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未来、未来  作者:
3/8

誰にも触れられなかった場所

彼女の部屋は、想像していたよりもずっと静かだった。

音が、しない。時計の針の音すら、聞こえなかった。


ワンルーム、北向きの角部屋。窓は曇っていて、カーテンは半分閉じたまま。

蛍光灯はつけず、ベッド脇の間接照明だけが、かすかに部屋の輪郭を浮かび上がらせていた。


「散らかっててごめんね」


そう言いながら、彼女はコンビニ袋をテーブルに置く。

中にはファミチキとホットスナックと缶ビールがいくつか。

まるで、どこかで壊れかけた学生みたいなラインナップだった。


「いや……思ったより、ちゃんとしてる」


「どんな想像してた?」


「もっとこう……タバコと漫画と空のペットボトルに埋もれてる感じ」


「ひど。どんな偏見?」


「うん、ごめん」


笑いながら、彼女はベッドに腰を落とした。

俺は遠慮がちに床に座り、缶ビールを手に取る。


「俺、あんま飲まないんだけど」


「大丈夫、酔わない程度にしとく。ちゃんと返すから」


「何を?」


「秘密。こっちの話」


彼女の言葉には、時々“鍵”がかかっている気がした。

誰かに見せないように、何かを守るように。

その奥に触れたいと思う一方で、触れたら壊れてしまう気もした。


——沈黙が訪れる。


俺たちは、缶ビールを少しずつ飲みながら、テレビもつけずに、音楽もかけずに、

ただそこに“いる”ことだけを共有していた。


「ねえ、みらいってさ」


ふいに、みくるが口を開いた。


「なんか、ずっと他人に謝ってる感じ、しない?」


「え?」


「ごめんとか、気を遣うとか……そういうの、習慣じゃなくて、クセみたいに出てる。なんで?」


俺は言葉を失った。

思いがけず深いところを突かれた気がした。


「……なんだろうな。子どものころ、親がよくケンカしててさ。空気が悪くなるたびに、自分が何か悪いことした気がしてた」


「ふうん」


「気づくと、人に嫌われないように振る舞うのが癖になってた。怒らせないように、邪魔にならないように……って」


彼女はタバコに火をつけた。

煙が、部屋の中にじわじわと広がっていく。


「……わかるかも」


そう呟いた彼女の声は、さっきよりほんの少しだけ震えていた。


「私、あんまり人と深く関わるの好きじゃないの。関わると、どこかで傷つけるし、傷つくし。だったら最初から一人の方がいい、って思ってた」


「でも、こうして一緒にいるじゃん」


「たまにね。たまに、例外ができる。……それが、みらいだった」


目が合った。

その瞬間、時間が止まったように感じた。


俺は立ち上がり、ベッドに腰かける彼女の隣にゆっくり座った。


言葉はなかった。

でも、それでよかった。


彼女は俺の肩にそっと頭を乗せた。

重くなかった。でも、確かに“重さ”を感じた。

それは、彼女がずっと一人で抱えていた、孤独の重さだったのかもしれない。


外では雪が降り始めていた。

カーテン越しに見える白い景色が、部屋の静けさに溶けていく。


「みらい」


「うん?」


「いま、ちょっとだけ、生きてていい気がする」


その言葉に、俺は何も返せなかった。

ただ、彼女の髪にそっと指を置き、小さく頷いた。


朝、目が覚めたとき、俺はベッドの端で縮こまっていた。

毛布の半分は、となりで寝息を立てている彼女に掛かっている。


寝顔を見つめながら、「こんな朝が来るなんて」と思った。

昨日までは、職場と家の往復だけだった。

人と深く関わることを避け、静かに生活していた俺が、今はこうして誰かの隣で目覚めている。


——ああ、たぶん、好きなんだ。


そう思った。


彼女の髪は寝癖で少し跳ねていて、フードの中にしまいきれずに首元にかかっていた。

ピアスの金属が頬に触れているのが痛そうで、けれどそれすらも彼女らしかった。


俺は起こさないようにベッドを抜け出して、キッチンに向かう。

冷蔵庫を開けると、牛乳とヨーグルトと、期限切れの卵がひとつ。

その横に、コンビニのパックご飯があった。


とりあえず、ご飯とインスタント味噌汁を用意して、彼女の目覚めを待つ。

時計を見ると、もう9時を過ぎていた。


「……なにこれ」


彼女が目をこすりながら起きてきた。

俺が差し出した味噌汁を見て、眉をひそめる。


「味噌汁って、朝から……」


「朝は味噌汁だろ」


「昭和かよ……」


けれど、彼女は素直に受け取って、一口すすると「……あったかい」と呟いた。


それが、何よりも嬉しかった。


「また来てもいい?」


俺がそう訊いたのは、食事が終わってからだった。

彼女はしばらく黙ったまま、空になったお椀を見つめていた。


「来たいなら、来れば?」


それは照れ隠しでも、気遣いでもなく、ただまっすぐな言葉だった。

その“雑に見えて優しい言い方”が、みくるらしかった。


それから、俺たちはゆっくりと“恋人”になった。


何かが劇的に変わったわけじゃない。

ただ、彼女が少し笑うようになって、俺が少し素直に話すようになった。

喫煙所のベンチが、ふたりにとっての秘密基地のようになり、

週末はみくるの部屋で映画を観たり、ダラダラしたりした。


雪は溶け、街の景色が少しずつ春めいていった。

彼女は春が嫌いだと言った。


「全部、薄くなるから。空気も、色も、人の感情も」


けれど、俺は春が来るたびに少し嬉しかった。

彼女と過ごす時間が、少しでも長く続くようにと、願ってしまうから。


——そんなある日。


彼女がベンチで、何も言わずに煙草を吸っていた。


いつもなら「よ」とか「寒いね」とか、何かしらの言葉を投げてくれるのに、

その日はただ、黙って煙を吐いていた。


「どうした?」


そう訊いても、彼女は首を横に振るだけだった。


その夜、彼女の部屋で、俺は初めて“異変”を感じた。

体が冷たい。手がやけに震えている。

けれど、彼女は「寒いだけ」と笑ってごまかした。


何かを隠している。

けれど、それを問い詰めるのが怖かった。


そのときの俺はまだ、“変わらない日々”が永遠に続くと、どこかで信じていた。

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