選択
「スイス、行こうと思ってる」
それが、彼女の言葉だった。
ある晩、いつものように彼女の部屋で缶ビールを飲みながら、なんとなく流していたバラエティ番組の合間に、ぽつりと。
「旅行?」
俺はそう訊いた。
けれど彼女の目は笑っていなかった。
まっすぐ俺の方を見ていた。
「ううん。……安楽死を受けに行く。正式な手続きを踏めば、日本人でもスイスでは合法で受けられるの」
言葉が出なかった。
なにかが胸の奥で、固く軋んだ。
「……それ、本気で言ってる?」
「本気だよ。ちゃんと調べた。条件も厳しいけど、私は該当する。終末期の診断も、主治医の意見書も手配できる」
「でも……まだ時間あるだろ? それに、今すぐってわけじゃ……」
「たぶん、来年の春は越せないって言われたから。だったら、自分で選びたいと思ったの。どう終わるかを」
彼女の口調は静かだった。
涙も、怒りも、どこにもなかった。
ただ、そこにあったのは覚悟だった。
痛みと向き合い、それを避けるために“死に方”を探すという覚悟。
「怖くないのかよ……?」
俺はようやく絞り出すように声を出した。
「めちゃくちゃ、怖いよ」
みくるは笑った。
けれどそれは、自嘲ではなく“正直な弱さ”の吐露だった。
「でもさ、何もできなくなって、言葉も出なくなって、痛みで毎日泣いて……それを“生きてる”って呼ぶのって、どうなんだろうって思うの」
彼女の手が、そっと自分の胸を押さえた。
「私、ずっと一人でいることを選んできた。
だけど最後だけは、ちゃんと“自分で選びたい”んだ。
苦しむことじゃなくて、苦しまないことを」
それは、どんな決断よりも重い選択だった。
だけど同時に、みくるが誰よりも“生きようとした証”のようにも思えた。
「みらいも、一緒に来てくれる?」
俺は答えられなかった。
けれど、答えはもう決まっていた。
彼女の最期に、俺はきっと立ち会う。
そのとき、俺が泣くことになっても。
その後、立ち直れなくなっても。
——それでも、逃げたくなかった。
「……行くよ。絶対に、行く」
彼女は、安心したように目を閉じた。
それが、まるで未来への祈りのように見えた。