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第3話

 王家の使者が扉を叩く。だが何度叩いても、屋敷の中からは誰一人として出てこない。


「……ここはアストリア侯爵家ではなかったのか?」


 使者は眉をひそめ、後ろの騎士に顎で指示を出す。騎士が周囲の通行人に尋ねに行くと、ほどなく戻ってきた。


「間違いありません。この屋敷は確かにアストリア侯爵家のものだと、皆が言っています」


「ふざけているのか……私が王家からの正式な使者だと知っていて、この無礼……?」


 使者の額に、青筋が浮かぶ。


 彼は苛立ちを隠そうともせず、今度は拳で扉を激しく叩いた。


 すると――あっけないほど簡単に、扉がゆっくりと開いた。


 現れたのは、白髪の老執事だった。少し息を切らせながら、額にハンカチを当てている。


「いやはや、お待たせして申し訳ございません。近頃、どうにも耳が遠くなってしまいましてな……」


 老執事は苦笑しながら、どこか芝居がかったように肩をすくめた。


「……他にも使用人はいるはずでしょう」


 不信感をあらわにする使者に、執事は一つ咳払いをして、声を潜める。


「実は……屋敷の中で、少々悪質な風邪が流行っておりましてな。今や、動けるのはわたくし一人だけなのです」


「……本当か?」


 使者は眉を吊り上げたが、執事は泰然と笑みを浮かべたまま、扉の奥へと身を引いた。


「さぁさ、中へお入りください。奥様がお待ちかねですので……」


 使者が屋敷の中へ足を踏み入れると、まず目に飛び込んできたのは、玄関ホールに据えられた銀の花器だった。磨き上げられた大理石の床に反射する陽光の中、紫がかった背の高い花が中心に堂々と咲き、その周囲を柔らかな白い花々が優雅に囲んでいる。


(……なかなか趣味がいい。これは、歓迎の意……か?)


 使者が足を止めて花を見つめていると、すぐ脇に立っていた執事が微笑みながら言葉を添えた。


「お気づきになりましたか。こちらは奥様が今朝生けられたものです。

 中央はジギタリス、そして周囲には白のアストランティア、スカビオサ、百合をあしらっております」


「……ジギタリス、とな?」


 使者はその名にわずかに眉をひそめたが、すぐに顔を取り繕って微笑んだ。


「いや、実に見事ですな。楚々として、どこか奥ゆかしい」


 そう口では褒めながらも、どこか背筋に冷たいものが走ったのは、気のせいではない。



  

「ようこそお越しくださいました」


 優雅に一礼しながら、アストリア侯爵夫人ルクレツィアとその娘ふたりが玄関へ姿を現した。


「急な訪問をお許しください、侯爵夫人」


「いえ、ご無礼だなんて。わたくしたち貴族は、王家に仕える身ですもの。突然のご訪問であっても、もちろん歓迎いたしますわ」


 言葉遣いは丁寧だが、その声音にはどこか刺のような硬さが混じっていた。だが、夫人も娘たちも、笑みの形だけは崩さない。


「とはいえご覧の通り、困ったことに使用人たちが皆、悪質な風邪で寝込んでしまっておりまして……。お茶の一杯もお出しできず、失礼をお詫びいたしますわ」


「いえいえ、お気になさらず。それより本日の要件ですが……」


「まあ、そうでしたわね。セレナ、あなたがお茶を淹れてさしあげて」


「ええ、お母様」


 長姉セレナは微笑みを浮かべたまま、優雅に頭を下げる。


 長姉セレナは笑みを崩さぬまま、優雅に一礼した。


「さあ、どうぞ。立ち話では疲れてしまいますわ」


 ルクレツィアが静かな手振りで、応接室へと使者を促す。


 その瞬間だった。


「きゃっ!」


 次姉ヴィタが、わざとらしく花瓶の台に袖をひっかけた。勢いよく倒れた花瓶から水が跳ね、使者の靴とズボンの裾を容赦なく濡らす。花々は床に散り、みるも無残な状態だ。


「まあ、なんということ……失礼を……」


 侯爵夫人ルクレツィアは、あくまで上品な声音で嘆息し、懐から取り出した刺繍入りの白いハンカチを差し出した。


「娘が粗相をいたしまして。本当に申し訳ありませんわ」


 微笑みはそのまま、声にもわずかな揶揄すら感じさせない。


「……い、いえ……大丈夫です……」


 使者は引きつるような笑みを浮かべながら、そっと視線を逸らした。差し出されたハンカチを受け取る指先は、かすかに震えている。



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