何があったのかは知らなかった。
それにしてもどうして彼女は学生結婚をしたのだろうか。朝子も何も相談がなく結婚の招待状をじっと見つめながら呟いた。
「不思議ね。何かあったのよ。でも学生結婚にしては盛大にするようだし果穂は頭がいいからきっとうまくいくと思う」
そんな一連の話があったことを僕はベランダの椅子に座って海を眺めながら思い出していると、そこに武田が海から帰ってきた。
「おう、来ていたのか。元気そうだな」
「そうでもないよ。お前みたいに裕福じゃないからな」
彼は荷物を別荘の片隅に置いて今夜近所の連中とバーベキューをするからお前も一緒にどうだと言ったが僕はそんな時間もないので失礼すると言って車に乗った。その時武田が右手を上げた手にサポーターが付けられていることに気が付いた。
「右手どうしたんだよ。怪我でもしたのか?」
「いや、たいしたことはない。もう直っているのだけどな」
僕は武田と果穂に見送られて五ヶ所湾を後にした。
車を運転しながら武田達の結婚式を思い浮かべていた。確かに学生にしては贅沢なほどの結婚式だった。あの時朝子は岐阜の実家に初めて来た。家に着いて両親に朝子を紹介してすぐに自分の部屋に籠った。
「きちんと挨拶しなかったけどいいの?」
「そんな事いいよ。堅苦しいのは嫌がるから」
朝子は少し怪訝そうな顔をして頬を少し膨らました。どうもきちんと挨拶をしたかったようだ。
結婚式の披露宴は三時間ほどでスケジュール通り終わった。
そして、僕たちは豪華な結婚式の後、酔いを醒ましながら近所の喫茶店に入った。二人で喫茶店に入るのも久し振りだ。
「圭、結婚しようか・・・・・・」
唐突に朝子が言ったので僕は面食らってしまったがすぐには答えが出てこなかった。
「結婚したいの?」
「圭はあまりお金持っていないからなあ。スポンサー探すかな」
そう言って大きな声で笑った。朝子は結婚と留学を天秤にかけているのだろうか。不意に僕はそう思った。それから数時間後僕たちは名古屋の部屋に帰ってきた。テレビを見ながらぼんやりしていると朝子が後ろから抱き着いてきた。
甘えた声で朝子は多分に果穂の結婚式の興奮が覚めやらないようだ。結婚式の幸せそうな二人を見ていると今まで喧嘩をしたり罵ったりしたことが嘘のような気がする。僕たちは確実に発情していた。
行為の後僕たちは窓辺に立って外の夜景に目を移した。何処からか音楽が聞こえて来る。朝子は身に何も纏わず裸身を僕の体に寄せていた。夜の蛍光灯の光が神秘的に朝子の体を窓ガラスに映し一層浮き彫りにする。朝子は右手で長い髪を掻き上げ僕の背中に手を回して頬を寄せてきた。甘酸っぱい香水の香りがたまらなく刺激的だ。普段あまりつけないのだが今日は果穂の結婚式なのでつけていたのだと気が付いた。それが余計朝子を魅力的に刺激的していることの様だし朝子自身テンションが高くなっていたようだと気が付く。
「圭、いつまでもこうしていたい」
僕は朝子を前向きにしてハグをして軽く唇を交わすと朝子は僕の胸に顔を埋めた。
僕は五ヶ所湾からの帰りの車の中であの頃のことを思い浮かべながら帰ってきた。
5
住宅展示場の一番忙しい時間帯は土日の十二時過ぎが最も繁盛時間だ。それ以外は比較的事務的でのんびりしている。昨日のアンケートの整理や訪問先のアポイントなどの確認に追われ見込み客への挨拶や現地の確認、そして測量の段取りなどをしてプランニングをする。一般的にはプランは営業マンが描いている。固まれば建築に回すがそれまでは我々の仕事だ。建物の前にのぼりやその他小物を並べ今日の打合せをする。そんな時だった。曽我部から少しお話をしたいことがあるのですが会えませんか?という電話があった。
仕事を早めに切り上げ夜の八時頃に曽我部と展示場の近くの喫茶店で会った。曽我部は真っ黒に焼けた精悍な顔をして相変わらず元気そうだ。
「実は朝子先輩のことで少し参考になるかどうかわからないのですが小耳に挟んだものですからどうしても僕の胸に納めておくことができなくて・・・・・・」
「ありがとう。で、どんなこと?」
曽我部は淡々と話しを始めた。
「僕が部室に帰ろうとしたら三人ほどの見知らぬ学生がいたということは言いましたね。それで物音の様子を改めて覗きに行ったら部室は真っ暗だったとお話ししたと思うのです」
確かにこの辺の話は二年前に曽我部から聞いた。曽我部は自分が部室に帰る直前に写真部の連中が前を通ったが、その時実は美術部の電気はついて朝子先輩は一人で絵を描いていた。しかし、驚いたことに廊下に佇んでいた男は武田だというのだ。
「どうして武田だと分かるのだよ」
僕は曽我部に強く迫った。
「写真部の友達が武田さんと知り合いで話をしたらしいのです。だから間違いはないのです」
「武田?・・・・・・。いったいどういうことなのだろう」
僕は武田と話したという写真部の男に会いたいというと曽我部は携帯を開いた。
「現在、彼は新聞社に勤めていますが電話番号を教えましょうか?」
僕は曽我部から写真部の小堺という男の電話番号を聞いて別れた。早速電話をしたが小堺は取材中らしく不在で留守電にメッセージを入れて置いた。
それにしてもこのことは事実なのだろうか。先日果穂や武田に会って帰って来たばかりだというのに馬鹿馬鹿しい。しかし、あの事件は朝子が確かに部室にいたということは確認が出来たが、部室の前に見知らぬ男の中に武田がいたとなれば筋書きは全く分からなくなった。
翌朝小堺から電話をもらった。僕は礼を言いながら少しその時の状況を聞かせてもらえないかと話した。小堺は昼間少し時間が取れますかということだったので僕たちは県庁の近くの喫茶店で会った。そして彼の話を聞いてみると夜の七時半頃だったそうだ。三人の男たちが廊下で立ち話をしていた。そこは美術部の部室の前ではなく少し離れたところだったようだ。僕は本当に武田なのかと念を押して聞いてみた。
小堺は大柄でどちらかというと体躯系の好青年という感じだった。服装は新聞記者らしくよれよれの服を着ていたが何故か彼にはその方が野生的で魅力的に映った。写真部で武田はヨットやクルーザーを持っている。以前ヨット部の特集があって琵琶湖にヨットハーバーがあるのでそこまで取材に行ったのだという。だから武田先輩も覚えていてくれて世間話をしたのだと言った。僕は小堺に改めて礼を言って別れた。琵琶湖にヨットを持っていることは以前朝子から聞いたことがあるし、花火大会をヨットで見るのだと言っていたことを思い出した。
朝子はあの時部室でレイプされたのではないかということが想像から確信に変わっていくことに体が硬直し持っていき場のない怒りが怒涛のように湧きあがって来た。僕は部屋の隅にある雑誌や物を思い切り壁に投げつけた。彼女はどれほどの苦しみをしただろう、その苦しみを解決するために会いに来るのだ。それは彼女のケジメかもしれない。僕は彼女の死ぬような苦しみを想像するとやり場のない何ともできない自分を責めるしかなく気が付けば僕は涙を流していたようだ。何とか朝子を救ってやることが僕の身近にいる事実を知っている者の使命だと思った。確かに武田には不審なこともあるがあの傷は何だろうか。そうすると果歩も絡んでいるのだろうか。信じがたい話を僕は事実だと恐怖感が先立ち認める勇気はなかった。彼女と関連があるのではないだろうか。僕は小堺からその事実を聞いてから力が一気に抜けるようで覗いてはいけないパンドラの箱の蓋を開けてしまった気がした。
窓の外は朝方の雷雨は嘘のように晴れ渡り夏の盛りを知らせるような好天気になってきた。窓を開けて外の空気を吸ってみた。大きく胸を膨らませて今までの過去の鬱積を一気に吐き出すように息を吐きだした。壁に掛けている薔薇の花の絵に涼しい風が撫でるようにレースのカーテンが揺れた。
小堺の話を聞いてから後僕は改めて朝子の実家に行くことを決めた。別れて二年後訪問したがそれ以来となるが、やはり今度も新幹線を使った。
季節は初夏を思わせるほど暑い日々だった。
