名前を知らない君へ
次に彼女に会ったのは、三日後の夜だった。
今度は、先に彼女がいた。
ベンチの端で、脚を組んで、フードを深くかぶって。
左耳のピアスが、夜の街灯に小さく反射していた。
その姿を見た瞬間、俺の胸の中で何かが微かに跳ねた。
自分がこんなにも、誰かの存在を待っていたんだと、そこでようやく気づいた。
みくる。
名前を知った途端に、彼女の姿がまるで別の色を持って見えた。
無口で、無愛想で、どこか壁のようだった存在に、たった一つの音が宿っただけで、風景が変わる。
それは、初めて好きな歌のタイトルを知ったときと、少し似ていた。
「よ」
俺がベンチに座ると、彼女は小さく片手を上げた。
そのラフな仕草が、なんとなくうれしかった。
「こんばんは」
と答えると、彼女は小さく鼻を鳴らして、「それって敬語じゃん」と呟いた。
「そう?」
「……堅い。会社員って感じ」
俺はちょっと笑って、「会社員だからね」と返す。
それ以上の言葉はなく、また静かな空気が戻ってきた。
だけど、その沈黙はもう、最初の頃みたいな“他人同士の静けさ”じゃなかった。
そこには、互いに少しずつ様子を伺い合うような、柔らかな余白があった。
彼女のタバコの火が、時折こちらの視界にちらちらと映る。
その度に、ふとした拍子に彼女の指先を見てしまう。
細くて、冷たそうで、でもしっかりしていて、どこか傷が多いように見えた。
「みらいは、なんでここ来てんの?」
その日、彼女は唐突にそう訊いてきた。
質問に答える代わりに、俺はしばらく黙って空を見た。
「……なんでだろうな。寒いの、好きじゃないのに、雪が降ると落ち着くんだよ」
「ふーん」
「それと……なんか、最近、誰かといたいって思う瞬間がある」
そう口にして、自分でも驚いた。
他人にそんなことを言ったのはいつぶりだろう。
「誰でもいいの?」
「……違う。誰でもいいわけじゃない」
「ふーん、ちゃんとしてんだね」
彼女はタバコの火をコンクリートに擦りつけて消した。
その仕草が、妙に綺麗だった。
「みくるは? なんでここ来てるの?」
「んー……息しに?」
彼女はそう言って、ふっと笑った。
でもその笑顔は、どこか寂しげだった。
まるで、何かを思い出したくないように笑っていた。
沈黙が降りてくる。
タバコの匂いが、俺の鼻にじわりと残る。
嫌なはずなのに、不思議と不快じゃなかった。
彼女の存在は、俺にとって徐々に“日常”になりつつあった。
それはまるで、冬に慣れていく体のようなものだった。
冷たい空気の中に温もりを探すような、そんな感じ。
——この人と、もっと話してみたい。
理由なんて、きっといらない。
ただ、彼女の声をもっと聞きたいと思った。
三週間が経っていた。
いつの間にか、週に三度はコンビニ前のベンチで彼女と並ぶようになっていた。
言葉が増えたわけじゃない。
でも、同じ缶コーヒーを買ってみたり、
彼女のタバコの火を何気なく借りたり、
そんな“ちいさな共有”が増えていた。
不思議なことに、誰かと喋るのが苦じゃなくなっていた。
むしろ、話さない夜の方が物足りなさを感じていた。
ある夜、彼女がいつもより遅れてやって来た。
「寒すぎて寝てた」
そう言って、フードを深くかぶったまま、ベンチに腰を落とした。
「……ずっと部屋にいたの?」
「うん。布団の中でスマホ見て、YouTube流して、寝て……起きたら夜」
「いい日だったんじゃない?」
「最悪。生きてる意味ないなって思った」
笑いながらそう言う彼女に、俺は返す言葉を探したけど、なかった。
だけど、それが“みくる”なのだと思った。
「……飯、食った?」
「食ってない。カップ麺買おうか迷ったけど、外に出たら寒すぎて躊躇した」
「食いに行くか」
「え?」
「……飯、行こう。コンビニじゃなくて、ちゃんとしたとこ」
彼女は目を丸くしてこちらを見た。
ほんの数秒、何かを計算するように沈黙したあと、小さく「……いいよ」と呟いた。
⸻
その夜、ふたりで初めてコンビニの外に出た。
雪は止んでいて、地面はぐしょぐしょに濡れていた。
俺たちは駅の近くの、古びた喫茶店に入った。
昭和の香りが残る、薄暗い店内。
ストーブの音がかすかに唸り、窓には結露が張りついていた。
「メニュー、全然読めないね」
「だいたいナポリタンとピラフしかないから」
「それ、いいの?」
「たぶん、どっちでも同じ味する」
俺たちはお互い笑い合った。
それは初めて“普通の人間として”笑い合った瞬間だった。
彼女はピラフを頼み、俺はナポリタンにした。
出てきた料理は、思っていた以上に味が濃くて、ケチャップの主張がすごかったけど、それでもうまかった。
「実家ってどこ?」
「宮城。山の方。田舎すぎてコンビニない」
「マジか、文明の敗北だね」
「うるさい」
彼女が笑った。
その笑顔は、どこか寂しさと近さが混ざったような、複雑な色をしていた。
「みらいは?」
「埼玉。なんか中途半端でイヤになる」
「わかる。空気が薄い街って感じ、するよね」
「それ、どういう意味?」
「……説明できないけど、わかるでしょ?」
「……まあ、わかるかも」
そんな風に会話を続けるのは、思ったよりも簡単だった。
彼女は不器用に、けれど丁寧に言葉を選んでいた。
それが俺にとっては、とても大切な時間に思えた。
喫茶店を出ると、夜はすっかり更けていて、駅前のイルミネーションがひっそり灯っていた。
「じゃあ、またベンチで」
「うん、また」
それだけ言って別れた。
触れることも、名残惜しさを伝えることもなかったけれど、
俺の心の中には、はっきりと“会いたい”という言葉が芽生えていた。
彼女といることで、失っていた時間が少しずつ戻ってきていた。