そして、スイスへ
スイスに着いた日は、空が信じられないほど澄んでいた。
チューリッヒ空港を出て、ふたりで深呼吸をした。
肺の奥にまで沁みるような、冷たい透明な空気。
東京のざわめきがまるごと過去のものになっていくような気がした。
「空の色、違うね」
みくるが言った。
「うん。目が痛くなるくらい青い」
その空はどこまでも続いていて、どこまでも静かだった。
この国で、みくるは旅の終わりを迎える。
そう思うたびに、心が冷たくなる。
でも彼女は、微笑んでいた。
小さなスーツケースを引いて、まるで普通の観光客みたいに。
**
最初に向かったのは、インターラーケンだった。
アルプスの麓に広がる小さな町。
湖と山に囲まれたその場所は、まるで絵の中に迷い込んだみたいだった。
「……すごい。こんな世界、ほんとにあったんだ」
ホテルのバルコニーから、みくるがつぶやいた。
遠くには雪をかぶったユングフラウ。
空と山と湖が、それぞれ別の時間を生きているようだった。
「生きてるうちに見られてよかったな、こういうの」
「……まだ、死ぬって決まってないだろ」
「決まってるよ。私が決めた」
彼女は静かに言った。
その言葉に、俺は何も言えなかった。
強い。やっぱり、強いんだ。
**
翌日は登山鉄道に乗って、ユングフラウヨッホまで登った。
標高3454メートル。
「ヨーロッパで最も高い鉄道駅」──そんな看板の前で、俺たちは自撮りをした。
「……息苦しいね、ちょっと」
「標高のせいか、気持ちのせいか……どっちだろ」
みくるが笑う。
その笑顔が、どこか儚くて、どこか清らかだった。
氷河を見下ろしながら、彼女が言った。
「……ねえ、まだ死にたくないって思っちゃダメかな」
その言葉が、心臓に深く刺さった。
「……思っていいよ。ずっと思ってていい」
「でも、後戻りはしないよ。自分で決めたことだもん」
そう言って、彼女は小さな氷をつまんで舐めた。
冷たくて、無味で、でも何かがこみ上げるような行為だった。
「生きてるって、こういうことなんだね。……身体がちゃんと、感じてるってこと」
「うん」
「それがなくなっちゃうって、怖いな」
みくるの目が、遠くの氷原に吸い込まれていく。
俺はそっと手を重ねた。
「ここまで一緒に来てくれてありがとう」
その言葉に、俺の喉の奥がきゅっと締まった。
ありがとうって言うのは、やっぱり終わらせる側の言葉だ。
**
その夜、ふたりで最後の晩餐をした。
といっても、たいそうなレストランじゃなくて、小さな山小屋風の店。
チーズフォンデュを囲みながら、他愛もない話をした。
小学校の頃の話。
初めて会った日のこと。
コンビニの喫煙所で、あの日、雪が舞っていたこと。
「やっぱさ、出会わなきゃよかったって思った?」
「……いや。むしろ、出会えてなかったら、今よりずっと空っぽだったと思う」
「うん。私も」
その言葉のあと、しばらく沈黙が続いた。
けれど、それは悲しみではなくて、確かさだった。
ふたりの間に流れる時間を、大切に包むような静けさだった。
スイス、インターラーケンの朝は静かだった。
空はまだほんのりと紫を含んでいて、山の輪郭だけが黒く浮かび上がっていた。
ホテルの裏手にある、小さな展望デッキ。
みくるは、そこにひとり立っていた。薄いコートを羽織って、じっと東の空を見つめていた。
俺は、その背中にそっと近づいた。
彼女の横に並ぶと、少し冷たい風が髪を揺らした。
「……寒くない?」
「ううん、大丈夫。……むしろ、こうしてると、まだ生きてるって感じする」
その声は、震えてはいなかった。
強くもなかった。ただ、とても静かだった。
彼女の手の中に、小さな銀色のケースがあった。
中には、細身のタバコが二本。
「最後に、一緒に吸いたいなって思って……持ってきたの」
「……ああ」
俺は彼女の手から一本を受け取った。
たぶん、生まれて初めてタバコを自分から吸おうと思った。
火をつけると、煙がゆっくりと空に溶けていった。
「ねえ、みらい」
「うん」
「ほんとは、死にたくないよ」
その一言に、心臓がきしんだ。
彼女の横顔は朝焼けの光を受けて、かすかに赤く染まっていた。
「まだ、旅行もしたいし、映画も観たいし。……くだらないYouTubeとか、一緒に笑いたいし」
「……うん」
「コンビニの焼き鳥もさ、実は最近ちょっとハマってた。……あと……」
「……まだある?」
「たくさん。ほんとに、たくさん」
みくるの目から、涙が一筋だけ落ちた。
でも、その涙に声はなかった。
嗚咽もしなかった。ただ静かに、頬を伝っていった。