最初に果穂から知らされた絵の師匠である田中さんのアトリエに行くことにした。降り立ったところは二年前と変わらない予讃線の中萩駅という無人の駅で降りたのは今回も僕一人だ。アトリエは山手の閑静な住宅地から少し離れた場所にある。洋風の建物で屋根は緑色の瓦の寄せ棟で窓は格子で木製の枠だった。外壁は茶色のスタッコの塗りでその壁に青々とした蔦の葉が建物に絡むように繁っている。その蔦を追うように黄色い薔薇の花が追い掛けている。一見洋風に見える建物の入り口に乱暴に絵画教室田中と書いた看板が無造作に掛けられていた。玄関の前に佇みながら僕は恐る恐るチャイムを押して声を掛けてみたが返事がないので何度か声を掛けると声が背後から声がした。少し驚いて振り返ると無精髭を生やし煙草を吹かしながら立っている背の低い男がいた。
「田中ですが御用ですか?」
僕は朝子を探して実家まで来たのだと伝えた。以前絵画の勉強をここでしていたとのことを聞いていたのでお邪魔しましたと丁寧に話をした。
アトリエは雑然としているけど遠くから来てくれたのだから上がってくださいと言われ僕は少しの時間お邪魔しようと思い田中さんの後について行った。
「この絵が朝ちゃんの絵だよ。あの絵もそうだったかな。間違いない、この絵は朝ちゃんの絵だよ」
その二つの絵は彼女にしては珍しく田園の風景画であった。僕は彼女の風景画を初めて見たので何故か新鮮な気持ちになったことは事実だ。
「今彼女は何をしているのでしょうか・・・・・・」
田中さんは朝子が高校の美術の先生をしていることを教えてくれた。この教室には小さい頃から通っているからよく知っているが、今でも時間があれば子供たちに絵を教えに来てくれているそうだ。非常に優しくて子供が好きな人気の高い先生だと誉めた。暫くの静寂の後天井を見つめながら田中さんはある事件を話した。
「中学の時だったかな。絵を辞めると言って泣きだしたことがある。ご両親も必死に止めたのだけど辞めると言って利かなかった。それは県展で最優秀賞になった作品でトランペットの絵だった。ただそのトランペットは壊れて第一ピストンバルブが取り外されていた。作品は「壊れたトランペット」と言うことで少々変わってはいたがこの作品は多くの方に賞賛され地元新聞にも紹介された。だけど何故か彼女はトランペットの高音の裏側と言うのだろうか、そのきれいな音の悲しさみたいなものを作品の中に描きたかったということらしいがそれが描けなかったということで悔しがった。人には見えない裏側の表情がある。それを描きだすのが芸術ではないだろうかと我を張って半年位教室を休んだ時期がある。見えないものが見えて、見えて意味のない物は選択して削除していく。芸術なんて辻褄合わせのようなところがある。ただそういうことで表現力を高めていることには違いはない。あの時彼女は壊れたトランペットの絵画に自分の思いと違う評価をされ所詮自分の力はこんなものかとショックを受けたのだよ」
田中さんはそう言って煙草のフィルターをトントンとテーブルに叩きつけて火を付け大きく煙を吐き出した。煙は揺れながら天井の隅に吸い込まれるように静かに消えていく。
「しかし、入賞した作品に満足しないというのはかなり信念があったのですね」
「彼女の持論は芸術の表現は不幸な環境でなければ描けない。絵や写真、焼き物でも何にしても芸術と言うものは不幸の中から湧き出てくる、あるいは反発するエネルギーみたいなものではないかと言っていた」
そういった話は昔朝子から聞いたことがある様な気がしたが落ち着いて壁に掛けてある田園風景の二枚の絵画を鑑賞する余裕はなかった。それだけ田中さんの話は興味深いものだった。アトリエは北側に大きな窓があって南は小さな格子窓がある。南は採光が入り過ぎて本来の繊細な色が分からない。だから此処では北側を主体にして優しい光を入れているのだと彼は説明してくれた。南側の格子窓にはクラシック調のステンドグラスがあった。落ち着いた教室のアトリエを見て田中さんの話を聞いていると何時しか時間の経つのも忘れてしまいそうで僕は田中さんの教室を後にした。
朝子の家の門を潜るのは二度目だった。八年前に此処に来た時と風景は何も変わってはいない。集落から少し離れてポツンと建って、家の周りは相変わらず木々が茂って建物の生活感を演出している。
「こんにちは」
玄関の鍵がかかっていなかったので玄関の扉を引いて声を掛けた。部屋の中から声がした。僕は朝子が出てきたのかと思ったが母親のようだ。
「岐阜から来ました。篠田圭太郎といいます。朝子さんはお見えでしょうか」
「朝子はまだ学校から帰っては来ていないのです。最近は忙しくて帰りは十二時頃になる時もあります。でもよく来てくださいました。あなたのことはよく朝子から聞いています。どうぞお上がり下さい」
そう母親から言われ僕は応接室に通された。そこは十畳位の広いリビングであった。飾り物があちこちに並べられていたが壁に掛けられた一枚の絵に僕は釘づけになった。その絵は僕の部屋にある薔薇の花と同じものだった。しかし、違うところは薔薇の花がテーブルに二輪落ちていることだ。僕の部屋の薔薇は一輪だったが何故か朝子の部屋の薔薇は二輪テーブルに落ちている。その薔薇の花は黒っぽい木製のテーブルに敷かれている白いレースに浮き上がっているように見えたがもう一輪の花は僕なのだろうか・・・・・・。
「落ちた花なんて縁起でもないのにあの子ったらこれがいいのだと言って描いたのですよ。可笑しいでしょ」
僕は黙って笑った。
「朝子は高校の先生になっています。圭太郎さんのことはよく知っています。一緒になれなくて本当にごめんなさいね。ご縁がなかったのでしょうか。そうそうこの前朝子のお誕生日に真っ赤な薔薇の花を届けていただいてありがとうございました。本人もすごく喜んでいましたよ。折角だからドライフラワーにするってぶら下げています。本当に早く帰ればいいのですが今は年度替わりで新しい生徒が入って来たのでちょっと忙しいみたいです。圭太郎さんがお見えになったことは確かにお伝えしておきます」
母親はそう言ってくれたので僕は以前一緒に住んでいたマンションに今も住んで現在は住宅メーカーに勤務していますと話を伝えた。そう言って手土産を渡して彼女の家を出た。暫く細い道を歩いていると一人の少女に出会った。少女は黄色い帽子を被り赤いランドセルを背中に掛けて家の中に駆け込んでいった。
朝子の子供?・・・・・・、一瞬僕はそう思うと同時に朝子は結婚しているのだと思った。結婚しなければ子供がいるのは不自然なのだから確かに結婚しているに違いない。僕は振返って少女を追ったがもう少女の姿はそこには見えなかった。
6
僕たちは昔よく遊んだ近くの公園で会うことにした。朝子の家に行ったとき一緒に住んでいたマンションにまだ住んでいるといっておいたので必然的にそこになったみたいで場所は朝子が指定してきた。午後三時に公園でと言うことで僕は少し小奇麗な半袖のポロシャツを着て公園に向かった。この公園はよく二人で気分転換に来たところだ。此処からは図書館が見え、その屋上には何時も鳩がいて和やかな風景を見せている。僕たちは公園のブランコに乗っていつも将来のことを話した。それは日常的なことで僕は流行作家になって朝子は画伯になってなんて冗談とも本気ともいえないような話をしたものだ。
公園にもう朝子は来ていた。僕は一瞬立ち止まり意を決したように右手を挙げて笑顔にならない何とも締まりのない表情を見せた。朝子もまた立ち上がって軽く会釈をして迎えてくれた。僕はこの再会でどうして朝子が出て行ったのか知りたかったし、朝子もまたどうしても話したいのだと思っていたに違いないが、朝子が切り出す迄その話は封印しておこうと思った。あまり慌てたくない、何といっても十年も経っているのだからお互いの環境や状況が変わっていることには違いなかったから当然と言えば当然だった。
「元気そうね」
「朝子だって元気そうじゃない」
公園のベンチに腰掛けて僕は先日四国に行ったことを話した。朝子は母親から聞いたといい、今は高校で美術の先生をしているのだと話した。子供が好きだから子供に教えたいといっていたが本当にそうなったのかと思った。僕はあの赤いランドセルの子供のことが引っ掛かっていたが聞く勇気はなかった。
