最後の春、最初の旅
「どこか行きたいところ、ある?」
そんなふうに訊いたのは、桜が咲き始めたある日のことだった。
昼と夜の間みたいな光の中、いつもの喫煙所で並んで座っていたとき。
ポケットの中で手をつなぎながら、俺は、できるだけ軽く言ったつもりだった。
「……宮城、かな」
彼女の声は、少しだけ迷いを含んでいた。
でも、それはどこか確かな“願い”だった。
「みらいの地元、行ってみたいなって。……だめ?」
「だめなわけないじゃん」
彼女はほっとしたように笑った。
その笑顔が嬉しくて、俺はすぐに日程を組み始めた。
時間は残されていない。でも、だからこそ、ぎゅっと詰まった旅にしたかった。
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最初の目的地は仙台。
東北新幹線で2時間弱。だけど、景色はまるで別世界だった。
「空、広っ……」
仙台駅を出て、彼女が一番最初に言った言葉がそれだった。
東京の空が狭いなんて、考えたこともなかった。
でも、確かにここには、地面から空まで、余白がたくさんあった。
「……なんか、落ち着くね。喉が軽い」
「俺は子どものころからこの空気で育ったから、わからなかったけど……やっぱ違うんだな」
レンタカーを借りて、ふたりで松島方面へ向かった。
途中、定義山に立ち寄って、名物の三角あげを頬張る。
「これさ、見た目地味だけど、めちゃくちゃ美味しくない?」
「な?」
油揚げを食べながら寺を歩く。
不思議と心が静かになって、無理に会話しなくても苦じゃなかった。
夜は松島の海沿いの旅館へ。
夕飯を食べ終えて、浴衣姿で縁側に並んで座ったとき、彼女がぼそっと言った。
「みらいって、こういう場所で育ったんだ」
「うん。なんか、昔は何もないって思ってたけど……今見ると、すごく大事な景色だったなって思う」
「……いいな。変わらない場所、持ってるの」
彼女の声は少しだけ寂しそうで、その理由がわかる気がした。
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東京に戻って、彼女が言った。
「高いところ、行こうよ。夜景が見えるとこ」
選んだのは、渋谷スカイだった。
ビルの屋上にある展望フロア。
昼と夜の境目を飲み込むように、都会の光が広がっていた。
「……こわい。けど、きれい」
「手、握っとく?」
「バカ」
そう言いながら、彼女は俺の手を握った。
夜風が強くて、髪が踊っていた。
「ねえ……死ぬの、怖くなくなった?」
思い切って訊いた。
答えは少しだけ遅れて返ってきた。
「……逆。怖くなったかも」
彼女の声は小さかった。
夜景のざわめきにかき消されそうで、俺は彼女のほうを向いた。
「楽しいから、怖くなる。……もっと見てたいって、思っちゃう」
「じゃあ……やめる?」
「……やめたら、たぶん後悔する。私ね、怖いのより、後悔するのがもっと嫌なの」
みくるの横顔が、夜の中で淡く光っていた。
誰よりも傷つきやすくて、誰よりも真っ直ぐで、
それなのに、自分の人生を最後まで自分の手で選ぼうとしている。
その強さに、俺は何も言えなかった。
ただ手を握ることでしか、気持ちを伝えられなかった。
**
旅の最後に、京都にも立ち寄った。
早朝の嵐山、誰もいない竹林。
ふたりで歩く音だけが、細く続く道に響いていた。
「これが最後の春なんて、ほんとかな」
「……ほんとだよ。たぶん」
「バカだな、俺……現実味がなくなってきてる」
「それでいいよ。私も、ちょっとだけ夢みたいだもん」
その日の夜、鴨川の近くのベンチで抹茶アイスを食べた。
川の流れと遠くの笑い声だけが聞こえる静かな夜だった。
「ありがとうね、みらい。連れてきてくれて」
「……こっちこそ」
「次はスイスだね」
その言葉に、現実がふっと背後に戻ってきた。
でも、彼女は目を逸らさなかった。
「ちゃんと終わらせようね、最後まで」
**
──夜は、まだ長かった。
けれど、確実に終わりに向かっていた。
そして、その終わりに、俺たちはちゃんと向き合おうとしていた。