「じゃあ、やめよう。まだやりたいこと、あるなら──」
「……だめだよ、みらい」
彼女の声が、はっきりと遮った。
「ここで引き返したら、きっと私は、自分を許せなくなる。
逃げたって思って、一生、自分を責める。
それに──」
彼女はタバコに口をつけた。ゆっくりと煙を吐いて、空を見上げる。
「……これ以上、苦しみたくないの。
身体が、壊れていくのを感じながら生きるのは、やっぱり怖い。
誰かに“まだ大丈夫”って言われて、どんどん奪われていくのを待つのは……嫌なの」
俺は何も言えなかった。
手の中のタバコが熱を持ち、煙が喉にひりつく。
「みらいがいたから、ここまで来れた。
生きててよかったって思えた。
……でも、だからこそ、これ以上、綺麗なまま、終わりたい」
俺の目にも、涙が滲んできた。
拭こうともしなかった。
「バカだな……俺、なんか、もっとできると思ってた。
最後の最後で……止められるって」
「止められたら、嫌だった」
彼女は微笑んだ。その笑顔が、あまりにも美しくて、息が詰まった。
「私、ちゃんと生きたって思ってる。
短かったけど、後悔はない。……あるとすれば──」
「……なに?」
「もっと早く、みらいに会いたかったな」
俺は彼女の手を握った。冷たかったけど、その温度が、今ここにいる彼女の“生”そのものだった。
「……じゃあ、来世では先に見つけるよ。
雪の中のコンビニでも、喫煙所でも、どこでも探す。絶対」
彼女は何も言わず、目を閉じた。
そして、そっと頷いた。
**
「……やっぱり、不味いな」
最後のひと口を吸って、そう言ったのは俺だった。
みくるが吹き出した。
「うん。不味いよね。……でも、最高の味だった」
そう言って、彼女は俺の手を強く握り返した。
まるで、すべての想いを託すように。
朝日が山を越えたとき、ふたりの影が長く伸びた。
みくるはその光の中で、俺に小さく「ありがとう」と言った。
その言葉が、空へと吸い込まれていく。
もう戻ってこないのだと、俺はやっと、そこで知った。
スイスの空は、信じられないほどに青かった。
昨日まであんなに近くにいたみくるは、もうこの世界にはいない。
それでも、まだ部屋には彼女の香水の匂いが微かに残っていて、まるですぐにでも「おはよう」って出てきそうで──苦しかった。
みらいはホテルのベッドに腰を下ろし、荷物を片付けるふりをしていた。
動かない手、乾いた目、重たい心。
そんなとき、トートバッグの内ポケットに、小さな便箋がひっかかるように入っているのを見つけた。
──To みらい
手書きで、それだけ書かれていた。
一瞬、心臓が止まりそうになって、それから震える手で封を開けた。
(みらいへ)
ねえ、起きたときこれを見てたら、ごめん。
何も言わずに書きたかったの。
あなたの前だと、つい泣きたくなっちゃうから。
旅、ほんとに楽しかったね。
いろんな景色を見て、いろんな笑い方をした。
東京の夜景も、宮城の雪も、スイスの山も、全部ぜんぶ、一生分の思い出になったよ。
でも一番覚えてるのは、
あなたがコンビニの喫煙所で、初めて私に話しかけてくれたときのこと。
「タバコ吸わないけど、ここ落ち着くんだ」って言った顔。
少し緊張してて、でも優しくて、
あのときの空気、いまでもちゃんと覚えてる。
ねえ、みらい。
あなたに会って、私は“死ぬのが怖くなった”よ。
それって、すごく幸せなことだった。
だからこそ、ちゃんと決めたまま終わりたかった。
逃げるように生きるより、
笑って死ぬ方が、私には合ってたの。
最後まで、ちゃんと私のこと見ててくれてありがとう。
言葉にできないくらい嬉しかった。
あなたと過ごした時間が、私の「未来」でした。
……でもさ、
来世とか、奇跡とか、別に信じてないんだけど、
それでももし、どこかでもう一度あなたに会えるなら、
そのときはタバコ、一本ちょうだい。
そしたら今度こそ、
「おいしいね」って笑いながら言える気がするから。
大好きでした。
──みくるより
便箋の文字が滲んで見えたのは、たぶん部屋が少し乾燥していたせいだ。
みらいはそう思い込みながら、それでもこみ上げる感情を止められなかった。
彼女は、最後まで自分の足で立っていた。
笑って、泣いて、叫ばずに、前を向いて──あの空の向こうへ行った。
みらいはもう一度、手紙を胸に当て、目を閉じた。
「……うん。一本あげるよ。そのときは、ちゃんと笑って吸おうな」
そして彼は、いつかまた会える“未来”を、そっと胸にしまった。
未来、未来これにて完結です。
明日にはエピローグだけ投稿しようと思います。