ベンチに腰掛けて話をしながらまだ同じ処に住んでいると告げると黙って笑った。公園の砂場で幼い子供たちが遊んでいた。その近くでは親子がベンチに腰掛けて食事をしている風景があった。いつの日か朝子が自分の子供とこの公園で砂遊びやブランコに乗って遊んでいる姿を想像している僕自身がそこにいた。
朝子は白いレースのワンピースに花柄模様をあしらったお洒落な洋服を着ていた。初めて朝子と会った時も白の洋服だった。その後一緒に住みだして僕の好きな色は白が好きだからと言っていつも白っぽいのを着てくれるようになった。朝子とはそういう女だった。髪は相変わらずセミロングで肩まで垂らし内巻きにして香水の香りが微かにした。
僕たちは互いに十年ぶりに再会したことで今の生活についてしばらくは近況を話合っていた。朝子は何か思い詰めているように公園の樹木の根元の部分を見ていた。
「鳩が怪我している。あの時もそうだった」
十年前ベンチに腰掛け二人で話をしていた時に木の根っこで傷ついた鳩がいた。あの時傷ついた鳩を仲間がいじめていた。その姿を見ていた朝子は慌てて追っ払って傷ついた鳩を抱えて医者に走り込んだ。何故かあの時泣きながら鳩を抱きしめていたが数日後介抱の結果良くなると大空に向かって思い切り
「さようなら」
と叫んで鳩を青空に力一杯放り投げた。過去を捨て未来に飛び立つ姿のようだった。
「そんなこともあったね、懐かしいね。いじめっ子嫌いなのよ。だれでも傷を持っているわ。その傷が憎いことを思い出させるけど、そこに居心地をよくしようとする場合もある。でも私は自分では何の力もないから絵を描いてキャンパスに怒りをぶつけているしか知らなかった」
朝子は黙って笑った。
公園を出てマンションに行く途中昔よく行った喫茶店『晴』があるかどうか寄ってみたいといって朝子は足早に路地に入って行った。朝子と何度かこの喫茶店には顔を出したがあまり深い印象はなかった。朝子はこの店でアルバイトをしたりしていた関係上ママさんと随分仲が良くて暇さえあればこの『晴』の店に来てコーヒーを飲んでいたようだった。
随分昔は賑わった場所であったが今はシャッターを下ろし寂れた空き店舗が多くテナント募集のシールが無造作にあちこちに何枚も貼られている。
喫茶『晴』は相変わらず地味な外観で回りの中で浮き上がっている感じで、今にも閉店しそうな雰囲気だった。朝子は入り口のドアを引いた。チリンという鈴の音がして僕も朝子の後についていった。
「朝ちゃん」
「ママ・・・・・・」
二人は何も喋らずハグをしてそして小躍りしながら互いに顔を見つめ合いそして再びハグをした。他に客はいないせいか大きな声で興奮した二人は一気にテンションが上がり、話し始めたが少し落ち着いた頃初めて僕の存在に気が付いた。
「ごめん気が付かなかった。圭君だったよね」
「はい、圭太郎です。ご無沙汰いたしています」
「私はもう二人は結婚してどこか遠くに行ったものだと思っていたのよ」
「結婚したのでしょう?」
朝子はまだ結婚はしていない。十年ぶりに名古屋に来たから圭に久しぶりに会ったのだと話をした。そう話をした後も今度はテーブルに座ってコーヒーを飲みながら話は尽きない。彼是一時間ほど居ただろうか朝子がそろそろ帰りますといってまたママとハグをして店を出た。ママは名残惜しそうに
「朝ちゃんまた寄ってね」
そう言って二人は別れた。僕も軽く頭を下げて喫茶を後にした。
僕はたわいない話をしながら果穂に会いに行ったことを思い浮かべていた。
丁度朝子から会いたいというメールをもらってから果穂に会って何か知っているかも知れないと思い電話をした。果穂は武田と伊勢志摩の五ヶ所湾の別荘にいるとのことだったが明日の夕方には自宅に帰るから自宅の方に来て欲しいと言った。
果穂はやはり朝子が名古屋に来ることを知っていたし、僕と逢うことも知っていた。朝
子は名古屋の栄町のよく昔入り浸ったスナックに行ってみたいと言っていた。僕は朝子のことで何か知らないかと聞いては見たが果穂は余り喋ってはくれなかった。それにしても朝子を絶対に手放さないようにといっていたが子供のことを聞くと知らないと言い、彼女はまだ独身のはずだから一緒になればいいと勧めてきた。
僕は初めて彼女が独身でいるのだと知ったが、独身の朝子がどうして子供がいるのだろうか、結婚して離婚したことも考えられるし死別したことも考える事が出来る。このことを果穂に聞いたが彼女は多分近所の子供じゃないのと投げ槍的に喋った。
「果穂は突然朝子が卒業前に黙ってマンションを出ていったのか知っているだろう?」
僕は決めつけて断定的に言うと果穂は少々困ったような顔をして呟いた。
「あれは仕方がなかったのよ」
「知っているじゃないか。何があったのだよ。俺は知りたい。決して何があっても驚かないし彼是十年も経っているのだから教えてくれないか。以前大学の近くの喫茶店で話した時部室から走り去った二人の女性は朝子ではないと言ったのは嘘だったのだ」
果穂は暫く黙っていたが
「そう嘘だよ。あの時はああいうしかなかったの。このことは誰も知らないし、私だけしか知らない。知らない方がいい場合だってあるのよ」
果穂はそれっきり黙ったが、震えた声は当時を思い起こしているのか分からないが涙を流し声がかすれ途切れ途切れに話した。正直僕は何があったのか益々知りたくなったが果穂は喋ることはないと言ったし、友達だから一生誰にも言わないといった。僕はそれ以上詮索することは止めようと思った。
「多分朝子は自分にケジメをつけるために来るのだと思うの。だから優しく包んであげて」
僕は何か大変なことが確実にあの時あったのだと初めて知った。もうすぐ亮が帰るから食事でもしてから帰ったらと言ってくれたが僕は居場所がないような気持ちになって帰ることにした。
僕は朝子と肩を並べて歩きながら果穂との会話を思い浮かべていた。
部屋は朝子が出て行ってからも同じようにしていた。それはまだ僕が朝子を忘れることが出来なくて時間が止まっているということかもしれない。反面朝子は果穂の言葉を借りればケジメをつけるために来るということだから僕にもケジメをつけよということだろう。少なくとも朝子が一人で出て行ったことを果穂は知っているとすれば何か大きな事件があったことは確かだ。別れて十年にもなって今頃そのケジメをつける意味が分からないし、別れてしまうのなら会う必要もないのだから。そういう風に考えると朝子の事件は益々不可解に思えた。
僕たちは昔住んでいたマンションまで歩いて来た。
「随分この辺も変わったのね」
朝子は他人事のような話をした。十年前は此処で一緒に住んでいたと思うと何か妙な気持ちになった。僕は部屋に朝子を案内した。部屋は十年前と同じで朝子の机や本もそのままにしておいた。そこには十年前と言うよりもすでに十年前の二人に時間が戻っているのだった。
「厭!私見たくない」
朝子はそういって両手を床について涙をぼろぼろと流し始め、そして辺り構わず自分のものを何かを叫びながら投げて付け始めた。
「どうしたの。同じようにしていたのが悪かったのなら謝るよ」
僕は朝子の行動がよくわからなかった。朝子は自分のものの場所はきちんと覚えていたのだろうか引き出しや洋服掛けなど全部ひっくり返し床に投げつけて大きな声で泣き伏した。手を差し出して慰めることができない状況だった。
「朝子」
僕はそういって肩に手をかけた。
「止めて!」
「触らないで!お願い。もうあの頃の私ではないのよ」
朝子はせき込むように言った。
僕たちの間に静寂が流れたがそれは随分と長い時間のような気がした。朝子はおもむろにふらふらと立ち上がり背伸びをして薔薇の絵を外しにかかった。僕は椅子を持って来てやると朝子は椅子に上がりその絵を自ら外した。薔薇の絵はテーブルの上に置き勝手知った引き出しからワインのソムリエナイフを取り出し思い切りキャンバスの絵をズタズタに切りつけた。僕はその光景を目の当たりにしてぞっと寒気を感じた。朝子の心理状態が普通の心理状態ではない、不意にそう思った。それほど朝子の行動は不可解な姿だった。
