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第1話

 幼い頃、父が手作りの望遠鏡を作ってくれた。

 普段はただの光の点にしか見えなかった星々が、その望遠鏡を通すとぐっと身近に感じられたのを覚えている。


「あっ……見えた!本当に……光ってる……!」


「うまくできたかわからんけど……見えるか?」


 父は少し照れくさそうにそう言いながらも、その声にはどこか誇らしげな温かさがあった。


「クララ、星座のことは知っているかい?」


「いいえ、お父様」


 父はゆっくりと本のページを開き、そばに置いたランタンの柔らかな光を当てた。

 本の中には、今まさに夜空に瞬く星たちが描かれていて、それぞれが線で結ばれ、神々の姿を形作っている。


「星をつなげば、神々のかたちが見えてくるんだ。だから、この国では星に祈りを捧げるのさ」


 幼いクララはその本を見つめながら、小さな声で答えた。


「私も……星座が好きです」


 普段なら騒がしい姉たちがいる場所も、今は静かだった。星に興味を示さない彼女たちは、この時ばかりは姿を現さない。


 星を見上げるこの時間だけは、父とクララの二人だけの特別なひとときだった。

 クララはその時間が、何よりも愛おしかった。



 ――


 悪しき魔女によって、王太子殿下が「眠りの呪い」を受けたらしい。

 その呪いは――運命の相手からの口付けによって、のみ解けるという。


 まるで絵本の中の話のようだ。だが現実に、王太子殿下は眠り続けており、どんな手を尽くしても目覚める気配はない。


 ついに国王はお触れを出した。「王太子に口付けを試みよ」と。


 王太子が目覚めれば、その者は未来の王妃となる。

 目覚めなかったとしても、口付けを行った娘には、わずかながら報奨金が支払われる。


 その知らせが広まると、王宮の前には毎日、若い娘たちが長蛇の列を作った。


「まだ王太子殿下は目覚めないそうよ」


「まあ……お可哀想に」


 呪いをかけられた理由は、いまだ不明だ。

 だが王太子殿下は品行方正で容姿端麗、学問・武芸ともに非の打ちどころがない――と、世間では評判だった。

 そんな人物が魔女の怒りを買うようなことをしたとは思えず、人々は次第に彼に同情しはじめた。


 いつしか人々は、「彼にはきっと、運命の相手が現れる」と信じるようになっていた。


「そんなに言うなら、お姉様たちも並んでみればいいのに」


 淡い金髪を軽く結わえ、グレーがかった青い瞳を細めながら、クララは皮肉まじりにつぶやいた。


 それを聞いた姉たちは、そろって呆れたようにため息をつく。


「何を言ってるの? とっくに行ったわよ」


 そう淡々と告げたのは、長姉のセレナだった。


 母譲りの深い栗色の髪を緩やかにまとめ、琥珀色の瞳を涼しく光らせる。彼女に見つめられると、まるで侯爵夫人その人に叱られているかのようで、クララは思わず背筋を伸ばす。


「行ってないの、クララだけじゃない? 王都中の娘がもう並んでるんだから!」


 次姉のヴィタが、少し大げさに肩をすくめながら言った。


 クララにもっとも似ているのはこのヴィタだった。父譲りの淡い金髪に、青みの強いアイスブルーの瞳。同じ素材でできているのに、ヴィタの髪は柔らかい巻き毛でふんわりと華やか。表情も常に明るく、どこか人懐っこい。


