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第9話

 玄関ホールに通されたフィリクスとアーベルは、正面に飾られた大ぶりの花瓶に目を留めた。


 そこには、艶やかな黒百合が中心に据えられ、周囲には燃えるような赤いダリアと、鋭い棘をもつ紫のアザミが咲き誇っていた。白いクレマチスがそれらの隙間を絡むように這い、不穏な静けさと緊張感を纏っている。


 見事な構成だった。だが、それは温かく客人を迎えるための装いとはほど遠い。


「……殿下。これは、看過できません。どう見ても、あからさまな拒絶です」


 アーベルが小声で訴えるように言うと、フィリクスは少しだけ肩をすくめた。


「いいじゃないか。花は花だ。美しいことに変わりはない」


 その口調には、苦笑とも、楽しげともつかぬ響きがあった。


「ようこそお越しくださいました」


 ルクレツィアが、セレナとヴィタを伴って姿を現した。揃いの微笑みは、どこか仮面のように整っている。


「アストリア侯爵夫人、突然のご訪問をお許しください」


 フィリクスが丁寧に一礼する。相変わらずの完璧な所作に、ヴィタが感心したように眉を上げた。


「もちろんですわ、殿下。ですが、昨日お手紙をお出ししたはず……届きませんでしたか?」


「いえ、確かに拝見いたしました。またお風邪を召されたとのことで……せめてお見舞いにと」


「まあ、恐縮です。ですが殿下に風邪を移しては大変です。お早めにお引き取りを」


 ルクレツィアは微笑を崩さず、さらりと告げた。その声音には怒気のかけらもない。ただ、静かな圧とともに、はっきりとした「拒絶」の意思だけが残る。


「すぐにお暇いたします。ただ、このまま引き下がるわけにも参りません」


 フィリクスの声には柔らかさがあったが、譲らぬ意志も感じられた。


「先ほど、使用人の方々も寝込んでおられると伺いました。それほどの流行であれば、看過できません。みすみす放置するなど、到底できることではありません」


 王太子の言葉に、セレナが小さく息をのむ。ルクレツィアは片眉をわずかに上げたが、依然として柔和な笑みを保っていた。


「殿下にそのようなご心配をおかけするなど、あまりに恐れ多いことでございます」


 その言葉に、フィリクスは目を細めた。微笑みは崩さず、けれど静かな熱が宿っている。


「アストリア侯爵夫人。私は、こちらのご令嬢に求婚中の身です」


 一拍、意図的に間を置いた。


「であるならば、使用人の方々も、クララ嬢にとっては大切なご家族も同然。これは王太子としての職務ではなく、一人の男としての心からの案じにございます」


 その声音は静かだったが、言葉には揺るぎない誠意と自信が宿っており、アーベルですら返す言葉を失った。


「……では、応接室へどうぞ」


 ルクレツィアは無言で一礼し、フィリクスとアーベルを応接室へと案内する。


 その時――


「きゃっ!」


 ヴィタがふらついた拍子に、近くの花瓶に手をぶつけてしまった。


 ガラスの音とともに花と水が床に飛び散る。


「……大丈夫ですか!? 義姉上――」


 アーベルが声を上げるより早く、フィリクスがヴィタのもとへ駆け寄った。


「お怪我は?」


 白い手袋をはめた手が、まっすぐに差し出される。


 それは気品をまといながらも、実に自然で迷いのない動きだった。


「……あ……ありがとうございます」


 戸惑いながらも、ヴィタはその手を取った。


「立てますか?」


「は、はい……」


「それは、何より」


 フィリクスは柔らかく微笑んだ。その笑みは、気遣いと余裕を兼ね備えていた。


「殿下! お御足が――」


 床に広がった水に気づいたアーベルが慌てて声を上げるが、


「大丈夫だ。少し濡れただけだよ。それより――」


 フィリクスは落ち着いた声で続けた。


「花瓶も花も、水も片付けよう。今、使用人たちは休んでいるのだろう? か弱い令嬢ひとりでは、大変だ」


「……殿下……」


 アーベルは言葉を失い、絶句した。


(……いや、絶対この状況を楽しんでる!)


 この顔は見覚えがある。あの、謎に満ちた“言い訳手紙”を持ってきた時とまったく同じだ。目元は誠実を装っているくせに、口元だけがわずかに愉快そうにゆるんでいる。

 次に何を仕掛けてくるか、自分でも楽しみにしている、そんな顔だ。


(これはもう、“未知との遭遇”を楽しんでる……!)

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