「どうして私を責めないの。あんなに酷いことをしたのに圭はずるい」
「どうして俺がずるいのだよ」
「責めて欲しいけどどう圭に言えばいいのか言葉が見つからない。思い切り叩いて罵倒してくれた方がまだ気が楽だわ」
朝子はそう言って両手で床を何度も叩いた。
床は本や朝子の洋服や下着類で散乱しキャンバスを切り取った絵が辺りに散らばった。物を壁に投げつけクロスが剥がれ壁の下地が現れ、生々しく薔薇の絵の額縁は原形を留めることのないほど曲がり床に転がり朝子の右手の拳からは血が流れていた。
どのぐらいの時間が経過しただろうか。朝子は興奮状態で話ができる状況ではなかった。果穂は朝子がケジメをつけに来るのよと言ったがこれが朝子のケジメなのかと思うと寂しさと息苦しさが募った。
「気が済むまでやっていいよ。そのままにしていたから不愉快な思いにさせてごめん。ただ僕もあれから時間の針が止まりずっと闇の中を十年間彷徨ってきた。時間は経っていくが心の整理は何もできない。表面的には穏やかな顔を保っているがもう一人の自分が十年間納得していないのは事実だ。だから朝子の家にも二度も行ったのだよ。一人の女性を十年間も黙って待っている心境はそれだけでも尋常ではない。僕自身が病気でないかと疑った時期もある。いっそのこと何もかも捨てたかった。でも朝子は必ず帰ってくると信じていたから、帰ってきた時過去が現実に戻ることで喜んでもらおうとした俺が間違っていた」
「そうじゃないのよ。謝らなくちゃいけないのは私なの。私も過去を清算しようとしたけど出来なかった。圭が私の知らない処へ行ってくれたらどれ程楽だったろうに。電話番号やアドレスも何度も削除しようとしたけど出来なかった。電話番号、メール、住所どれをとっても昔と同じ、見るたびに辛かった。それで私はケジメを付けるために原点に背を向けるのはずるいと思い決心して来たのよ。でも目の前に現実を見るともう何が何か分からなくなった。本当に謝らなくてはいけないのは私よ。圭には私のことで大きな傷を背負わせてしまい、許してはもらえないと思うけどただ謝ることしかできない。表面的なことでなく圭の心の中まで傷つけたことは何と許しを請えばいいのかわからない」
人は昔と同じ条件で設定をした環境の中で佇むならばみんなこう成るのだろうか。十年の歳月が人の心を癒す場合もあるかもしれないが、今現実のセットされた十年前に佇むならば癒される、時の流れに事実の記憶が薄れ忘れる事が出来る、そう言ったことが通俗的に言われるがこの不条理は果たして何だろうと朝子は云った。
僕は落ち着くためにグラスにミネラルウォーターを入れて一口水を飲み朝子にも別のコップに注いで手渡した。彼女も喉が渇いているのか一気にそれを飲み干した。
「過去の事実はもう終わったことだし今しかない。でも今日のことも明日になれば過去になる。今日の未来は明日から始まり明日になればそれが今となる。そんな時系列の様な事が私たちには金縛りのように二人を縛ってきたのよ。それは私が黙って圭の処から出て行ったことが原因だということを私は百も承知しているわ」
僕は途切れ途切れに呟く朝子の言葉を聞いていたが次第に苦痛を感じた。
「音楽でも聞く?それとも飲もうか」
「そうね、あの頃みたいに少し飲ませて。ワインがいいな」
僕はペアで買ったバカラのワイングラスを取り出した。このグラスは朝子が選んで欲しいといって買ったものだ。十年前に時間が戻るということはこれほどの嫌悪感があるものだろうか。果たして朝子にはどんな過去が隠されているのだろうか。僕はそう思いながらワインセラーから新しいボルドーのワインを取り出しテーブルの上に置いた。
「このグラスまだあったのね。学生時代に戻ったみたい」
朝子はそう言って懐かしそうに手に取って眺めていた。あの時僕たちはワインに凝っていた。勿論朝子もワインが好きでワインセラーやワインの品種にまで拘りを見せ、このバカラのワイングラスも朝子の拘りの一つだった。
僕がテーブルに二本のワインボトルを置いた。一本は二人が結婚した時に飲むワイン、そしてもう一本は結婚して十年経ったら飲もうと言って買ったワイン。朝子はその二本のワインボトルを見て両手で自分の胸に抱きしめた。
「圭、覚えているよこのワイン。私が買ったのだから、本当にごめん」
ボトルには朝子がサインペンで「結婚記念日」と書いた。そしてもう一本のワインには「十年目のワイン」とそれぞれ赤のモンブランのボールペンで書いた。二本とも朝子が選んだのだから知らないはずはない。
「結婚記念日のワインは結婚できなかったから辞めてもう一本のワインを飲もうか」
朝子が選んだのは「十年目のワイン」だった。
「苦いワインにしてしまったね」
「本当ならスイートなワインになっていたのに。でも苦いワインの方が好きだよ」
僕たちはワインと一種の芸術という共通の話題があった。そのために随分ワインは買って飲み料理も拘った。基本的には朝子が料理をしたがたまには僕がした。僕はどちらかというとスパゲティを中心としたイタリア料理が得意だった。
「何か食べ物作ろうか」
そう言って朝子は台所に立った。僕は引き出しからエプロンを出してやった。
「あれ?まだ置いてあったの?」
朝子は素っ頓狂な声を出して笑った。やっと昔みたいに話ができるようになった。しかし、まだ肝心な話には至っていないのだ。
朝子はフライパンで焼いた野菜をマリネにした。色鮮やかでワインにはよく合いそうだ。
本当なら結婚記念日のワインを飲んで今頃十年目のワインを乾杯していたかもしれない。僕はそんなことを考えながら不安と恐怖にお互い心の中で拘りを抱えていた。ちょうど泥濘の中に立ち往生してしまった状況だったし、僕も朝子も十年間の空白が一気に十年前の学生時代にまで遡ってしまったことに興奮していた。しかし、過去は戻らないし否定するか認めるかはその人それぞれの考え次第であり、どちらがいいとか悪いとか選択することに何の意味があるのかと思った。それはきっともう一人の心の中の影の自分ではないだろうかと頭の後ろの方から囁いてくる。打算的に見るのか、感傷的に思うのかそれぞれの価値観は心の捉え方次第だろう。僕は朝子との時代を過去の世界に戻すために演出したわけではないがそのままの状況にしていたことがそういう演出を醸し出していたに違いない。
出来上がった料理の前で僕たちはグラスを少し持ち上げて眼で合図をしてからティスティングをした。バカラのワイングラスを左に回して空気と酸化した匂いを嗅ぐ。
「もっと楽しく飲みたかったね」
「久しぶりに朝子の手料理が食べることができてワインもおいしいよ。以前は毎日こうだったから楽しい夜になった」
僕はそんなたわいない会話しながら彼女の様子を観察していった。何杯かワインを飲んでから少し落ち着いてきた朝子は話したいことが喉元まで来ているのだが吐き出すことが出来ない不自然な窮屈そうな感じが次第に表情に現れてきた。
「昨日は果穂の家で泊まったのよ。栄で飲んで面白かったなあ。彼女滅茶苦茶飲むのだから大丈夫かとこちらが心配したわ」
そういって初めて愛くるしい笑顔を見せて話をした。
朝子は果歩とのことで少し気になることがあったという。それは果穂の家で飲んでいると武田が家に帰ってきた。そしてシャワーを浴びると言って浴槽に入ったのだけども風呂上りに私たちが飲んでいる席の隣に来て自分もビールを飲み始めた。その時武田の右手の栗節に大きな黒ずんだ傷が何ケ所かあった。それを見られた武田は慌てて席を立ってサポーターを取りに行ってまた飲みだした。しかし、それから自分達は街に繰り出したからそれ以上気にはしなかったが、朝子は妙に気になると僕には意味が分からない話をした。
「武田の栗節の傷と朝子は何か関係があるの?」
朝子は黙ってそれには答えなかったが僕は小堺の話を思い出した。
暫くの静寂の後、驚いたことに果穂は酔っぱらった所為か武田とは別れる準備をしているといった。仕事はしないし遊びばかりで親からは叱られ、挙句の果てに旦那が仕事をしないのは嫁の所為だと言って親にも馬鹿にされる。慰謝料分捕って別れてやるとケラケラ笑いながらいった。朝子は幸せで何不自由ない生活をしていると思っていた果穂がそこまで追い込まれているとは知らなかったと話した。