 まさかと思っていたが、ふたりの表情は真剣そのものだった。

 悪ふざけでも、姉妹の冗談でもない――これは、本気なのだ。


「だ、だって……許嫁でもない相手と、口と口を……! そんなの、できるわけないじゃない」


「相手はあの王太子殿下よ? できない理由がどこにあるの?」


「しかも報奨金も出るのよ? 一石二鳥でしょ!」


 姉たちは当然のように言う。あまりにも堂々としているので、クララのほうが間違っている気がしてくる。


 頭がクラクラした。

 だが王宮の前に並ぶ行列を思えば、本当に非常識なのは自分のほうなのかもしれなかった。


「クララも行きなさいよ。目覚めれば王妃よ? しかもあの王太子殿下が結婚相手よ? 最高じゃない」


「そうそう! もし駄目でも、新しいリボン買えるくらいにはなるんだから。行くべきよ!」


 姉たちは目を輝かせ、おとぎ話の主人公にでもなったかのように語る。

 けれどクララには、そもそも結婚する気など毛頭なかった。


「お姉様方……私は結婚はせず、修道女になって一生を祈りと学問に費やしたい。そう、何度も申し上げましたよね?」


 修道院に入れば、誰にも咎められず天文学が学べる。

 「女のくせに」と鼻で笑われることもないし、誰の妻にも母にもならず、自分の頭と心で世界を見つめていける。


 それが、クララの望む生き方だった。


 なのにどうして、みんな結婚だの王妃だのと“夢みたいな未来”に憧れてばかりいるのか。

 クララには、そのほうがよほど不思議だった。


「修道女? またそれ? あんた、自分の顔を見たことある? 姉妹の中で一番美人なのよ。ほんっと、もったいない」


「そうよ! 王太子殿下に選ばれるかもしれないのに、なぜわざわざチャンスを捨てるの?」


 クララは、ふうっと小さく息を吐いた。


「……見た目が美しいからって、どうして自分の人生を“差し出さなきゃ”いけないの?」


「差し出すって……なんでクララはいつも、そう難しく考えるの?」


 セレナの呆れた声に、クララは口をつぐんだ。

 本当は言いたかった。


(お姉様たちが考えなさすぎなんです……)


 けれどそれを口にすれば、十倍返しで説教されるのは目に見えていた。

 だから飲み込む。唇を噛み、黙ってやり過ごす。


「もっと気楽に考えたら? ……そうね、人助けとか」


「――その通りですよ」


 ふいに談話室の扉が開いた。


 入ってきたのは、母ルクレツィアだった。


 長姉セレナと同じ栗色の髪に、琥珀の瞳。色味こそ似ているが、顔立ちはむしろヴィタやクララによく似ており、凛とした美しさを湛えている。


 ただし、雰囲気はまるで異なる。


 母にはヴィタのような人懐っこさはなく、どこか鋭さを感じさせる厳格さがある。けれど、冷たいわけではない。柔らかな口調の奥に、芯の強さと揺るがぬ意志を感じさせる、そんな女性だった。


「クララ。あなた、修道女になりたいのでしょう? それならなおさら、殿下を助けるべきではありませんか?」


 クララは息をのむ。母の言葉は、優しさと責任をひとまとめにして突きつけてくる。


「……で、でも……男性と……その……口と口を――」


「これは儀式です。あるいは――医療行為のようなもの。違いますか、クララ?」


 クララはうつむいた。

 逃げ道がない。理屈でも信仰でも、母の言葉は正しかった。


「は……はい。お母様」


 小さく答えながら、クララは胸の奥に重たい石を落とされたような気がした。


「馬車を玄関前に用意させました。行きなさい、クララ」


「……はい、お母様」


 渋々ながら立ち上がり、用意されたケープを羽織る。

 玄関先には漆塗りの貴族馬車が陽光を鈍く反射していた。


 車輪の軋む音さえ、今はどこか遠くに感じられる。


 その後ろ姿に向かって、ルクレツィアは微笑んだ。


「何も“王妃になりなさい”などとは言っていませんよ。

 殿下は、この国の未来そのもの。お助けするのは、貴族に生まれた者の務めです。……気楽になさい」


 言葉は優しく、笑みも穏やかだった。

 けれどその一言に、クララは完全に口をつぐんだ。


 “貴族の義務”を持ち出されては、もはや何も言い返せない。

とりあえず11話まで投稿して様子を見ます。

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