第4話
ようやく、応接室のソファに腰を下ろす。深く息をついた使者は、目の前に静かに座るルクレツィアへと視線を向け、慎重に切り出した。
「……それでは、本日こちらを訪れた理由について――」
「お茶の準備が整いましたわ」
重なるように、セレナの声が響いた。あまりにも完璧なタイミング。いや、完璧すぎると言うべきか。
銀の盆に白磁のティーセットをのせて、長姉セレナが優雅に現れる。その笑顔は絵画のように美しいが、どこか底知れない。
「産まれて初めて淹れたお茶ですの。どうぞ、心ゆくまでご堪能くださいませ」
「は、初めて……!? いえ、では私は――」
「まあ、遠慮なさらず。せっかくですもの、どうぞ召し上がってくださいませ」
断る隙すら与えぬまま、目の前に白磁のカップが置かれた。透明に近い薄い琥珀色の液体。あまりに淡すぎるその色には湯気すら乏しい。
使者が口を開こうとした瞬間、ルクレツィアがふわりと微笑みながら遮る。
「その前に、お茶が冷めてしまいますわ。お話はそれからでも遅くはありませんでしょう?」
優雅で穏やかな言葉遣い。しかしその声には、有無を言わせぬ王者の威厳すら滲んでいた。
使者はごくりと喉を鳴らす。手元のカップがやけに重く感じられた。
(……なぜそこまで勧める? まさか……毒……?)
不安が脳裏をよぎるも、すぐに打ち消す。いくらなんでも、王家の正式な使者に毒を盛るなど――いや、まさか、まさか。
ふと視線をあげると、セレナが静かに微笑んでいた。その笑顔はどこか楽しげで、なにかを企んでいるようでもある。
「……では、いただきます」
覚悟を決め、そっとカップを口元へ運ぶ。
――ひと口。
舌に触れた瞬間、言葉を失った。想像の遥か上をいく不味さ。ぬるく、渋みだけが妙に際立ち、まるで何かを間違えたかのような風味が口内を支配した。
(な、なんだこれは……!)
顔には出さないよう努めたが、喉がごくりと音を立てたのは隠しようがなかった。
「いかがでしたか?」
キラキラと期待に満ちた瞳で、セレナが身を乗り出して感想を求めてくる。
「……非常に……その……個性的な味で」
「まあ!美味しかったのですね。嬉しいわ!では、もう一杯どうぞ」
喜々として、セレナは空いたカップに無慈悲にお茶を注いだ。
(勘弁してくれ……)
叫びたい内心に気づいている者などいない――いや、もしかすると気づいた上で楽しんでいるのではないか。そんな疑念が使者の脳裏にちらついた。
「……では、いただきます……」
諦めとともにカップを手に取り、そっと口をつける。
期待を裏切らない、ぬるくて薄い苦味がじわじわと舌に広がった。
「いかがかしら?」
セレナが嬉しそうに身を乗り出してくる。
「……ええ……その……」
「まあ、それはよかった!では、もう一杯どうぞ」
にこやかにカップを取り上げ、容赦なく注ぎ足すセレナ。
(……ここは地獄か)
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ようやく訪れた中座の時間――使者はお手洗いに逃げ込むようにして、深く息をついた。
(次は……何が待っているんだ……?)
冷たい水で顔を洗っても、不安は拭いきれなかった。
だが、王家の名を背負っている以上、ここで引き下がるわけにはいかない。
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気を取り直して戻った使者は、応接室で再びルクレツィアと対面した。
「……本題に入らせていただきます」
「あら?なんでしたかしら?」
とぼけたような口調のルクレツィアは、脇に控えるヴィタにさりげなく目配せする。
「……こちらに“クララ”という名のお嬢様がいらっしゃいますね? 金髪で、青い瞳の……」
「おりますわ」
「そのお嬢様が本日、王太子殿下の“呪い”を解かれました。つきましては、王太子妃として王宮にお迎えしたく……これは、国王陛下、王妃陛下、そして王太子殿下、三名の総意でございます」
「まあ、それは結構なことですわね。でも――きっと人違いですわ」
ルクレツィアは微笑を崩さぬまま、さらりと言い切った。
「いえ、確かに“アストリア侯爵家のクララ”とご本人が名乗られました」
「あらあら? 不思議なこともあるものですわね」
うっすらと首を傾げながら、ルクレツィアは言葉を重ねる。
「先ほども申し上げました通り、この屋敷では“悪質な風邪”が流行っておりますの。クララも例にもれず、昨夜から高熱を出して寝込んでおります。今日など、ベッドから出ることすらできておりませんのよ」
そのままの流れで、ヴィタが一歩、使者の前へと進み出る。
「こちら、次女のヴィタです。金髪に青い瞳――父譲りの特徴ですわ。夫の妹君、そして姪たちも皆この通り」
ルクレツィアは優雅な仕草でヴィタの肩に手を置いた。
「この国には、“金髪で青い瞳”の娘など珍しくもありません。名乗られたからといって、本物だと断言なさるには根拠が薄弱ではなくて?」
「……しかし、それでは……」
「もし確証もないままクララを王宮に連れて行き、後に人違いだと判明したなら……それこそ、王家の威信に関わる大事になりますわ」
微笑はそのままに、ルクレツィアの声音だけがほんの少しだけ低くなる。
「――ですから、念には念を。お引き取りのうえ、改めてご確認なさるのがよろしいかと存じますわ」
ルクレツィアが微笑みながらそう言い切ると、使者はもう言葉を失っていた。
“万が一”という可能性を口にされてしまえば、使者の立場ではどうすることもできない。
それがたとえ、どれほど理不尽に感じたとしても――。
「……確認いたします」
「ふふ。ぜひ、本物の“運命の方”が見つかりますように。心から祈っておりますわ」
使者は小さく息を吸い込み、わずかに声を震わせながら問い返す。
「……では、仮にお嬢様が“本物”であった場合は――王宮へお越し頂けますか?」
「その件は、夫に伝えまして判断を仰ぎます。ご連絡差し上げるまで、どうかお待ちくださいませ」
「……陛下には、そうお伝えします」
それだけを残し、使者は踵を返して足早に屋敷を後にした。
その背に、ヴィタが手を振りながら明るく言う。
「気をつけて帰ってね~!風邪、うつらないようにね」
使者は振り返らずに、扉の向こうに姿を消した。