果穂は僕と会ったことは言わなかったみたいだ。どちらにせよこの後朝子から告げられることが怖かった。果穂の言葉では自分では言えないし今後も誰にも言わないと言っていたが当事者の朝子ならもっときついことだろう。僕は話題を変えた。
「以前長良川の鵜飼を見に行く約束をしていたね。明日行こうか。何時まで居ることができるの?」
実は学校に行かなくてはいけないので出来るだけ早く帰りたいのだと言った。一呼吸をしてから時間が経過し落ち着いてきたのかワインの酔いが効いてきたのかは分からないが朝子は喋り始めた。
「今から私が話をすることはみんな本当よ。圭はあの時私が急にいなくなったので驚いただろうけど事実だから今から話すことは気持ちをしっかりして受け止めて。いつか言わなくてはいけないと今まで心の中に仕舞っていたけどもう話さないといけない時期が来たわ」
朝子は黙って家を出たことを窓の外に目を移し流れる涙を手で拭った。話は概ねこういうことだった。
あれは卒業も近い二月のことだった。朝子は部室で卒業記念の制作にかかっていたそうだ。二月と言えばかなり寒く夜の八時頃にはもう誰もいない。果穂と買い物に行く約束をしていたがなかなか来ないので一人で創作をしていたがその時事件が起きたという。
部室はそれほど広くはないがそれでも狭いと感じるほどではない。朝子は卒業までに制作をしたいと思い寂れた港町の絵を描いていた。その時部室の電気が突然消え朝子はあっと声を出し最初は停電かと思い廊下に出ようとしたその瞬間、思い切り腹を殴られ顔を数発叩かれ意識が朦朧としてその場に倒れた。相手は誰かわからないが少なくとも三人はいるようだった。声は出さず顔をストッキングのようなもので隠しているのが暗闇の中で目が慣れ徐々に様子が分かってきた。様子が分かってくれば来るほど男たちの迫力に声を出すのが怖くなった。
「誰なの?勝手に部室に入らないでください。あなたたちは誰なの?」
男たちは黙って笑っているのが分かった。一人が外で見張り中から鍵を掛けた。カチャと大きな音がすると同時に立ち上がった朝子は再び床に倒され思い切り乱暴に衣服を剥ぎ取られた。男たちは逃げ回る朝子の口にタオルを咥えさせセーターを捲り上げて下着を引き引き千切るように振り回し髪を引っ張り引きずって床に倒した。
「助けて!」
「厭!」
いくら叫んでも助けには誰も来ない。遠くで廊下を通る学生の声が聞こえたが次第にその声も聞こえなくなった。朝子は壁に頭をぶつけられ意識が朦朧としてきた。男が朝子に被さってきた時男の右腕を思い切り噛んだ。男はギャーと大きな声を出した。鮮血が腕から流れ朝子の口からその男の血が流れた。男の腕の肉片が食い千切れたようだ。男は思い切り朝子を殴った。もうその時の朝子は裸同然の姿にされていた。
「俺からやる」
リーダーのような男がベルトを緩め朝子にのしかかってきた。朝子は大きな声でわめきながら床を転がり暴れた。
「外を見張っていろ」
そう言うと男は無理やり朝子の顔を平手で殴り体に被さって来た。そして代わる代わる三人の男たちが朝子の体を通り過ぎていった。
「もういいだろう」
男たちはそう言って早々と部室を出て行った。暫くの静寂が流れ慣れてきたのか周りの様子も分かってきた。
どの位の時間が経ったのかわからないが朝子はよろけながら立ち上がり破れた服を身につけ港町の絵の前に立った。棚に載せているデッサン用のブロンズ像を片っ端から床に叩きつけ、画材もろとも床に投げ捨てた。パレットや絵の具が散乱していることが分かった。
犯人は誰か分かる由もなかったし心当たりや恨まれることも無かったが警察に届ける勇気もなかった。ただ無性に自分自身に腹が立ち、もう駄目だと思いナイフで自分の喉を突こうかと思ったその瞬間部室の電気がぱっとついた。
「朝子どうしたの?何があったの?」
突然部室に飛び込んできた果穂は朝子が堅く握っているナイフを素早く取り上げた。朝子は安心したのか大きな声で泣きじゃくり一部始終を話した。兎に角部室を出ようということでコートを被り二人で小走りに部室を出て車で果穂のマンションまで行った。
朝子は集めのシャワーを全身に浴びて身支度をしても放心状態であった。
「圭が帰って来るからもう帰った方がいいよ。それとも泊まる?電話してあげる」
「果穂、やはり帰るよ」
それにしてもレイプという悲惨なことをどうして自分がされなくてはいけないのか、また自分が部室にいることをどうして知っているのか・・・・・・。犯人は誰でもよかったのかなど考えてみれば矛盾することが多かった。
圭はまだ帰っては来ていなかった。朝子はもう一度熱いシャワーを浴びてゆっくりワインを開けた。そして久しぶりに一人でチャイコフスキーの「くるみ割り人形を」聞いた。その曲の中の軽快なリズムは逆に気持ちを落ち込ませ自然と涙が先ほどの行為に抵抗するように頬に流れた。
それから二週間ほどしてくるものが来ないことが分かった。それは二十日ほど経過した二月の下旬頃だったが朝子はもう部室には顔を出さなかった。
妊娠したことを果穂に報告すると中絶するほうがいいと彼女は激しく迫った。朝子は何故か中絶に対する気持ちが進まなく女性特有の母性本能のような守る意識が強かった。
「圭を捨てるか誰の子かわからない子を産むか考えたら分かるじゃない。いい加減にしなさいよ」
果穂は本気で怒っていた。
「圭と別れなくちゃいけないね・・・・・・」
ぽつりと朝子は言った。
朝子は自分が結果的に妊娠して子供を産むことに抵抗を覚えた。果穂の言う通り中絶して圭と一緒になった方が幸せになれるから中絶したほうがいい。一方ではもう一人の自分が守らなくてはと心の底から囁いていることも知っている。父親は誰であれ自分の子供には違いはない。朝子は現実と想像の狭間でのたうち回っていた。何故見ず知らずの父親の子供を産み守る義務があるのだろうか。「中絶しろ」と心の中で叫んでいる声が聞こえる反面、命を守ることが出来るのは自分一人だという事実が朝子を責めた。彼女は子供を守る理由は何かと考えたが何も浮かばなかった。愛情すら顔すら知らない男の存在、許せない筈なのに憎む気持ちは激しくあるがどうしても次の段階に進まない。
卒業前に結局部屋を出て圭と別れる決心を選択するしかなかった。
「女の子なのだね」
「どうして知っているの?」
二度目に朝子の家を訪れた時に家の外でランドセルを背負った少女とすれ違ったことを話した。
「本当にごめんなさい。思い切り殴って、私は悪い女よ」
朝子は泣き叫びながら僕の両肩を掴み、体を激しく揺すり胸に顔を埋めた。
「分かったよ。黙って家を出た理由や子供がいることも。もしかしたら結婚しているのかと考えたりしていた。朝子全てを受け入れるよ、十年も待ったのだから。過去の事件は朝子の人生を狂わせただろうと思うけど僕の人生も歯車が狂ってしまった。憎いよ、憎くて殺してやりたいぐらいだ。犯人は誰か知らないが裁判でもできるのなら表沙汰にしたいぐらいだ。全てそういう事実を呑み込み朝子のことを受け入れていきたい。十年は僕にしては永かったけどこうして話をしていくと昨日の事のような気がする」
「私を受け入れる?どういうこと。誰の子供か分からない子供を抱えた私を受け入れると言うの?それは子供を受け入れることではなく私を受け入れる、ついでに子供を受け入れるということじゃないの」
「そういうことじゃないよ。少し朝子のいい方は極端で乱暴な気がする。昔はそんなことは言わなかった」
「そうね、昔は言わなかったわ。でも生きるため子供を守るために自分を殺すような考え方になった。圭は本気で言っているの?もう私は昔の朝子ではないのよ。あなたにそんな勇気あるの?子供に罪はないけども親にはあるわ。子供は結果論というオブラートに包まれて育ってきたわ。でもそのことを知った上であなたは私を元の鞘に戻そうとする。それは余りにも勝って過ぎるロジックじゃないの。昔からあなたは変わらないわ。でもその情に流されることは止めた方がいい」
ぼくは朝子の言葉の終わるのを待たずに抱きしめていた。朝子も僕にしがみ付き背中を掻き毟りながら声を出して泣きじゃくるのだが、どのくらいの時間が経過しただろうか。僕は無意識のうちに涙を流していたが、それを見た朝子は手で拭い再び思い切り僕の胸に飛び込んできた。それから暫くして僕は立ち上がりベランダ越しに外の景色を見た。随分長い時間話をしていたらしい。もう外は綺麗な夏の星が心とは裏腹に宝石のように輝いている。その時一つの星が糸を引くように流れた。
僕たちは終わったのだ。
7
僕は散乱した本や洋服などを一つ一つ集めて整理を始めた。その音に朝子も気が付き手伝い始めた。
「シャワーに入ってくればいいよ」
僕は朝子にそう言うと少し躊躇っていたがシャワールームに入っていった。暫くの間シャワーの音はするのだが彼女は出て来ない。泣いているのかしゃくりあげるような嗚咽が浴槽室のガラス越しに時折聞こえてきた。彼女は自分のケジメを今付けているのかと思うと声を掛けない方がいい、多分に彼女は闇の中を走っているのだろう。一般的に人は光を求め生きてはいくが光には影が出来る。影があるから光が映える。焦れば焦るほど陰の力が強くなる。僕たちは今その陰の中を突っ走っていた。
「何か昔みたいで厭だわ」
「もう済んだことだ、忘れろよ。一緒に暮らしたことを後悔しているのか」
「そうじゃないけどあまりにも過去と現実のギャップがあり過ぎて以前の世界に戻るのが怖い」
僕はそう話す朝子の言葉を聞いて、入れ替わりにシャワールームに入った。
夜も更けて僕たちはもう遅いから寝ようとベッドに横たわり電気を消そうとすると
「厭!消さないで。悪いけど電気をつけて寝て。十年経っても暗闇の世界が怖いの」
朝子はそう言って電気を消すことを拒んだ。仕方なしに其のままで寝ることにしたが時間が経つにつれ朝子が汗ばむ僕の手を握ってきた。僕も握り返し朝子を抱きしめた。朝子は長い髪を掻き上げ僕の胸に顔を埋めて押し黙っていた。僕は朝子を求めようとした。
「圭、許して。そこまで気持ちの整理が出来ていない」
そう朝子が言うと手を僕の胸に置いて唇を軽く重ねてきた。
「ここまでで我慢して。私圭に抱かれる積りで来たわ。でもそれは私の自己陶酔以外何物でもないのよ。仮に圭に抱かれたとして圭は満足するだろうか。私は体だけの繋がりだったとは思ってはいない。勝手に家を飛び出した女がいう台詞ではないけど抱かれたいと毎晩圭のことを考えるたび思ったわ。でも現実にそういう状況になってみると非常に卑怯な朝子になっていることに気が付いたの。圭にしても学生時代の時のような体でない汚れた私を抱いても意味がないでしょ」
「もう昔のことはいいよ。忘れろといっても無理だろうが一時的にでも朝子を抱いて忘れさせてあげたかった。汚れたなんて思ってもいなかったしそんなに自分を卑下することもないよ。でも朝子が嫌というものを無理に抱くことは互いに不幸には違いない」
朝子は気持ちの整理がまだつかない、確かに圭に会うまでは抱かれたいと思っていたがさすがに会うと自分の心の整理ができていないのに単に体の関係で誤魔化すことは気持ち的に自分自身が許せないことに気が付いた。本音の部分ではそういうことはあるだろうと考えていたが十年の歳月が二人の距離を遠くしたことも事実だ。僕は朝子を抱こうとすれば抱くことは出来ただろうし、朝子もきっとそれに応じたと思う。SEXが過去の距離を繋ぐのだろうか、過去の世界を取り戻すのだろうか。体を求めて元の関係に戻るという考え方は酷く卑怯で偽善的だ。僕はそういう気にはなれなかったのは朝子の考えと価値観が一緒だったことが朝子の言う通りにした原因かもしれない。朝子は自分が蒔いた種ではあるが圭に対して申し訳ないという気で考えれば考えるほど辛くなるのだと裸身を晒し僕の胸に顔を埋めたまま答えた。
物音がするので目を開けると朝子が朝食の準備をしていた。昔から朝はパン食で簡単にすましていたことを思い出しながら僕は立ち上がり台所にいく。窓のカーテンの隙間から差し込む朝日は眼にきつく心に突き刺すようだ。
「おはよう、圭」
「おはよう」
僕は後ろから朝子を抱きしめた。
「圭、そこまでにしてお願い。もう少し時間を頂戴。まだ気持ちの整理がついていない女を抱いてもつまらないでしょ。これ以上求められると昨夜言ったように私理性が壊れて自分自身が分からなくなるのが怖い」
朝子はそう言ってコーヒーとパンをテーブルに並べて昔よく作ったオムレツとサラダをテーブルに並べた。香りまで昔と同じ気がする。
「こうして食べるのって十年ぶりだね」
十年の歳月は二人の距離を遠くしたがこうして少しずつ再現すると元に戻ってくるような気がする。朝子ももう少し時間が欲しいとコーヒーを口に含み項垂れて言った。
僕たちは食事をした後長良川の鵜飼を見るために車で走った。グリーンのポロシャツにジーパンというラフな格好をした朝子は高速に乗らず、国道を中心に景色を見ながら走りたいというので時間をかけて昔よく岐阜に行ったコースを走った。一時間近くかけて走ると景色は十年前とは全くといっていいほど変化し別の世界のようだと朝子はいった。長良川に着いたのはもう日が暮れる頃だったが車を長良橋近くの駐車場に置いて昔風の街並みを残した古い旅館街をゆっくり歩いてみる。観光客がぞろぞろと浴衣を着て乗船している。ポンポンとエンジン音を立てながら上流に登って行く屋形船もいる。僕たちは長良橋の下を潜って川の流れる河原に降りてみた。朝子は足元の小石を気にしながら両手でバランスを取りゆっくり歩き、もっと岸辺の方に行ってみたいと十年前に甘えたように笑いながら言った。屋形船が何隻か岸に繋がれている風景を朝子はしきりに携帯で写真を撮っている。僕は朝子の方に近づいていった。果穂は会った時朝子を絶対に離したら駄目だと何度も言っていた。夜寝る時彼女を抱いてやって欲しいとも言っていたが、朝子は時間が欲しいというのだから僕は我慢するしか方法はなかった。抱き合って唇を交わすことはあっても行為には及ばない。その辛さは互いに分かってはいるのだが気持ちが吹っ切れない。行為をすることは簡単なことだが、それが将来どう繋がっていくのか、朝子の心の傷を癒すことができるのか、そう考えると我慢するしかない。それは多分に朝子も同じ気持ちだと思う。
屋形船にはテーブルを挟んで十数人が座り塩焼の鮎や刺身,雑炊などを食べ酒盛りをしている。川風に当たり揺れる赤い提灯を見ながら、それぞれの屋形船の中では観光客が大いに盛り上がっている。僕たちはその傍らを通りながらまた橋の上に歩いて長良橋の欄干の中央付近に場所をとった。欄干に両手を互いに置いて川面を覗き込み屋形船を目で追う。朝子の手に手を重ねると黙ってぼんやりと岐阜城を見上げている。
「私は学生時代の朝子とは違うのよ。十年は長かったわ。これ以上圭を傷つけたくないの」
「俺は朝子だから傷つけられても我慢したのだ。そのことをどう考えるのだよ」
「ごめんなさい。でも私には圭と一緒になる資格はない。今の私は昔の朝子とは違うし少なくとも子供がいる、それも圭の子供ではなく誰の子か分からない。それでもいいの?私はこれ以上圭に押し付けることは出来ないよ」
「過去を放棄して今を大事にするしかない。もう俺達には過去は無用の産物でしかないしこの上何の価値があるというのだよ。これからのことを考えるしかないじゃないか。朝子がいいのなら俺は朝子の面倒を見る。例え子供が自分の子供でもなくても自分の子の様に育てる自信はある。これだけは信じてくれ」
僕は果穂の言葉や朝子との距離が戻りつつあることに喜んでいたが何か一瞬にして崩れてしまい朝子の動揺した言葉に愕然とし気持ちが悪くなってきた。
「どうしたの」
僕は小走りに走って河原の道端の草むらに嘔吐をした。追いかけてきた朝子が必死に背中をさすり僕の背中に顔を埋め泣いているのが分かった。
「馬鹿ね。もっとしっかりしなさい」
朝子の言葉に形容の無い悔しさを感じ、僕は座ったまま草群の草を思い切り千切った。
「子供はのぞみって言うの。圭の子かもしれないし私を犯した連中の誰かかもしれないけど事実は受け入れるしかなかったの。私が産んだ子供に間違いはないのだから」
朝子はそう言って暫くの静寂があった。DNA鑑定をしてみようかと思ったそうだけど違っていたら厭だしこれも自分の運命かと思うと左程父親が誰であるのかは私にとってはあまり意味が無いように思える。子供が自分の父親が誰か知りたがった時は可哀想だけどそれはそれで別問題として捉えていつか事実を知らせる時があるかもしれない。どんな理由で生まれてきたとしても子供を責めることは出来ない。私が責められることは致し方ないけどその分闇の中から守る責任があるのだと朝子は遠くを見て寂しそうに言った。
夜風が長良川の水面から吹き上げるように突き上げ、気持ちを余計高揚させるように悪戯っぽくからかうように通り過ぎていく。
「朝子、何もかも受け入れる。のぞみちゃんの父親になっても構わない」
「ありがとう圭、だけど昨日も言ったけどもう少し時間を頂戴。やっと原点を確認できたばかりだから。兎に角ここまで来るのに十年かかったのよ。それにしても昨夜も言ったけど圭は本当に自分の子供でない子を自分の子供として受け入れることができる?思い付きや一種の同情的な感傷はいらない。親の未確認の子供を何の蟠りもなく受け入れることが出来る?それほど広い心を持っているの。私は憎い、憎くてたまらない。だからのぞみを守るのよ。自分の子供として認め育てる心の技量が圭にはあるのかもしれない。でもそれは圭の人生観を根底から覆すことになってしまうのよ。ただ単に私と一緒になりたいということだけなら辞めておいた方がいい。それこそのぞみに可哀想な思いをさせることになる。そんなこと我慢できる?実際一緒になったら圭との子供ができる。そうすると圭は平等に扱う自信があるというの?私は本心ではなく今二人の雰囲気に酔いしれて言われているような気がするし、そうだとすればそんな安っぽい感傷はいらない。圭の言葉はメタバースの世界に酔っているような気がする。そんなに甘いものではないよ」
「僕はそれほど心が広い訳でもないし普通の人間だと思っている。でもこういった不条理を受け入れないといけない場合も世の中にはあるのではないだろうか。そういう運命の中で弱者救済に対して受け入れなくてはいけない使命を持っている者同志だと思う」
僕は確かに朝子の言うようにのぞみちゃんが存在している状況で自分と朝子の間に子供が出来れば多分そちらを多く大事にしてしまうような仮想の世界を夢見ているような気もする。それは自然の成り行きで努力するしか方法がないような気がした。人間ってそこまで心が本当に優しいのだろうか、表面上は旨く取りつくっても本音の部分ではレイシストかもしれない。不条理な生き方が幸せだと誰が云える、ただ居心地がいい場所を選んだというだけではないのだろうか。
「事実自分の子供が出来たら比較するだろう。のぞみちゃんも一人の人格者なのだからそこは考えてあげないといけない。仮に朝子との間に子供を授かったとしたら僕は二人を大事に育てるというのは本心でないかもしれない。でもそのために環境を変えて差別的なことをすることは絶対に出来ない。結局朝子自身がそう思い込み異常な警戒心を持ち、この件ではある意味誤解をして自分の殻に閉じこもっているような気がする。その盲目さは何の意味もなさないのではないだろうか」
ただ努力すると具体的な根拠も示さず言い切る僕を見る朝子の目は一瞬冷たく感じた。彼女のこんな目は初めて見た気がしたがこれが母親特有の目であろうか、僕は不意にそんなことを長良川の屋台船からの笑い声の中に感じた。
8
長良川はすっかり日が落ちて辺りは暗くなり長良橋を忙しく行き交う車の流れやライトの明るさが綺麗に光の帯状のラインに見える。顔を上げるとそこには雄大な金華山があってその上に岐阜城がライトアップされている。視線を左に移すと斜張橋の鵜飼大橋があってその川下に先ほどの屋形船がきれいに整列をして提灯の灯を灯している。河原に爽やかな風が吹き朝子の長い髪が揺れ香水の香りが微かに匂った。
「この香水の匂い懐かしい、昔はいつもこの匂いがしていた。僕の体にはいつも染みついていて何処にいても朝子と一緒の気分だった」
朝子は笑いながら十年前と同じ香水を敢えてしてきたのだと笑った。
「あっ!」
朝子は小さく声を出した。長良川の闇の中に篝火を炊いた船が下って来た。
「あの時もそうだった」
「何のこと?」
「あの鵜飼大橋より少し左じゃなかった?長良川公園。覚えているでしょ。手力雄神社の火祭り」
「覚えているよ。八月の第二日曜日だ。火花が二十メートルも上がった時は驚いた」
手力雄神社の火祭り。それは岐阜市の年中行事で春と夏の年二回実施される。規模が大きいので神社ではできず夏は長良川公園で行われる。あの時は武田や果穂もみんないた。真っ暗な闇の中で、鐘をカンカン鳴らし爆竹を鳴らして上半身裸の若者はそれぞれの町内の神輿を威勢よく担ぎ厄を払い五穀豊穣を願い、神輿の四隅には筒状のものがあってそこから意図的に発砲し、高さ二十メートルの御神灯が点火されると激しく大きな滝のように飛び散る火花と掛け声に圧倒されてしまう。鐘の音と光の勇壮な祭りに和太鼓が響き鵜飼とは全く正反対の激しい動きの世界を演出した。裸の若者は火花に負けないよう頭にタオルを巻いて火の粉を塞いでいたがこれが余計勢いを増す。仕掛け花火や地割れ花火に和太鼓の演奏は興味深く三百年の歴史を持ち夜の九時過ぎに終える。最後には大きな仕掛け花火が夜空に乱舞するのだが確かに鵜飼とは全く違った動の世界だった。後ろに金華山とライトアップされた岐阜城を構え夜空に咲いた大輪の花は言いようのない心象風景として心に刻まれたことを覚えている。
朝子はその長良川公園の方角を見つめながらあの時の風景を思い浮かべ鵜飼大橋方面から激しく流れて来る車のライトの光の帯の方角に目を流している。
「あれ以来私は暗がりが怖く底知れぬ生き物のように感じたの。部室の電気が消され暗がりになったということもあるけどそれは現実的なことでメンタルのことではないわ。体も心もあの時破壊されたのよ。私は圭に頼るしか生きていく自信がなかった。子供を宿したことで圭への思いを断ち切らなくてはいけなくなり、子供を取るか圭を取るか選択せざる得ない自分が情けなくブラックボックスに閉じ込められた。でもそういう中で子供を守ることを放棄し中絶という選択肢は私にはなかった。だから圭には何とお詫びをしたらいいのか分からないほど感謝している」
僕はまだ自分自身のケジメはついてはなく、朝子のケジメはついたかもしれないが、まだそこまでは納得していなかった。
鵜飼船はそろそろクライマックスに近づいてきた。総絡みは鵜舟に乗った鵜匠がホウホウと声をかけ鵜の手綱を器用に捌き、一度に六隻の船が篝火を燃やし水面を赤く燃え上がらせて下ってくる。千三百年もの歴史を刻み幻想的絵巻だ。鵜匠は鵜が潜って鮎を飲み込んだ鵜を船に持ち上げ口から吐き出させる。朝子はその光景をじっと観察していたが何を思ったか写真を数枚パシャパシャと撮影をした。
「凄いわ。手力雄の火が動なら鵜飼の篝火は静よね」
それにしても朝子は十年前の姿に目を瞑らず向かい合ったことでやっと立ち直れるのかなと思った。現実を越えなければ自分は駄目になってしまうから、もう一度現実を確認したいと言う。
朝子は混雑した人混みの流れの中で僕の目をじっと見つめ抱きついて来た。暗がりの中で僕の背中に爪を立て泣いているのが分かる。あまり突然のことなので僕は驚いたが朝子の背中に手を回し受け止めた。すれ違う人波は僕たちには無感心だった。
「世の中には善と悪があるでしょ。でも必ず善が勝つということにはならない。悪が栄えることもあるし光もそうだわ。輝いているけど必ず影がある。その影に寄り添い生きていくのにそこが居心地いいと思う場合もあれば新しい場所を探していく場合もあるわ。これからはどうなるか分からないけど私は精一杯自分の世界で頑張ってみる。ピカソにオリヴィエという恋人が出来て『薔薇の時代』と言われる新しい時代が来るのよ、知っているよね。その時ブラックという友人と共に作ったのがキュビズム様式だった。様々な角度,視点、不安定を一つのキャンパスに表現していく多角的手法なのだけど見たことあるでしょ。教科書にも出てくる『ゲルニカ』はドイツ軍がスペイン領土に侵入し内戦が起こる。ゲルニカの絵の上に爆弾かあるいは希望の光か分らないけど感情や思想などが感性として表現されているのよ。私はあのゲルニカの塊は希望、光だと思うの」
「絵画はロマン主義から自然主義になり印象派に移り、そしてキュビズムの世界に入った。確かに後期印象派は光を入れ自由闊達に絵を書いてきたが全て平面的な地視点だったよ。代表的なのはセザンヌ。そういう点では視点は何時も同じだったことは事実だ。でもキュビズムは分かるが朝子の考え方は何をいいたいのか、何に繋がるのか僕にはよく理解できない」
9
鵜飼は最高潮に達していた。ホウホウと鵜匠の声が呼び掛ける。鵜は何度も川に潜り鮎を銜えては鵜舟に戻る。暗闇の中で鵜飼船は篝火を炊きながら神秘的な雰囲気を拡散し下って来る。朝子はその風景を見て小さな震えるような声で川面を見ながら話をした。
「今まで私は楽な方に舵を切って逃げてばかりで後ろを向かずに生きてきた。それはあの忌まわしい事件をした連中と同じことではないのだろうか。刹那的なものを求めて苦しさから今まで逃げてきたことは、間違っているとは思ったがそうするしかなかった」
朝子は確信ないけど自分を襲ったのはもしかしたら武田かもしれない。それは果穂の家に行った時に見た彼の手の傷、あれは確かに歯型であったような気がしたというのだ。事実僕も五ヶ所湾の別荘に行った時、彼がサポーターをして傷口を隠していることの不自然さを感じた。だからと言って武田に問いただしても証拠もないし違うというだろう。朝子は結局自分が甘かったのだと言ったが僕は何と答えればいいのか返事に困ったが、ただ部室の前に武田が居たということは言わなかった。朝子が感じるのであれば犯人は武田だったのかもしれない。だとすれば僕は武田を許すことは出来ない。真相は闇の中だがそうだとしたら果歩も絡んでいるのだろうか。不意にそう考えていると朝子は鵜飼の篝火を見つめながら僕の手を握りぽつりと言った。
「これは私の想像だけど仮にのぞみの父親が武田君であっても今の私には意味がないし関係ないわ。あの状況を考えたら果歩も多分加担していたのかもしれない。私は圭の子供だと思って育ててきたの。そうするしかなかった。それが出来なければ死を選ぶしか方法がなかったのよ。愛があるから命がある、命があるから愛がある。愛のない命ってあるの?私は命を前提に選択をしたの。中絶という選択肢もあったけど私は命の尊厳というものを考えた時、事件は恨んでも命を授かった結果は憎めないと思った」
朝子は涙を溜め無理に笑顔を作り笑ったが、それは本気とも嘘とも思えない真面目な顔だ。長良橋を行き交う車は渋滞し朝子の影のある笑顔がライトに照らされ赤く映える。
「ただ私は誰とも結婚はしない。それがのぞみや圭に対しての罪滅ぼしだと思っているの。
圭の子供だと思うしか自分を慰め納得する事は出来なかった。本当は違うと思うけどもそう思うことで居心地がいいのならばいいかなって勝手に考えていたの。でも今日鵜飼の篝火を長良川の水面に見ていると、遠く心象風景で残像が残っている手力雄神社の火祭りは上空に伸び水面を走る炎と交差したわ。あの時ピカソの『ゲルニカ』の作品の光と同じものだと確実に私は確信した。今まで都合よく直線的に事実だけで悲しんでいたけどそれは確かに不幸な事実だった。でもピカソのキュビズムのように多角的に、多面的に視点を変えればつまらない一つの事件であった気がするの。相手が誰であってもいいわ。武田君でも他の男でも構わない。問題は私が多面的に考えず直線的、単純に考えていたということなのよ」
「じゃあ聞くが十年も待った僕はどうなるのだよ。いくら朝子がピカソのキュビズムの思想が自分の見方を変えたと言っても僕はそんなのは単なるナルシストだと思う。今ここに拳銃があるのなら武田をきっと撃つだろう、果歩にしても同じだよ。みんな最初から騙していたのだ。その事実の見方を変え、捻じ曲げてしまうのはどうなのだ。今はのぞみちゃんを説得出来るかもしれないが、いずれ話さないといけない時期が来る。あなたの父親は私を暗闇の中で襲って誰か分からないのよって言っても成人したのぞみちゃんは納得するだろうか。朝子の考え方は一方的で都合のいい解釈だよ。被害者は自分だけだと言っているように聞こえるけど僕にしても被害者なのだ。勝手な解釈するなよ」
僕は今まで十年間我慢をしていたことが堰を切ったように朝子を攻撃するしか方法を知らなかった。そうすることが逆に朝子傷つけることになることは理解していたがその気持ちさえも破壊された。
「圭ごめん、確かに私は私なりの解釈で勝手だったかもしれない。十年前の被害は私だけではなく圭も同じように大きな傷を抱えさせてしまった。でもそう解釈することで凄く納得することが出来たの。圭のことをないがしろにしたということでは決してないけど結果的に追い込んでしまったことはごめんなさいとしか私には言えない。お願い、もう少し時間を頂戴。私には圭しか味方がいないのだからこれだけは信じて欲しいの」
朝子はそう言って小指の爪を強く噛み白い指に血が滲んだ。僕は将来のことを考えたら朝子と一緒になることが一番大事なことのように思える。守ってあげるのは自分しかいなく今の朝子は絵を描いて理屈的には解決しても現実には支えてやらないと子供を守ることはできない。朝子が見たあの大きな火柱を立てた手力雄神社の火祭りがこの神聖な静寂の中で鵜飼の篝火と同じように重なって見えたというその事実は、何故か鵜飼の篝火が水面を真っ赤に染め幻想的に演出する風景が余計僕達の心を駆り立てる。爽やかな風が篝火の火を長良橋に向かって攻めて来るようだ。
「やはり見える」
「篝火の中にピカソの光が確実に見える。何か分かった気がする。私の拘りは自分勝手な解釈でご都合主義だったかもしれない。でも自分自身で解決するしかないのよ」
その時僕は朝子が残していった赤いボールペンを思い出し内ポケットから取り出した。
「このボールペン忘れていたから返すよ。今まで使わせてもらっていた」
「このボールペンはわざと置いていったのよ。いわばSOSだったかもしれない。赤は私には血の色だった。私の体には呪われた血が流れているのかもしれないとあの時は思った。でももうみんな終わったわ」
朝子は僕から受け取った赤いモンブランのボールペンをじっと見つめたあと何を思ったのか無造作に長良川に投げ捨てた。僕は「あっ」と声を出しそうだったが押し殺し朝子の顔を見ると、彼女は長良川の流れに向かって微かに笑っている表情を僕は見逃さなかった。それはまるで忌まわしい過去を葬り去った後の爽やかな感じに見えた。僕は朝子の実家で見た薔薇の花がテーブルに二輪落ちている絵を不意に思い出した。確実に一輪は僕自身に違いない。その時急に朝子は小走りに橋の下に再び降りていく。慌てて後を追って走ったが彼女の姿は見失うほどの早さで長良橋の下に通じる道路を潜っていった。
「圭、確かな手応えではないかもしれないけど間違いなく今まで迷って隠してきたものが見えてきたわ。今から四国に帰る、今からだと新幹線の最終には十分間に合うしのぞみのことも心配だから」
そういって朝子は僕の目をじっと見つめた。
「圭、ありがとう。圭に会えて本当に嬉しかった。十年目のワインの味美味しかったよ。圭には私の我儘で辛い思いをさせて本当にごめんなさい」
朝子は僕の温もりを確認するように抱きつき背中を何度も撫でた後、長良橋の入り口にゆっくり上がってタクシーに手を挙げた。彼女は止まったタクシーに乗り込んだ。
「圭、元気でね。また何処かで会えるといいね」
「朝子、迎えに行くよ」
「えっ、何?聞こえないわ」
「迎えに行くから」
僕はタクシーの窓を開けた朝子に向かって大きな声でいうと朝子は黙って笑顔を見せた。朝子を乗せたタクシーは暗闇の雑踏の中に消え、僕はその時朝子が言った言葉が、突然家を出たあの時のメッセージと同じ事に気が付いた。
「また何処かで会えるといいね・・・・・・」
了